第28話 追いかけた男ーー消えたのはペンダントだけか。
人がごった返した市場で突然立ち止まったトニーは、小さな子を連れた女性にぶつかった。紫色の瞳をした女性は、薄墨色の髪を真っ青な髪留めでまとめている。
「すみません」
咄嗟に謝罪したトニーに女性が軽く会釈して去っていった。手を引かれた子供は母親に手を引かれながら俯くトニーの顔を見ていたが、すぐにふくふくとした頬を母親に向けて歩き出した。
「トニー、待ってくれよ!」
器用に人をかき分け、カタファがトニーの隣に並ぶ。
「急に走ったり止まったり危ないぞ」
なだめる声にも反応せずトニーは俯いただけだ。カタファは改めて声をかけようとするが、小さく震えた拳を見て口を閉じた。
トニーの様子は明らかにおかしかった。ペンダントを落としたとガヨから聞いていたが、朝、廊下で会った時からトニーはそわそわとして不安げな表情を隠さなかった。心配して手を取ったジブを振り切って、外に走り出てしまったのを追いかけたのはカタファだけだった。
「なあ、どうしてそんなに焦ってるんだ?」
トニーが顔を上げた。下まつ毛がうっすら濡れている。涙が零れてしまうわけではないが、堰を切れば崩壊してしまいそうな危うさがあり、カタファの息が止まった。
これほど動揺しているトニーを見たことがない。正直、声をかけるべきかも迷う。
カタファは乾いた唇を舐め、少しだけ口角を上げた。
「あのさ、ちょっと裏通りに行こうぜ。ここだと人の邪魔になる」
動かないトニーの手を繋いで、人通りの少ない通りまで連れて行った。彼の手は冷たかったが、カタファを頼るようにしっかりと握っていた。
少し歩くと、一区画だけ整備された石畳の上に、ぽつんとベンチが置いてあった。汚れも少なかったのでカタファはトニーを座らせる。水でも買おうかと数歩進んだが、繋いだままの手をぎゅっと握られ、足止めを喰らう。
「走って汗かいただろ? 水、買ってくるから」
握られた手を軽く振るが、トニーは離さない。カタファは俯くトニーに聞かれないように小さく息を吐いて、隣に座った。
「なんだよ。お前、甘えん坊か?」
軽く冗談めいて言ったが、反応はない。カタファはトニーが話し始めるまで見守ることにした。
「……俺もこんな気持ちになるなんて思わなくて」
やっと、小さい声がカタファの耳に届いた。カタファは少しだけ近寄り、握った手をトニーの膝に置く。
「子供のころ、コーソム修道院で拾ったんだ。あの頃はまだ、英雄に、なりたくて」
トニーの浅い息とともに言葉が紡がれる。それは短く、弱弱しく聞き取りづらいが、カタファは漏らさないように熱心に耳を傾けた。
「ペンダントは、偶然拾ったんだな?」
カタファは俯く茶色い髪を見ながら聞いた。トニーは小さく何度も頷いた。
「拾った時、嬉しくて。神の恵みだと思った。神秘の力を持てなくても、治療魔法を使って修道院を支える。みんなの英雄になれたらいいな、なんて思ってた。治せなかった患者や遺族の声を思い出す度、英雄になるには乗り越えないとって」
何度も深い呼吸が聞こえた。長く吐く息が少しだけ揺れている。
感情的な波を逃すことに慣れている、とカタファは思った。しゃくりあげないように、声を上げないように。体が震えたり、強張ったりしないように。吐く息にすべての悲しみを乗せているように思えた。
「そのペンダントがお前を支えてくれてたんだな」
トニーはわずかに肩を落とし、静かに空気を吐き出す。
「そうだな。神秘の力に目覚めてからは、より一層、大切になった……気がするな。自分を英雄に重ねてみたりして、感傷的になったりして」
トニーの少し声が上ずったが、胸いっぱいに息を吸って、止めた。そしてまた長く息を吐いた。
「でも、失くして良かったのかもしれない。あれには辛いときの思い出も詰まってるから」
カタファはずっと手を握ったまま、否定も肯定もしなかった。つないだ手がじっとりと汗ばんでも、トニーの深呼吸が聞こえなくなるまでカタファはトニーの隣に座り続けた。
しばらくすると、トニーが片一方の手で髪をぐしぐしと掻いた。ゆっくりと肩が下りて、つないだ手が離れた。
「つまらない話をした」
顔を上げたトニーはいつも通りの抑揚のない声、感情の少ない顔つきだった。カタファと少しだけ目を合わせるとベンチから立ち上がり、背伸びをする。カタファも立ち上がり、トニーの隣に立った。
「ペンダントが見つからなかったら、俺が何か贈っていいか」
カタファの唐突な発言にトニーは彼の顔を見た。トニーを見返すカタファの顔は普段の明るい表情ではなかく、切れ長の目が真剣に訴えかけていた。
その時、海からの強い風が表通りを抜け、砂埃を巻き上げる。ばしばしと砂が頬を叩き、トニーは思わず目を瞑った。
「なぁんてな! 絶対にペンダントを見つけてやる」
風が止むと、目の前にいるカタファの顔はいつも通り明るいものになっていた。そのまま表通りに歩いて行ったカタファを追いながら、トニーは顔についた砂を払う。心なしか、頬が熱かった。
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