ペットのミニブタとパワハラ上司が入れ替わった

菜花

流れ星

 懺悔のつもりでここに記します。


 私、鈴木裕美はあの頃も今もしがない会社員です。

 あの頃と違うのはパワハラしてくる上司がいたことでしょうか。

 仮にその上司をAとしましょう。Aは入社してひと月ほどは普通に優しい上司に見えました。けれど、私が会社に馴染んできた頃から豹変しました。


 最初は雑談の中で始まりました。Aは世間話をする私に向かって「そういえば」 と話を振ります。

「鈴木さんさぁ、今時珍しい真っ黒な髪してるけど、少しは染めたらよ。ただでさえ陰気な顔なのに余計暗く見えるよ」

 固まる、というのはまさにあの時の私のことでしょう。私は肌が非常に弱く、市販の毛染めだと頭皮がかぶれてしまうのです。その事情を知らないとはいえあまりに酷い、と思いましたが、上司を悪く思いたくないのもあって、彼は心配して言ってるだけだ、染めるなとか言ってくる人より理解がある、と思い込もうとしていました。


 次にそれが起こったのは、休憩時の穴埋めの時でした。

 同僚の一人が急病で休み、その代わりに私が仕事を引き継いでいたのですが、休憩時には代わりにBさんが入ることになっていました。

 しかしその時間に来たのはAさんで、彼は無言で椅子に座ると自分の仕事を始めました。

 それからしばらく経ってもBさんが来ないので、私はAさんに「私の休憩はどうなっているのでしょうか」 と尋ねました。

 Aさんは苛々した様子で「そのBさんの代わりに俺が来てるんだけど? Bさん急用が入ったから」 と言いました。

 そんなの言ってくれなければ分からない、と抗議しましたが「学生みたいなこと言わないでもらえる? 察しの悪い自分が悪いんでしょ。社会人でそんな我儘は通用しないよ」 と諭され、私は泣く泣く去り、トイレを済ませたらあとはもう水分補給しか出来ないような休憩をしました。本来昼食を取る予定だったのですが……。


 決定的となったのは、何気ない雑談でした。冬の特に冷え込む日のこと、Aさんが「今日は冷えるね」 と言うものですから、私も「そうですね。このところ水も冷たいから手荒れに悩まされてます」 と世間話をするとAさんは急に激昂しました。

「君、それは今俺のポケットにある高級ハンドクリームを使わせろって言ってる!?」

「え? え?」

「とぼけてんじゃないよ! 前から思ってたけど、自分が性格悪いのを自覚しろ! ああ、卑しい卑しい。こんなところにいたら自分まで浅ましくなる」



 鈍い私もこの辺りでAにパワハラされていると感じました。けれど、どうしようもありませんでした。Aは私以外の人間にはとても外面がいいのです。加えて営業成績も優秀。パワハラが出るのは、周りに誰もいない、私と二人の時だけ……。会社で一番下っ端の私が「Aにパワハラされている」 と訴えたところで、誰が信じるでしょうか。誰が私のほうを選択してくれるでしょうか。


 私は病みました。毎朝電車を見ると「今飛び込めば楽になれるのではないか」 と考える日々。

 辞表届を一枚書いたあと、「何かあって紛失したらいけない。もっと書こう」 と気が付いたら五十枚も書く毎日。

 トイレを済ませたあと、急にハッとなって「何で流したんだ! 何で流してしまったんだ!」 と半狂乱になることもありました。しばらくして「流すことの何が悪いんだ?」 と気づいて一時間ぼーっとしていました。


 今思うと死ななかったのは、ただひたすらペットのミニブタ、タブを一匹にしてはいけないという理性からだったように思います。

 知り合いの家から貰ったミニブタは、最初は群れで一匹だけ苛められている子でした。不憫に思って飼い始めましたが、意外に臭いはしないし大人しいし清潔好きだしですっかり気に入ったのです。

 トイレでぼーっとする私の傍にタブはいつの間にか近づき、「大丈夫?」 とでも言うかのように鼻をちょん、とする仕草には涙が溢れました。


 死ねない、死ぬほどつらいけど死ねない……。

 そう思いながらぼんやりと窓の外を見ると、流れ星がいくつも見えました。

 ああ、テレビでなんとか流星群がどうたらって言ってたっけ……。

 流れ星が消える前に願いごとをすると叶う、なんてロマンチックな話を思い出した私は考えるより先に口に出していました。

「上司が消えますように」



 翌朝、休日の朝ではありましたが、私はタブの異様な鳴き声で目を覚ましました。

 低血圧で痛む頭を抱え、大事な大事なタブに私はにじり寄ります。恥ずかしい話ですが、家族にあたる人達はみな「苛められるほうが悪い」 という考えを持っていて、あの時の私にはタブしか味方がいませんでしたので、依存かと思えるくらいタブを溺愛していました。

