第17話 エイラスの美学と理屈と追いつかない感情
疲れた。
エイラスは大浴場で足を延ばしていた。
あの後。エイラスはみっちりとエンバーに建物の構造を教えた。飲み込みは早いが、幼児でもしないようなことを馬鹿力でするものだから、柄にもなく肝を冷やした。
エイラスが湯舟の縁に頭を預けてリラックスしていると、ふと涼しい風を顔に感じた。その人物は洗い場で体を洗い始めた。
ーー珍しいな。
大浴場は職員も含め終日時間入れる仕様だが、騎士団員である貴族の子息は市民と湯を共にすることも裸を見せることも嫌だそうだ。一方で職員も、騎士団員と一緒になると気まずいという理由であまり利用していない。
エイラスは湯を顔に当てて流した。
この珍しい入浴者を快く受け入れようではないか。手早く洗体・洗髪を終わらせた人物を見る。振り返ったのはーー全裸のトニーだった。
「うぉっ」
トニーの叫び声を初めて聞いた。内向的な彼も叫ぶことがあるのかとエイラスは思った。ここで、徒ら心が沸き立つ。
「トニー。こっち、一緒に入りましょう」
トニーの目線は、何も隠す気がないエイラスの体の上下にしっかりと注がれた。
「お前、隠したりしないのかよ……」
タオルでしっかりと前を隠したトニーの視線は激しく泳いでいる。そのせいかおろおろと下がる視線につられて、彼の顔も小さく動いていた。
「隠してもしかたないでしょう。みんな同じですよ」
トニーの目線は完全に横に逸れ、眉を顰めていた。エイラスは自慢の長い足で湯舟を跨ぎ、縮こまるトニーの肩を組んで連れ戻った。
湯に入ると、トニーはエイラスから微妙な距離を保って離れた。
「気になります?」
「あ……いや、えっと…」
緑色の瞳をせわしなく動かしている。珍しく素直な緊張が伝わってきた。いつもと違う雰囲気のトニーをよく見てみると頬が赤い。目蓋も少し重そうだった。
「もしかして、呑んでます?」
エイラスの問いにトニーは小さく頷いた。そしてジブには内緒にしてくれ、と言った。聞けば、呑むとジブが咎めるのだと言った。エイラスからすれば、そもそも飲酒してから湯に入るのは危険だしマナー違反ではあるが、普段とは違う大きなリアクションと、何かあった場合は恩が売れる状況にエイラスは気を良くした。
しばらく二人は黙ったままでいたが、無言の環境にしびれを切らしたのはトニーだった。
「エイラスは……鍛えているから、やっぱり自慢げな体だな?」
視線を若干ずらしたままトニーは濡れた前髪を撫でつけている。エイラスは大げさに笑った。見せつけるように伸ばした腕を、もう片方の手で撫でる。
「そうですね。訓練の成果でもありますが、美しく見えるように鍛えてますから」
「そうだろうな」
「ふふ」
伸ばした腕を下すと、ちゃぷんと湯舟が揺れた。水面に映った顔が歪む。整った鼻筋もきれいに伸ばした髪も、揺れる水面の前ではなしのつぶてだ。
「……まあ、いつかは滅びる肉体ですけど」
エイラスが呟くと、トニーは首を傾げた。腕を組んで、不思議そうに顔を顰める。普段ならかすかに眉を顰める程度だが、酒を呑んだ彼は大きな態度になるのか、素直になるのか、とにかく表情が豊かだった。
「滅びると分かっているなら、”美しく”鍛える意味がどこにある?」
「……滅びるまで、美しくいたいじゃないですか」
ばしゃりと大きく湯をかき分けて、エイラスは湯舟内の一段上がった足場に腰を掛けた。
「滅ぶなら……最期が分かっているなら美しさを諦めていいなんて、悲しい考え方だと俺は思います。もし、皆がそれを許すなら……醜い終わりが嫌だからと観劇中に緞帳を下ろしてしまうのを許すことになります。でも現実は違いますよね?」
エイラスは足を組んだ。その瞬間はさすがにトニーも顔を背けた。
「観劇している客は、皆、結末を見に来ているんですよ。それが美しくても醜くても」
トニーは首を傾げた。エイラスは少し考えてから、また口を開いた。
