第2話 前世の記憶を呼び覚ますカイル
カイルに渡されたのは、刃こぼれが激しく
「いくらなんでも……父上。カイルひとりでは無理です! 剣術も未熟で魔法すら使えない上に、こんな使い古された剣でどうしろというんですか!」
レニーは震える声を振り絞って反論した。だが、その言葉はケアニー辺境伯爵の鋭い眼光に封じられ、風に流されるように消え去る。ケアニー辺境伯爵家において、三男までしか発言権を許されていない現実が、レニーの言葉を無力化していた。
「ふん、息子が他に六人もいるのだ。魔法も使えぬ出来損ないがどうなろうと知ったことかっ! それに、商店街を守らんと奮闘し命を散らすのであれば、それもまた領主の息子として誉れ高き死に
ケアニー辺境伯爵の言葉は、カイルには「死地へ
――ははっ……俺なんて、結局その程度の存在だったんだな。わかってたけど、やっぱり認めるのは……辛いなぁ。
「ち、父上! せめて騎士を二人ほど同行させてください! カイルが魔獣に殺されるだけです!」
レニーが懇願するも、伯爵は「それもまた務め」と言い放つだけ。無情な一言に、レニーの抗議は
カイルは庇ってくれた兄レニーにひと言礼を言うと、一歩、また一歩と商店街へ向かって歩きだした。その足取りは重く、背中は哀愁に満ちている。
だが、そんな深刻な状況にもかかわらず、カイルの脳裏をよぎるのは、食べ物の幻影だった。
――ああ……どうせ死ぬなら、焼き立てパンを腹いっぱい食いてぇ。ジューシーな肉や甘いフルーツパイも……さっきのサンドイッチも、うまそうだったなぁ。
商店街に向かう道中でカイルの腹は大きく鳴り響くのだった。
◆◇◆
ーーケアニー商店街にてーー
ケアニー商店街の石畳は至るところでひび割れ、剥がれた部分から雑草が顔を覗かせていた。ところどころに魔獣の爪痕が生々しく残り、頻繁に襲撃があるのだろうと容易に想像ができる。
古びた商店の看板は色褪せ、文字もほとんど読み取れないものが多い。わずかに開いている店からは、怯えた表情の店主が目を光らせながら外を見張っている。買い物客もちらほらと歩いてはいるものの、皆、目を合わせることもなく足早に過ぎ去っていく。魔獣対策のために、背中に小さな刃物や杖を忍ばせている者も多かった。
遠方から響く甲高い叫び声が、商店街にいた人々の動きを凍りつかせた。誰もが怯えたように周囲を警戒し、息を潜める。その音が徐々に遠ざかり、わずかな安堵が場に広がったものの、張り詰めた緊張感は未だ商店街を覆い尽くしていた。
そんな緊迫した雰囲気の中、不意にカイルの腹が間の抜けた音を立てた。だがその瞬間、突如現れたのは醜悪な魔獣――石造りのパン工房の店先に並ぶ蜜パンや焼きパイを狙うその異形の姿は、見る者を戦慄させた。
体長は大型犬ほどで、ネズミを思わせる体躯にまだら模様の硬質な皮膚が覆う。長い胴を支える四肢には鋭利な爪が備わり、強靭な顎が獲物を噛み砕く力を誇示している。血のように赤い
人々は悲鳴を上げて逃げ惑い、カイルはその場にただ立ち尽くすしかなかった。カイルの痩せ細った体躯は、圧倒的な無力感をまとっていた。日頃から十分な食事にありつくことも叶わず、飢えによる虚脱感が視界を揺らがせるほどだ。
「このっ、大ネズミの魔獣めっ! うちのパイは持っていかせないよっ!」
大きな声をあげたのは、カイルとほぼ同じ年頃の女の子だ。小柄で引き締まった体つき。日焼けした肌に、明るい茶色の髪をポニーテールにまとめている。瞳は緑色で、生き生きと輝いていた。健康的で活力に満ちた、そんな印象を受ける可愛い子だった。その彼女がなんと魔獣の前に立ち塞がっている。その足は子鹿のように震え、だが彼女の瞳の中には恐怖とは別のもの――強い意志が込められているのがわかる。
ホウキを振り回し、魔獣に立ち向かおうとするその姿勢は勇敢そのもの。しかし、それがどれほど危険な行為か、彼女自身わかっていない。魔獣は極めて貪欲で、自分の邪魔をする者には躊躇なく襲いかかる。あの尖った牙や爪は伊達についているわけではないのだ。
「あっちに行け! これはあたしと母さんが作った大事な売り物なんだ! 魔獣なんかがただで奪っていいものじゃないんだよ!」