「どうしたのタブ、どこか痛いの? つらいなら病院行く?」

 いつものように抱きかかえようとしたのですが、タブはまるで憎たらしい者を見るかのような目で私を見て、差し出す手に頭突きしたり噛みついてこようとしたのです。

「えっ、ど、どうしたの。タブ、私よ」

 明らかにおかしな行動に驚いて声をかける私でしたが、タブは相変わらず奇声を上げながら私を睨んできます。隙あらば攻撃しようともしてきます。


 これはタブではない。私は瞬時に判断しました。見た目は確かにタブだけど、タブは私にこんなことしない。夜中に泥棒が入ってそっくりのミニブタと入れ替えた?


 そう動揺する私に更に衝撃の出来事が起こりました。ピンポーンと音がしたので、タブをひとまず部屋に閉じ込めておき、誰がこんな早朝から来たのかとスコープ越しに除くと、Aでした。

「ひっ」

 そんな引きつった声が出たのも仕方ないことです。パワハラ上司に自宅まで押しかけられる恐怖はとてつもないものでした。どうして知ってるのか、悪用しようとしているのか、そう混乱する私にAはこう声をかけました。

「裕美さん、開けて! 僕だよ、タブだよ!」

「……は?」

「何でか分からないけど、気が付いたら人間になってたんだ! それにこの身体、髪の毛が薄くて右頬に大きなほくろがあって、手の甲に特徴的な傷があるって、これ裕美さんの言ってたパワハラ上司じゃないかって思って! 人間になったんじゃなくて人間と入れ替わったってことなら、裕美さんの近くにいるはずのタブの中にいるのは誰なんだと思ったら心配で……ミニブタのタブは相変わらずなの? タブは変わってないの? 昨日お気に入りのおやつを食べたあとは相変わらず?」


 普通に考えたら上司が悪質な冗談を言っている、と感じるほうが理に適っているのでしょう。でもあの時の私は正常な精神状態ではありませんでした。

 攻撃的なタブ。口調も雰囲気もまるで違うA。入れ替わったのだと言われてしっくりきました。それに職場では誰にも言ってないはずのペットのミニブタのことや、昨日あげたおやつのことまで知っている。私はドアを開けてAを迎え入れました。


 ひとまず確認のために二人を会わせようとタブを閉じ込めた部屋の扉を開けると、タブが猛烈な勢いで私に体当たりしてきました。体当たりだけにとどまらず、服の上からガジガジと噛んできます。

「ちょ……痛い! Aさんやめて!」

 その時確かにタブはひるみました。その様子にやっぱり、と私は思いました。けどその瞬間、タブの身体が吹っ飛びました。中身がタブのAさんが蹴り上げたのです。

「Aさ……いや、タブ! 何やってるの、貴方の身体でしょう!?」

「……」

 黙りこくる人間のタブでしたが、よくよく考えれば攻撃を受ける私を守ってくれたのだと思うとそれ以上注意する気になれず、私は大人しくなったミニブタのAを檻に入れてひとまず暴れるのを止めさせました。

 これで落ち着いてタブと話が出来る、と思いながらテーブルを見ると、Aになったタブはまるで元から人間だったかのように席についていました。

 疑問が湧きます。

「タブ……貴方、昨日までミニブタだったのに、どうしてそんなに人間として振る舞えるの?」

 やっぱり騙そうとしてるんじゃ、と思った私にタブは自信なさげに「自分でも分からないんだ」 と言います。

「分からないんだけど、朝起きた瞬間にこれまでこの人間として過ごした記憶が溢れてきて……それで今のところこの人間として振る舞えてるんだ。前にテレビドラマで移植した臓器の記憶が蘇るとかあったけど、あれと同じようなものなのかな?」

 

 ふと、タブの話を聞いて思い出しました。ここ最近、頭を空っぽにして読める一次創作を読んでいましたが、よくある転生話に「憑依した途端にそれまでの記憶がインストールされる」 という概念がありました。

 冷静に考えれば「いやそれでもおかしいだろ」 と思う話なのですが、私はその時まともな精神状態ではなかったので「なるほど~。あれは経験に基づいた(?)リアルな話だったのね~」 と理解しました。


「裕美さん、僕が人間になるのは……嫌だった? それともそもそも信用できない? ……でも、無理もないよね。僕だって人間が豚になったって聞いたら大丈夫かよって思うし……」

