Ⅱ・南風の神の島(中)
俺の話をきいていたイグナツィオは旅行と遠出に興味を示した。
「はい。年一回、領内限定ではありますが」
「たとえば何処に行くのだ」
「そうですね。去年は、さきほどの話に出た白い花が咲く谷にお出かけでした」
愛する女のことならば何でも知りたい男のために、俺はアリステラさまの旅行のはなしを語った。四方の大国に比べれば小さな国だが、化石の国にも景勝地は沢山あるのだ。雪の冠をつけた山脈の近くの谷は、一面が花で埋もれていて、アリステラさまは侍女たちと共に花摘みをされていた。
「花冠を頭にのせておられるアリステラさまのご様子はまるで花の女神のようでした」
「お前はうまく描写するね」
イグナツィオは羨ましそうにした。
「その花になりたいものだ。次の手紙にはそう書こう」
「その手紙、お預かりいたします」
俺はすぐに云った。
「ご厚意で帰国船を出していただくのですから。お預かりして、化石の国に戻ればアリステラさまにお渡しいたします」
「ん。ああ、そう」
妙な間がおちた。イグナツィオはその言い訳をするように、
「いや。いつもは、秘密のやりとりにはカルティウスシア姫と母君との王族専用の書簡筒を使っているのだから、それでは誰かにばれないかと考えたのだ」と付け加えた。
「では、ご心配であれば預け先をカルティウスシアさまにして下さい」
化石の国から出航する前、俺はアリステラさまの肖像画をカティアに渡し、カティアは南の国に行く船を見つけて書簡筒を託すつもりでいたのだが、適当な船が見つからず果たせなかった。だからあの書簡筒はまだカティアが持っているはずだ。
「海賊と闘ううちに海に落としてなければ、姫が書簡筒を持っておられます」
「そう。その方法で。いつものように」
やはり一呼吸おいてから、イグナツィオは「もちろんだ」と頷いた。貴公子は何かを考えているような顔をしていた。
「では、アリステラ姫への手紙を書こう」
「ぜひそうなさって下さい」
「全員が乗船できる帆船がこの島に到着しだい、君たちを化石の国に送って行こう。南の国の船旗とゼデミネン家の旗を掲げておけば、海賊はもう出ないだろう」
俺は少し訊いてみたくなった。もし仮に、海賊がゼデミネン家の者を人質にした場合、身代金の請求先は現在の寄宿先である南の国になるのだろうか。それとも、世界中の国が買えると噂されているほどのゼデミネン家の隠し財産がそれを支払うのだろうか。カティアで城三つ分なら、ゼデミネン家の者の身代金はどれほど莫大な金額になるのか見当もつかない。
「イグナツィオさま。いたの」
ぽたぽたと海水を髪の先から零しながらカティアが戻ってきた。ほぼ半裸だ。なんというか、色気は皆無だが、だからといって直視も出来ない微妙な感じだ。まるで海の精のようなのだ。南風の神の横で笛でも吹いているような。
「誰も見ていないからいいようなものの、カルティウスシア姫、そのお姿をマクセンス王がご覧になれば、わたしの首が胴体から離れるかもしれません。かつて彗星の年にマクセンス王が怪僧にそうしたようにね」
肌着で泳いで、その上に一枚羽織って帰ってきたカティアの姿に、イグナツィオも苦笑するしかないようだった。
「庭の水盤に真水を流しておりますから、そちらでもう一度泳いで潮水を払ってからお着換え下さい。この島に女ものの用意はありませんが、日頃から男装をされている姫ならば、お渡しするものが水夫用のものであっても、お気になさることはないでしょう」
アリステラさまからの手紙にあった俺の名を憶えていたくらいなのだから、イグナツィオはユナのことも憶えているかもしれない。たとえ顔と名を憶えていたとしても、密約書の件については、他国の人間であるイグナツィオに迂闊に訊くことは出来ないのだが。
よく分からない何かの油を塗られてその上から葉で巻かれる太古の治療法がすこぶる利いて、俺は二日目にはもう完全復活して起き上がっていた。
「閑だから」
俺を看病してくれたのは主にカティアで、いいというのに、食事の世話までしてくれた。
海賊との戦いでは怪我人が多く出たが、なかでも、『貝がらの兜』号で勇敢に海賊と闘ったサヴァロンとマベッケは重傷者に数えられ、数日の間は危ぶまれるほどだった。
起き上れるようになった俺は、折れて倒れた横桁に引っかかっていた俺を助け出してくれたお礼を云うためにマベッケを見舞った。
ゼデミネン家所有のこの島は、もともとごく少数の者でゆっくりと滞在する別荘島であったから、一気に島の人数が増えたことについてカザリクス船長は心配した。しかしそんな心配は不要だった。続々と快速船が島に現れて、毎日のように食材や必要なものを陸揚げして館に運び入れたからだ。料理人も増えた。
「すごいものですね」
どこから湧いてくるのかと思うほどのそれらの物資の中には野営用の天幕もあった。さすがに館の中には全員収容できず、元気な者や軽傷の者は錨を降ろしたいるか号と兜号の船内に留め置かれていたのだが、これで多くの船乗りが当直と交代で上陸出来ることになった。さらには船の修理に必要な木材も大量に搬入された。至れり尽くせりとはこのことだ。
マベッケは医療用天幕ではなく、館に一室を与えられて、そこでサヴァロンと共に治療を受けていた。
「なあに、これしきのこと」
海賊に背中を切られただけでなく、マベッケは火傷を負い、指を二本失っていた。