「世界を一つの舞台としましょう。例えば、ですよ? 俺がどれほど容姿に優れていて、国王に寵愛を受けていようが、世界規模で見れば、俺はどうあがこうとも一般人Aなんです。世界の物語を完結させるのは少なくとも俺じゃない。俺が死んでも劇は続きます。でも、その物語が美しい完結を迎えるためには、一般人Aも美しくあるべきです」
トニーは薄く口を開いたままエイラスの話を聞いている。唖然とした表情に見えたが、エイラスは演説を再開した。
「俺の人生は俺のものですよ。でも、この世界に生まれる次の演者のために……一般人Aは美しくあるべきだと思いませんか?」
エイラスは口を閉じ、恭しくお辞儀をした。トニーは演説の内容を自分なりに咀嚼しているようだ。長く目を瞑ったり、組んだ腕の上で、うぅんと唸ったり、文字通り頭を捻ったり。
ーーどういう反応をするのだろうか。エイラスはトニーの一挙手一投足を見守っていた。
この美学は彼の情熱の源泉だったが、高すぎる理想と抽象的な概念は親にすら理解されることはなかった。
だが、それで良かった。理解されないことは織り込み済みで話したのだ。ただトニーがこういった話題に困る話を振られた時の反応が見たかった。
少し待ったが相変わらずトニーは硬く目を瞑ったままだ。
熱く語り過ぎたかもしれないと、エイラスは内省して髪をかき上げて別の話題を出すことにした。
「トニー。ところでどうして酒を? ジブに叱られるんでしょう?」
青みがかった緑色の瞳と目が合った。目を開いたトニーは顔についた水滴を払って、そのまま後頭部をがしがしと掻いた。
「……エンバーと同室になった。扉が直るまでの期間限定だけど。色々あったから緊張して」
「まぁ、そうかもしれませんね」
揺れの落ち着いた水面に、唇を横一線に強張らせるトニーが写る。エイラスは水面に写るトニーと目を合わせた。透明の湯に写る彼の顔は大分、赤い。そろそろ湯上りを勧めた方がいいかとエイラスが考えたが、先にトニーが動いた。緩慢な動作で立ち上がり、ふぅと長く息をついた。
「夢見がちで耽美主義的。欲張り放題って感じだな」
トニーはエイラスの横に座った。酔いが回って距離感が掴めていないのか膝が当たったが、トニーは気付いていないようだった。
「え?」
「だから、お前の話」
ーー忘れていなかったのか。エイラスはトニーから伝わる熱を感じていた。足だけ湯に浸けている時間が長かったので、湯から上がったばかりのトニーは暖かかった。
「……美しい結末、か」
そう呟くと、トニーは突然エイラスの背中を叩いた。水に濡れた肌がべちんとぶつかった。酔いは力加減も失わせるのか。正直痛い。
だが、覗き込んできたトニーの柔らかい表情を見ると、エイラスは何も言えなかった。綻んだ頬にはいつもの警戒心や抑制した感情はない。
「俺も美しい結末が好きだ。いつくるかわからない結末に向かって努力するって考えもエイラスらしい。多分、俺にはできないけど……お前は頑張れよ」
トニーは立ち上がり、じゃあなと言った。立ち上がりはふらついたが、その後はしっかりとした足取りで脱衣所に向かっていく。
遠くでカラカラと引き戸を開け閉めする音がした。
エイラスは両手で顔を覆った。体が熱かった。自分の哲学に「頑張れ」と声をかける人間に出会ったのは初めてだ。
だがーー気持ちの奥底にある影が、認められた喜びを黒く覆った。
負けた。共感された、同情された。そんな屈折した気持ちがエイラスの胸を満たしていく。
どうしても、エイラスはその燻りを晴らせなかった。
ーー彼を揺さぶって、支配しなければ。
そうだ。最初からそうするつもりだった。こんな風に近づいて、心を晒すだなんて俺らしくない。
覆った両手から、エイラスは息を吐いた。
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