海に沈むジグラート 第74話【非力なる者の勇気】

七海ポルカ

第1話 非力なる者の勇気





 馬車から降りてネーリが姿を現すと、駐屯地の入り口を守っていた二人の兵は明るい表情を浮かべ、敬礼をしてくれた。ネーリも「こんにちは」と笑顔で歩いて行って、お辞儀をする。

「あの……今、僕に絵を依頼して下さってる顧客の方が、【竜の森】の絵を見たいと仰ってて。駐屯地を歩き回ったりしないので、絵のある新しい騎士館まで馬車で入ってもいいでしょうか? 用事が終わったら、すぐ帰りますから」

 竜騎兵が馬車の方に視線をやると、窓から顔を出した令嬢が、礼儀正しく会釈をしたのが見えた。

「ご婦人ですか?」

 少し驚いたように彼は言った。

 ここがどういうところか相手は分かっているのかな、という意味だろう。

 ネーリは笑った。


「竜がいることは、彼女は分かっています。前にも一度、僕を訪ねてここまで来てくれたことがあるんです。その時に門までフェリックスが見に来てて、その時に遠目からですが、竜も見てます。騒ぎ立てたりしない方なので、大丈夫だと思います」


 兵は目を瞬かせた。

「フェルディナント将軍か、トロイさん、今日はいらっしゃいますか? いるなら僕から、お願いしてみます」

 兵の一人が笑んだ。

「団長が今、駐屯地にいらっしゃいますが、ネーリ様がいらっしゃった時は逐一許可を取る必要はないと、我々に命じられていますよ。それはネーリ様が伴って連れてこられた客人にも、当然適応されます。ネーリ様は騎竜がどういったものか、よくご存知ですから。

 騒ぎ立てるような方はお連れしないでしょう。ご案内しましょうか?」

「僕もついて行くので大丈夫です。ずっと、彼女についていますし」

「そうですか。ではどうぞ、お通り下さい」

「もしかしたらフェリックスが建物内にいるかもしれませんが」


「ネーリ様に対してフェリックスは従順ですが、お客人にはそうとは限りませんので、どうぞお気を付けて。新しい騎士館の方にも人がおりますから、何か困ったことがあった場合はどうぞ声を掛けて下さい」


「ありがとうございます。今日は絵を見たら帰りますが、また来た時にフェルディナント将軍にはお礼を言っておきます」

 ネーリはもう一度二人にお辞儀してから、馬車に戻った。

「特別な許可はいらないって」

 アデライードは安堵のため息をつく。

「良かったですわ。神聖ローマ帝国の方は寛容ですね」

 馬車が走り出す。入り口を通る時にネーリとアデライードは馬車の中から二人の騎士に挨拶をして通り過ぎた。

「アデルさんはフランス艦隊の駐屯地には行ったことがある?」

「いえ。私、軍の施設は立ち入るの初めてですわ」

 彼女は紫掛かった瞳を瞬かせて、珍しそうに外の光景を見ている。

「ここにいる皆さん、竜騎兵なのですか?」


「他の駐屯地では、食事を作ったりする人や掃除をしてくれる人たちとか、いるみたいなんだけど。竜騎兵団は竜でヴェネトに上陸したから、竜騎兵以外いないんだって。三十騎の竜騎兵。騎竜も同数だよ。竜騎兵は神聖ローマ帝国では最高位の騎士達だから、本国やいつもの戦場では従者の人たちがついて、身の回りのことは普通はしないらしいんだけど。

 ただ皆は資格を取って竜騎兵になってるから見習い期間を経験してるんだって。だから全員、竜の世話や竜騎兵の生活の準備のようなことは出来るみたい。もちろん誇りもあるだろうから、嫌がる人はいるんだろうけど。でもここの竜騎兵の人たちは食事の準備とか全然嫌な顔せずやってくれてる。フレディがそういうのを嫌がらない人だからね。彼の部下の人たちもそういうこと、滅多に文句言う人いないの。

