読めない

 三十年前の事。

 紙切れが一枚落ちていた。

 学校からの帰り道。私と隣の家のお姉ちゃんは手を繋いで歩いていたけれど、お姉ちゃんは私の手を放してその紙を拾った。「なんだろ~う」と間延びした声を出しながら、首を傾げながら。

 首が傾いた拍子に、お姉ちゃんの黒髪が少し揺れた。

 その当時私はまだ小学一年生で、お姉ちゃんは高校生だった。隣の家に住む彼女は、仕事で遅くなる両親の代わりによく私を迎えに来てくれた。私は照れくさくて何度も、もういい、と断ったのだけれど、お姉ちゃんはニコリと笑うだけで、変わらず迎えに来てくれた。

 優しくて可愛いお姉ちゃんに私は大きくなったら、お付き合いを申し込むつもりだった。ランドセルを背負いながら、私は真剣だったのだ。

 紙を黙って眺めるお姉ちゃんに「何て書いてあるの?」と私は聞いてみる。

「……う~ん。わかんない。読めないなぁ」

 お姉ちゃんはそう言って紙を丸めてポケットにしまった後、少し悲しそうに笑って、私の頭を撫でた。

 商店街のチラシや地域の回覧板、掲示板の張り紙。そんなものが風で飛んでくる事は珍しくなく、当時の私はそういう類の紙はすべて落書き帳にしか見えていなかった。中身を教えて欲しいと言ったのも何かにつけてお姉ちゃんと話したいだけだったし、断られたからといってそれ以上詮索する気もなかった。

 お姉ちゃんにわからない内容は小学生の私にだってよくわからない内容だろうなと、気にも留めなかった。

 それよりも、その日に学校であった昼休みの鬼ごっこで、一人最後まで逃げ切った武勇伝を聞いてもらう方が何倍も楽しかったのである。

 お姉ちゃんは、私の話をニコニコと笑いながら聞いていた。

 その日の笑顔は凄く印象に残っている。

 残っているのは、それがお姉ちゃんとの最後の思い出だったからだ。

 明日の放課後も迎えに来てくれる、と約束したお姉ちゃんは終ぞ来なかった。お姉ちゃんは酔っ払い運転に巻き込まれて帰らぬ人となり、私の淡い恋心は永遠に忘れられない十字架となった。


 二十年前の事。

 紙切れが一枚飛んできた。

 冬の終わり。私とおばあちゃんはまだ弱々しい日差しの縁側でお菓子を食べていて、一斗缶の中に木々を入れて燃やして暖を取っていた。その紙切れは北風に吹かれて飛んできたものだった。

 ちょうどおばあちゃんの足に巻き付くようにへばりつき、彼女はそれを不思議そうに拾い上げた。A4くらいの大きさの、なんの変哲もない白い紙。私の方からは何か文字が書かれているということしかわからなかった。

 日差しが紙に反射して、ぼんやりとおばあちゃんの顔を照らす。彼女は眩しそうに眼を細めていたけれど、しばらく瞬きもせずにその紙を見つめていた。

 一陣の風が吹き抜け、紙切れはおばあちゃんの手を離れて一斗缶の炎の中へと消えた。

「何が書いてあったの?」

 私が聞くと、おばあちゃんはう~ん、と逡巡した後に眉を下げて笑った。

「私には読めなかったよ。目ぇが悪いからねぇ」

 おばあちゃんはいつもと変わらず、私にお菓子を渡してくれる。何処か、晴れ晴れとした表情を浮かべていたように思う。原因不明の、首を絞められているような息苦しさを感じる私とは裏腹に。

 次の日、おばあちゃんは起きてこなかった。

 気持ちよさそうにぐっすりと、いつまでも眠っていた。

 いつまでも。


 私はようやく、あの紙切れがただの紙切れではないことに思い至る。正直に言うと、おばあちゃんが死ぬまで、昔お姉ちゃんが紙切れを拾ったことすら忘れていた。それほど何の変哲もない生活の一コマに過ぎなかったのだ。その時だって、紙切れと死の関連性に思い至りはしたものの、それが馬鹿馬鹿しい戯言にしか思えなかった。

 ただの偶然だろう、と。

 しかし、お姉ちゃんは紙切れを読めずに死んだ。おばあちゃんも紙切れを読めずに死んだ。私の頭には事あるごとに紙切れを持って笑顔を浮かべた二人の顔が浮かび、それはどうにも私を掴んで離してくれそうになかった。