その叫びに呼応するように、商店街の店主たちも次々と店を飛び出してきた。皆、無謀とも言える覚悟で魔獣に立ち向かおうとしている。
酒屋の店主は、ビール腹を揺らしながら空き瓶を握りしめていた。顔は引きつり、冷や汗が滴っている。魔獣を睨みつけているつもりだが、その目には明らかな怯えが浮かんでいる。
八百屋の主人は、ひょろりとした痩身を縮こまらせながら、木箱を抱え込んでいた。その全身は小刻みに震え、立つのもやっとといった様子だ。それでも彼は口元をぎゅっと噛み締め、どうにかしてその場に抗おうと足を踏ん張っている。
肉屋の店主は対照的に、筋骨隆々の巨躯を誇る。手には鈍く光る肉切り包丁を握り、豪胆さを感じさせる立ち姿だ。しかし、その動作にはどこかぎこちなさが混じり、巨体が不安定に揺れるたびに、彼の焦燥が否応なしに滲み出ていた。
そして魚屋の店主。彼は日々使い慣れた包丁を構え、刃先を魔獣に向け声を放つ。
「こっちだ! お前の敵は俺だぞ」
必死な形相で叫ぶ魚屋だが、顔色は蒼白で額を滝のように汗が流れる。日常の業務で鍛えた腕は確かであろうが、それは魚を捌くための技。いかに技術を誇ろうとも、魔獣を相手取るには荷が重い。魚屋が抱える恐怖は、その場にいる誰よりも理屈に合ったものだった。
――俺は役立たずでも領主の息子だ。商店街の皆を守らなきゃならない。
「仕方ない……ここで潔く命を散らすか……この女の子を救うためにも、こいつだけは仕留めたいがな」
そんな決意がカイルの胸に湧き上がる。今が自分の命を賭ける時だと感じる瞬間だった。恐怖はあれど、その心にもう迷いはない。少女を守るため、商店街の皆を守るため、無力でも立ち向かうべきだと心に誓う。
――これがたとえ無駄な行動であったとしても、俺はこの場で何かを変えたい!
カイルは魔獣と少女の間に割り込む。魔獣がカイルに向かって飛びかかり、こちらが反撃する暇もなく、その爪が背中にくい込み、牙がカイルの腹に食らいつく。血があたりに飛び散り、一瞬身体がぐらつき倒れそうになるのを必死で踏ん張った。
「こんなにあっさりやられるわけにはいかねぇんだよっ。くっそ、俺、このまま死ぬのか? なんの反撃もできずに? 情けねーー」
悔しさで涙が滲む。痛みは腹部からじわじわと広がり、意識が暗闇に沈み込むかのようだった。だが、その瞬間、何かが弾けるように頭の奥で光が走った。
記憶の奔流。重厚で無限の知識が押し寄せ、カイルの中身を塗りつぶしていく。だが、それは恐ろしくも奇妙なほどに馴染み深いものだった。
「……俺……いや、違う……これは誰の記憶だ?」
かつてこの世界で生きた伝説の大魔法使いアーサー。――その名は、時の深淵を越えて今なお讃えられる。
彼の存在はまさに荘厳たる神域の権化。叡智の結晶と呼ばれる魔法陣を一振りの手で描き、絶大なる魔力を操ったその姿は、畏怖と崇敬を同時に抱かせた。
アーサーが紡いだ呪文は、単なる術式ではなく、宇宙の根源に触れる詩篇そのものであった。理を凌駕するその力は、天地をも揺るがし、星霜を超えて幾千もの物語を生み出す源泉となった。
また、その風貌は貴族然たる気品に満ち、豪奢なマントに輝く魔法紋様は夜空を飾る星々のごとき輝きを放っていたという。深淵のように澄んだアメジストの瞳は万象を見通し、彼が立つだけで空気が震え、周囲を威容が包み込む。
「万象の守護者」「叡智の化身」と謳われたその名は、ただの称号ではなく、彼自身の存在そのものを表すに相応しい象徴であった。そのアーサーが見ていた光景が、カイルの目の前で鮮明に展開されていった。
古の魔法陣を描く手の感覚、呪文の言葉が唇を流れる滑らかさ、天の怒涛を己の掌から解き放つ高揚感――すべてが鮮烈に脳裏に浮かぶ。
カイルの意識が徐々に薄れていくその瞬間、彼の心に響いたのはまるで遠くから呼ばれるような声だった。
「俺に任せろ」
低く艶やかで深みのあるアーサーの声が、頭の中に鳴り響いたように感じたのだった。
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