 ……みんなかなりの覚悟で、ヴェネトに来たみたいだから……。

 贅沢なんて言う人、ここにはいないんだ。優しくて親切な人たちばかりだよ」


 馬車の窓辺に頬杖をついて、駐屯地の景色を眺めながら、優しい声と表情でそんな風に言ったネーリを見て、アデライードは微笑んだ。

 やがて新しい騎士館が見えてくる。

 すぐ入り口の所に止まると、御者にはそこから動かないように言って、馬車を降り、後から降りてくるアデライードに手を貸した。

「ありがとうございます」


 地に降り立つ。

 彼女は【竜の森】を見に来たので、深い緑のドレスを着ていた。

 帽子は被らず、竜の気に障るかもしれない、光を反射するような装飾はしてこなかった。

 そうして欲しいとネーリは何も言ってないのに、彼女は自分でそうして来た。


「扉が開いてるってことはフェリックスがいるのかも」

 ネーリは歩いて行く。

「フェリックス器用に一人でここ通れるんだけど、扉はさすがに開けられないから。フェリックスがいない時ここは閉まってるの。彼が飛行演習から戻ってここに来たがると、この扉の前でお行儀良く座ってるんだよ。そうしてると竜騎兵の人たちが扉を開けてくれるんだ」

「まあ。可愛らしいですわ。お行儀良く座ってるなんて本当にお利口なのですね」

 開いている入り口を入る。

 ダンスホールはすぐ右手に覗けるようになっている。

 フェリックスがいた。

 彼はすでにネーリの訪問を分かっていたらしく、気に入っている寝床となった絵の前でとぐろを巻いて休んでいたが、長い首を回してネーリの方を見ていた。


「フェリックス!」


 ネーリが走って行く。

 首を抱きしめに行って、ネーリの頭など一口でかぶりつけそうな竜の頭部に、入り口にいたアデライードはさすがに驚いて立ち竦んだが、しゃがみ込んだネーリの膝にちょっと顎を乗せて、何やら彼の話を見つめながら熱心に聞いてるその姿に、呆気に取られた所から、くすくすと笑い始めてしまった。

「そうだ。今日は僕の友達を連れてきたんだよ」

 ネーリが手招いてくれたのでアデライードはゆっくりと近づいていった。


「アデライードさんだよ。僕の大切な友達の妹さんなんだ。

 優しい人だから大丈夫だよ。フェリックスも優しくしてあげてね」


 フェリックスがちゃんとアデライードの方を見た。

 本当に小さく頷いたりしてネーリの声を聞いているのが分かって驚いた。

 しかし、その神聖ローマ帝国国外の人間にとっては、奇跡のような生物である竜の背後の壁に掲げられた絵が目に入ると、アデライードは目を見開いて驚いて、そちらへ導かれるように歩いて行った。

 気の弱い女性ならきっと近づくことも出来ないはずの、巨大な竜の横を通り過ぎ【竜の森】の絵の前に立ち、巨大な横長の絵を見上げた。


(すごい……)


 彼女はミラーコリ教会にあるネーリのアトリエも見た。

 あそこには大きい絵もある。でもこれほどのものは見なかった。

 絵としてはきっと、とても単純明快なものだ。

 深い森。

 青み掛かった緑と、木々、時々密やかに白い花が咲いているだけ。

 でも、きっとそれを描くだけではこれだけ巨大な画面は埋められない。

 伝わって来る神秘的な雰囲気と、その魅力で森の奥へと引き込まれそうだ。

 本当にその森が、そこに広がっているような感覚になる。


 アデライードは見たことが無い場所なのに、こんなところがきっと現実にある――そう、実感できた。

 この森に住み、ここで育ったという神聖ローマ帝国の竜が、それはこの絵を気に入って側で過ごしたがるはずである。

 それほど、圧倒的な存在感がこの絵にはあった。


 アデライードは、高価な美術品を小さい頃から目にして来たというわけではない。

 だが彼女は修道院で育った為、信仰と敬意を持って作られた宗教画や、彫像、修道院の建物を見て育ってきた。

 豪奢な修道院という訳では無かった。

 でも古い歴史があり、辺境にあるが故に敷地が広かった。

 聖堂だけには色があり、絵や、装飾が飾られていた。

 あとの建物は質素なものだったから、少女時代もそこで過ごしたアデライードには、初めて聖堂に入った時の感動は、今でも忘れられないものとなっている。

 奥へと広がる聖堂、壁画のように鮮やかなステンドグラスに、高い天井には細かい装飾が一面に施されていて、あんな高い所にあんな美しい絵や、細かい装飾を施したのは天使に違いないと小さい頃、本当に思った。

 この絵は風景画なのにアデライードは何か、描き手の信仰心が込められた、宗教画と向き合っているような感覚を受けた。

 なにか、このダンスホール全体が厳かな空気の中にあり、満ちている。


 ラファエル・イーシャが芸術の女神の寵児だと、ネーリをあれほど褒めそやす意味が分かった。彼は特別なのだ。

 特別な才能を持つ人なのだと、アデライードも確かに分かった。


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