第16話 犬のようだと笑われても、彼はその揶揄さえも誇らしかった

 ジブはトニーの部屋の前でしゃがみ込んでいた。丸まった背中の横には、撥水性の手提げが置いてある。

 制服の黒いブーツが何度もジブの目の前を通り過ぎていく。誰かが一途だと笑い、誰かが犬のようだと揶揄するが気にしなかった。

 宿舎に敷き詰められた青い絨毯は綺麗だ。ところどころ破れててはいるが、丁寧に修理されている。数ヶ月前まではぎしぎしと鳴る老朽化したコーソム修道院の廊下をおっかなびっくり歩いていたのに。


「おい」

 白いブーツが目に入った。靴先はピカピカで真新しい。顔を上げれば、トニーの顔がジブを見下ろしていた。

 茶色い髪に緑色の瞳。ヒューラ王国の一般的な髪と瞳を持ったトニーは華やかな顔立ちではなく、貴族特有の洗練された所作もない。騎士団の職員だと言われても誰も疑わないだろう。

 ーー平凡な顔だけど、俺の知ってるトニーだ。

 修道院にいた頃と変わらない顔付きにジブは安心してしまう。


 反応を返さないジブにトニーは首を傾げた。膝を抱えるジブの隣にしゃがみ込み、目線を合わせる。

「どうした?」

 トニーの瞳の奥がかすかに光った。治療魔法の使用者に宿る特有の明かりだ。ジブは青みがかった緑色の瞳にその光が灯る瞬間を見るのが好きだった。

 ジブはその瞳を目を細めて見ていたが、しばらくすると瞳から明かりが消えた。眉を顰めた怪訝な顔になる。

 それはそうだ。治療魔法で診察したところでジブに悪いところはないのだから。ジブは横に置いた手提げを掴んでトニーに見せた。

「飯を届けに来た」

「昼休憩の時間は終わっただろ。午後は鍛錬じゃなかったか?」

「休む。カタファには伝えてきたし、そうした方がいいって」

 ジブが先に立ち上がり、トニーに手を差し出す。トニーは何も言わずその手を取った。


 二人の身長が同じくらいになった頃から、この習慣は始まった。当初は拒否したトニーだったが、ジブが唇を尖らせながら手を突き出すようにすれば、トニーは諦めにもにた優しい表情を浮かべて手を取るようになった。

 最初は重ねられるだけだった手は、次第に重みが伴うようになった。その重みが、ジブにとっては心地良かった。トニーが俺を頼りにして立ち上がってるんだという気持ちにさせてくれたから。


「ジブ?」

 手を握ったまま動かないジブにトニーが声をかけた。

「午後は休みなんだろ。せっかくだし、少し話そうか」

 トニーは握った手をそのままに、部屋の中に入っていく。先導する背中を追いかけながら、ジブは自分がトニーの隣に立つ姿を未来を想像した。


 トニーが好きな蒸し芋。煮魚、水分を含んだ厚みのある根菜。あとは酸味の効いたスープ。

 ジブが選んだメニューを見て、トニーの口角が緩んだ。

 ーー良かった。

 ジブはほっとして笑みが溢れだした。

 寝込んだと聞いた時は心配だったが、食欲はあるようだ。食べられるなら体調は大丈夫。あとは、どのメニューを一番最初に食べるのかが気になった。トニーは好きなものから食べることが多いから覚えておきたい。

 凝視するジブの視線に気づいたトニーは、食うか? と尋ねた。

「いや、そうじゃなくて」

 ジブは組んだ両手を軽く揉んだ。さすがに見過ぎたかも知れない。

 そういえばと、ジブは昨日のことを切り出すことにした。神秘を使うことに対して改めてトニーがどう思うのかを聞き出せれば一番良い。

 小首をかしげるトニーにジブが口を開いた。

「昨日の事なんだけど……」

「忘れることにした」

 ばっさりと会話を切り上げて、トニーはとろみのついた根菜をほおばった。大きめの塊だったのかゆっくりと時間をかけて咀嚼している。ジブと目が合っても急ぐ様子はない。会話のない空白の時間を気にすることなく味を堪能してしていた。


「ガヨに、昨日の事は忘れるようにと言われた。それに俺も同意した」

「どうして忘れるようにって言ったんだ?」

「……さあな。でも俺もそれがいいと思ってる。そもそも俺も記憶が曖昧だし、苦しいときの事を覚えててもしかたない」

 次にトニーはスプーンでスープを掬う。口に入れた時、少し目が開いた。きっと舌に合ったんだろうと微笑ましかった。

 トニーが忘れると言うのであれば、ジブはそれ以上は追及しない。トニーは消極的なので意志薄弱と勘違いする人間がいるが、実のところそうではない。自分で選んで流されたり、諦めたり、手放したりして、この理不尽な世界と折り合いをつけている。

 だから、ジブもトニーの言葉に従うことにした。

「そうなんだ。なら、俺も深くは聞かな……」

 バキン、と金属が折れる音でジブの声はかき消された。同時に乾いた木が割れる高い音がして、ジブは振り返った。音の出所はーー扉だ。

 彼らは立ち上がり、扉に注目した。

「はぁ……?!」

 ジブが叫んだ。

 扉は外れて宙に浮き、そのまま彼らの前に迫ってくる。

 これが盾か壁全体なら理解ができるが、何故扉だけが迫ってくるのか。

「な、なに……」

 トニーは手を食事容器を胸に抱えて後ずさる。ジブは一瞬、スープが白い制服にこぼさないか心配になってしまった。

「えぇっ」

 廊下の向こうからも驚きの声が上がった。いつも澄ました声を、珍しく裏返らせているのはーーエイラスだ

「エ、エンバー? 何をしてるんです?」

 こんな時でなければ聞けないであろう、明らかに焦った声は廊下から聞こえてきた。その声に反応するように、扉がどすんと床に落ちた。その時、扉の上部からエンバーの黄金の瞳が見えた。彼は扉を盾のように持ったまま立ちすくんでいた。

「……」

 誰も言葉を発しなかった。というより、皆、状況を理解できていなかった。


「とりあえず」

 最初にしたのは、やたら落ち着いたトニーの声だった。

「扉は……壁に立てかけておくか」

 エンバーは扉を持ち上げ、出入り口の横に立てかけた。すっかりオープンスタイルになってしまった出入り口の先には、目を丸くしたエイラスが居る。

 エンバーの黄金の瞳は悪びれることなく無感情なままだ。

 エイラスはおずおずと部屋に入り、立てかけられた扉とエンバーを交互に見た。そのあと、驚きのあまり丸めていた背筋を伸ばし、小さく咳払いをした。

「ええと、あの。エンバー。まずは扉の開け方から特訓ですね……」

「……」

 エンバーの目はまっすぐにエイラスを捉え、小さく頷いた。

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