第15話 全て忘れて道具になれ
食堂を出てガヨはトニーを追った。白い制服は非常に目立つので、幸いすぐその背中を捉えることができた。
「トニー、待て。俺の部屋に来い」
早歩きの勢いのままトニーを追い抜いて、ガヨは廊下を歩き出した。ちょうど角を曲がり階段上り始めるタイミングだったので、ガヨは自身の足音の後に踵の擦れていない真新しい靴音が聞こえたのを耳で確認した。
ガヨ自身でも命令口調で選択肢のない言い方だとは思うが、トニーは何も言わずについてくる。嫌がったり苛ついたりする素振りもなければ、陰でキツいとぼやく話も聞いたことがない。
カタファ曰く、トニーは『消極的・無関心という殻を身につけた水草』だそうだ。カタファにしてはもったいぶった言い方だが、それくらいしか表現がないのだという。婉曲表現が過ぎて直感的に理解できないが、カタファが言うのであればそうなのだろう。
階段を上りきり、廊下を歩く。ふと、絨毯の上を小走り気味に動く足音が聞こえた。ガヨが歩調を緩めるとやっとトニーが隣に並んだ。知らず知らずのうちに自分のペースで歩きすぎたようだ。そいういえばトニーは体術に優れていない。騎士団では下から数えた方が早かったなと、揺れる前髪を見ながらガヨは思った。
「早かったか」
「いや」
彼の返事は短い。ガヨも人のことを言えないが、やはりカタファの言う通り内向的で自己表現に乏しい。
視界の端に白い制服がちらつく。横目にも目立つその服にガヨはため息をつきたくなった。
ーートニーは常に『特別』だ。
これはトニーに関する一番の問題だった。傭兵上がり、″番犬″のジブ、新兵であるにもかかわらず与えられた一人部屋。噂が飛躍して、出自であるコーソム修道院長の隠し子なのではと言うものもいるという。
彼自身、積極的に交流を図るタイプでもなく、降り注ぐ疑念の目にも気付きながらも払いもしない。つまり、言われっぱなしの状態が続いている。
今のトニーの存在は不安要素でしかない。
団体を瓦解させる要因である『不公平さ』が詰まっている。
入団してある程度の功績を残すと個室が割り当てられる。ガヨは最近、個室を与えられた。分隊の中ではカタファ、エイラスも個室が割り当てられている。
「入れ」
扉を開けたガヨはトニーに、中央の応接スペースに掛けるよう指示をした。彼はいつものように大人しく椅子に座った。きょろきょろと見回すことはしなかったが、天井の魔法灯や腰壁の装飾をじっと興味深そうに見つめている。
ガヨは向かいに座って足を組んだ。
早速本題に入る。
「トニー、すべて忘れろ」
風が窓を揺らしてカタカタと音を立てた。
トニーの表情は揺らがない。眉にも結んだ唇にも動きはなかった。ガヨも表情を崩さない。
「昨晩起きたことは全て忘れろ。お前の待遇や力の在り方についてもすべて受け入れろ。そしてこの指示に疑問を持つな」
窓を叩く風の音が大きくなった。隙間風などないのに二人の間には渇いた空気が流れ、ガヨは無意識に唾を飲み込んだ。トニーはそれでも表情を変えない。ただ一度だけ瞬きをして、ゆっくりと口を開いた。
「忘れて思考を放棄して、道具として動けと?」
ーーそうじゃない、とは言えなかった。今、放った言葉はルガーが団長室でガヨたちに向けた横暴な指示と同じことだったからだ。
ルガーに『道具』だと言われた時、騎士としての誇りを傷つけられたと感じた。だが今、自身の発言は、安定した組織運営のための間違った判断ではないとガヨは信じるしかなかった。
『第三騎士団は国民の剣であり盾である』。
そのためには道具になることを受け入れるべきだとーー。
机の下でガヨは拳を握る。爪が食い込み皮膚を裂いた感覚があったが、この痛みは受け入れなければならぬもだと思った。こみ上げる震えをすべて拳に隠して、堂々と言い切らなければーー指示を受ける側が戸惑う。
ガヨは目を見てはっきりと告げた。
「そうだ。余計な考えは捨てろ」
トニーもまたガヨの目を見ている。互いに見合ったまま、相手の反応を観察している。
窓を叩きつける風が止み、静寂が部屋に訪れる。
先に目を逸らしたのはトニーだった。
「そうか」
いつも通りの落ち着いた声。彼の表情には怒りも諦めもなく、突き放すこともなければガヨに配慮するわけでもない。ただ、彼は選択をしたよあだ。流れに身を任せることを。
「俺は指示に従う。忘れるよ」
少し俯いた緑色の瞳が改めてガヨを捉える。青みがかった緑色はーー揺蕩う水草のようだった。
トニーが椅子を引いて立ち上がった。そのまま扉の方へと歩いて、背中が遠くなっていく。
「どこに行く」
ガヨは急いで立ち上がった。
「部屋に戻る。多分、カタファが飯を持ってきてくれるから」
そう言うとトニーはまた歩き始めた。
ガヨはその背中に手を伸ばす。口を開け、息を吸って一歩足を出した。が、扉を開けて出ていくトニーを止めることはできなかった。
風が窓を叩いた。目に見えない自らの存在を主張するような大きな音だった。
行き場を失った手は、カタカタと鳴る音の中でゆっくりと振り下ろされた。
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