「指がなくても俺ぁ索に頼らずに眼を閉じたままでも横桁の上を歩けるんだ。こんなものは大したことないさ」
同室のサヴァロンの方が怪我が重かった。弟のケルヴィンが毎日、兄を見舞った。ようやく再会できた兄弟なのだ。誰もが彼らをそっとしておいた。
俺は館の外に出て、船を留めてある岬に向かった。岬の下は天然の港になっていて、『いるかの渡る虹』号と『貝がらの兜』号が並んで係留されていた。上から見ても二隻はぼろぼろだ。
崖についている階段状の道を俺が降りていくと、途中で副長のホーランさんに逢った。副長のホーランさんも二隻の船を見ていた。
「やあ、スカイ」
「船は直りますか、ホーランさん」
「水に使ったままでは出来ることは限られる。本格的な修繕は国の船渠に入れてからになるだろうな。いま出来ることは応急処置だ。やらないよりはましだろう」
副長は痛ましい船の姿をみても、へこたれてはいなかった。
「海戦など滅多に味わえるものではない。弓矢海軍の歴代の船長と副長の中でも、海賊に襲われたのは、カザリクス船長とわたしだけだろう」
名誉の負傷とばかりにホーラン副長はけっこう満足気だったが、カザリクス船長はそうも云っていられないようだった。
「海賊から助けてもらった上に、これ以上のご厚意に甘えるわけにはいかぬ」として、カザリクス船長は当初、自前の船で帰国することにこだわった。
「比較的損傷の少ない『いるか』号が直りしだい、負傷の浅い者を連れて引き揚げさせてもらいます」
「提督」
「船長です」
「船長、それではまた海賊に襲われます」
カザリクス船長の申し出を、イグナツィオは却下した。
「あの船の状態をみるに、多少の修繕をしてそれでよしとはならぬでしょう。あなた方の航海能力を疑うわけではありませんが、海域一帯には竜巻も発生するのです。万が一のことがあれば助けたことが無駄になる」
イグナツィオは続けた。
「化石の国へは、早馬ならぬ早船で、事情をお伝えしておきました。とっくにマクセンス王の許には報せが届いているはずです」
そこまで気を回されてしまっては、カザリクス船長も引き下がった。実際のところ、弓矢海軍の船は二隻とも酷いありさまで、たとえ海原に漕ぎ出すことが出来たとしても、嵐にでも遭えばあっという間に傾き、ざぶざぶと海水を吸い込んで沈没しそうだった。
治りが早くなるという葉っぱを額の傷に貼り付けたままではあったが、俺は積極的に修理中の船に乗り込んで簡単な雑用を受け持った。
「もう動いていいのか、スカイ」
「ああ、打ち身の痕はあるけど、すっかり治ったよ。ところで何をやっているんだい」
顔見知りの乗組員が舷側の板と板の僅かな隙間に麻縄を押し込んでは木槌で叩き込んでいる。
「麻は水を含むと膨らむだろ。こうしておくと隙間からの浸水を防ぐことが出来るんだ」
少しだけ、騒動もあった。
「来てくれ、スカイ」
建設現場のようにとんかんと音が鳴り響く船の修繕現場で簡単なことを手伝っていると、血相を変えてケルヴィンが俺の許にやってきた。船の修理は大工仕事と同じなので、指物師の知識のあるケルヴィンは停泊中の船の内外でおおいに活躍して腕をふるっていたのが、休憩時間に館にいる兄サヴァロンを見舞いに行くと云って崖を登って行ったと思ったら、崖道を駈け下ってきた。
「スカイ来てくれ」
「どうした」
「この島で、大変なものを見つけたぞ」
ケルヴィンは血相を変えていた。
「ユナ姉の話を憶えているか」
「離宮ではたらいていたお姉さんだろう」
五ツ谷の長が何者かに奪われる可能性を想定して、密約書を預けた娘。ケルヴィンの姉でありサヴァロンにとっては妹だ。
「城の木工作業所で、俺はお前に、離宮にいたユナ姉が客人から古い硬貨をもらった話をしただろう。その古い硬貨の図案と同じものが、この島にある」
ケルヴィンは俺を追い立てるようにして、その場所へとずんずん歩いた。俺は俺で少しあせっていた。五ツ谷に里帰りしたユナからケルヴィンに渡された古い硬貨がゼデミネン家の古銭だと、俺はまだケルヴィンに伝えていないのだ。
「これだ」
少し海に突き出した岬の先に、樹の影に隠れるようにして雨や潮風に浸食された古ぼけた碑が建っていた。
「この碑をよく見てくれ。俺が城の作業場で木片に描いてみせたあの模様を想い出してくれ」
ケルヴィンは俺の肩を掴んで碑の方に押し出した。
その石碑には北欧の海神が刻まれていた。ゼデミネン家の古い時代の紋章、つまりケルヴィンが持っていた古い硬貨と同じ意匠だ。
「どうだ、スカイ」
ゼデミネン家所有のこの島の古い碑に硬貨と同じ模様が刻まれていることはケルヴィンにとっては仰天するようなことなのだろうが、俺にとっては愕くようなことではなく、そりゃそうだろうという感じだった。
ところでこの碑は何だろう。
「実は、あの硬貨のことなんだが。ケルヴィン」
「それは墓だ」
ふらりと俺たちの許にイグナツィオが現れた。涼しそうな織の白い衣を着ている。
「碑の側面の下部には、ミリューン語でこれが墓碑であることが彫られている。遠い昔にこの島で余生を過ごして死んだ祖先がいて亡骸をここに埋めたのだ。この碑がどうしたのだ」
》Ⅲ
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