 私は漢字の勉強を両親に勧めた。そして私自身も、漢字の勉強をし始めた。

 私の大切な人には必ず、漢字の勉強をするように頼んだ。理由を聞かれると素直に答える事もあったし、はぐらかすこともあった。どちらにせよ、本気で取り合ってはもらえなかったように思う。しかし私はしつこくしつこく懇願し続けた。

 どこからともなく現れる紙切れは防ぎようがない。それならば、その中身を読めるようになるしか方法は無いではないか。

 馬鹿げた妄想なのは重々承知していた。

 しかし頭ではそう考えていても、紙切れに対する恐怖は日に日に増していた。


 十年前の事。

 私が朝起きると、母がテーブルに一人で座っていた。

 すでに朝ごはんの用意が出来ており、みそ汁からは湯気が上がっている。しかし動くものはその湯気の他に無く、ひどく静かな朝だった。

 母親の手には、白い紙切れが握られていた。

 一瞬、投函された何かの広告かと思ったが、すぐに違うと分かった。

 それを眺めている母の表情が、凍り付いたように固まっていたからだ。表情どころか他の身体の部位も一分も動かず、まるで絵画の様だった。

 薄暗い、まだ太陽が半分眠っている、いつもの一日の始まり。

「……な、にを、持ってるの?」

「お母さんにもわからない。気が付いたら、手に持ってたのよ」

 母はため息交じりの、間延びした返事を私にした。動悸が速くなるのを感じた。

「読めるよね? 母さんなら読めるよね?」

 母はほとんど唯一、私の話を熱心に聞いてくれた人と言っていい。私の自虐的な嘲笑交じりの荒唐無稽な妄想を笑いもせず、ただ一言「わかった」と答えた人である。

 私はこの日の為に、馬鹿馬鹿しいお願いをし続けたのだ。

 せめて母だけは。私を疑いもせず信じてくれた母だけは――。

「読めない。……ごめんね」

 母は悲しそうに笑い、その手紙をコンロの火に掛けて燃やしてしまった。

 私は腰が抜けて、その場に崩れ落ちる。

 なんで? どうして? そんな答えのない問いだけが虚しく宙を舞っていた。

 紙切れを燃やした母は、放心状態の私をぎゅぅ、と長く長く抱きしめた。恥ずかしがり屋でスキンシップをあまりとらない母。その温もりを、私は今も覚えている。

 その日は一日家にいた。

 そんなに心配しなくても大丈夫よ、と母は笑っていた。

 翌日、母は何の前触れもなく倒れた。

 急性心不全だった。


 昨日の事。

 私はいつものように、寝る前の英語学習を子供たちにさせていた。

 私の妻も子供も、今や数か国語喋ることが出来るようになっていて、もちろん日本語においても読めない漢字などは一つも無かった。私も同じように何でも読めるようになっていた。

 もう二度と大切な人を失わないように。

 胸に秘めた理由を家族に説明したことはない。そんな私の周りをうろつく呪いなど知らないで幸せに過ごして欲しいのだ。

「あれ、パパ。それなぁに?」

 娘が私の手元を指さす。

 教科書を持っていたはずだけれど、と手元に目をやると、そこには一枚の紙切れがある。

 なんの変哲もない、A4サイズの白い紙が、いつの間にか私の手に握られていた。

 胸が早鐘の様に鳴った。手に汗が滲んでくる。ひっと短く息を吸い込む自分自身の情けない声が聞こえて来たかと思うと、そのまま空気を吸い過ぎて溺れそうになった。

 そんな狂乱の中でもう一人の私は必死で私を宥める。

 大丈夫。今日の日の為に、何でも読めるようになってきたではないか。必死に学んできたではないか。

 私には家族を守る役目がある。まだ死ねない。いや、死なない。

 段々と目の焦点が合ってくる。紙に書かれた文字が、鮮明になってくる。


『非常に残念ですが、あなたは明日、寿命を迎えます。

 ただし幸運な事に、この手紙を読んだあなたは、

 この手紙の内容を大切な人に伝えることが出来ます。

 そして、伝えた相手を一緒に連れて逝くことが出来ます。

 おめでとうございます』


 私は何度も何度も、それを読み返した。

 何度も、何度も、何度も。

「パパどうしたの?」

 娘と息子が不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。

「何て書いてあったの?」

 私の大切な、子供たち。

「……いやぁ、わからないなぁ」

 手紙をシュレッダーに掛けながら私は答える。

「うっそだぁ。パパに読めない物なんてないよ!」

 はしゃぐように跳ねる二人を抱きしめながら、私はソファに寝転んだ。

「読めないものもあるんだよ」

 私はそう言って、思わず笑った。

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