 悲しそうな顔でタブが言います。元のAでは間違ってもしない顔です。

「そんな訳ないでしょ! ただ急に起きた出来事だから、ちょっとびっくりして……」

 タブが安心したような顔で笑います。つられて私も笑います。

 Aが、タブに……。

 真面目にそう考えると、急に未来が薔薇色になった気がしてきました。もう毎日パワハラされない? 電車に乗ろうとするたびに起きる吐き気と戦わなくて済む? 社内でAに会わないようにいちいち遠回りしたり階下のトイレ使ったりしなくて済む? そうなったら……どんなに素敵だろう。


 そう考える私の耳に豚の鳴き声が届きました。

 そうだ、タブが人間になったのは問題ないとしても、Aがミニブタになった件はどうしよう? いくらここがペット可のアパートでも、さっきみたいに鳴いてたら苦情が来るに違いない。豚は恨めしそうに、親の仇を前にした者のようにおどろおどろしい声をあげ続けていました。

 そう不安が顔に出た私を前に、タブはすっくと立って言いました。

「この身体の人、実家は屠殺業やってたんだって」

「え?」

「裕美さん、最近シャワーだけでお風呂入ってなかったよね? 入る気力もないって言って、いつも疲れた顔で……。浴槽使うけど、いい?」

「何、するつもりなの?」

「突然入れ替わったんだから、突然もとに戻ることもあるかもしれない。裕美さん、今が自由になれる最後のチャンスかもしれないんだよ」

 病んでいた私はAが殺されることを心配するより、タブの心配をしていました。

「でも、貴方の身体……」

「裕美さんを守れなかった身体に未練はないよ」

「本気……なんだね。分かった……」


 お風呂場に入ってしばらくして、あれだけ鳴いていたミニブタの鳴き声はある時ぱったりと止まりました。

 それからの記憶は飛んで、夕方になった頃、食卓に美味しそうな豚肉料理が並びました。

 部屋の隅にある何重にも縛ったゴミ袋は視界にいれないようにして、美味しく頂きました。

 


 翌朝、何もかも現実感がありませんでした。特にタブが部屋のどこにもいないことが。

 夢だったのか? と思いながら会社に行くと、Aが待っていました。

 いつものAだったら「朝から辛気臭い顔を見た」 とこちらの心を削るようを言ってくるのですが、今日は「朝起きて裕美さんがくれるペットフードを食べないのって変な感じだ」 と言って笑ってきます。会社なのに、思わず泣くところでした。

 タブは「苛められていた僕を救出してくれた人だから」 と私を愛してくれます。苛められていた生活から一変、甘やかしてくれる上司が出来て私は幸せでした。


 でもそんな都合のいい話はないのです。


 幸せだったのは三日ほど。異変はすぐ感じ取れました。

 風に煽られて書類を机の下に落としてしまい、慌てて取ろうと這いつくばってもがいていると、タブが手伝おうともせず見ているのです。その顔は……。

「タブ?」

「あ、ごめん」

 その時はすぐ手伝ってくれました。


 他にも、ある案件で不備が出て私が他の上司に謝っている最中、視界にタブの姿が映りました。その顔は、嬉しそうでした。


 私という人間は昔から気弱で侮られやすく、苛めっ子気質の人間を引き寄せてしまうところがあります。タブと夜の街を歩いていると、しつこいキャッチにつかまってしまいました。

 本気で嫌がってるというのにやめないキャッチに、止めようとしない横に佇むタブ。視線だけタブに向けると、タブは、恍惚の表情を浮かべていました。横の男が助ける気はないと分かったキャッチは更につけあがり、見知らぬ人が呼んだ警察が来るまで私は言い寄られていました。


 先に根を上げたのはタブでした。

「おかしいんだ。この身体。僕は裕美さんに幸せになってほしいのに、裕美さんが困っているのを見ると楽しくて仕方ないって思ってしまうんだ」


 その理由はもう分かっています。実は、Aがタブになってからすぐ、お局と呼ばれている先輩社員の女性が心配してこう言ってきたことがありました。

「鈴木さん、大丈夫なの?」

「何がですか?」

「AさんよAさん! あの人一昨日から貴方に優しいけど、実は悪い噂があって……」

「噂って?」

「あの人、どういう訳か社内で一番若くて可愛い子にことさら厳しく当たるって噂があって……。そう主張してくるのが辞めてっちゃう被害にあった子しかいないし、他に誰もその現場を見た人はいないしで、立件するのは誰もできないでいたの。そもそも信じられないって人が大多数なのよ、だってそういう子に優しくするなら分かるけど、よりによって厳しくするもんだからさ、筋が通らないじゃないかって思っちゃうのよ。でもそう思う人って子供だと思うわ。いるじゃない世の中さ、そういう性癖の人……」

「……」

「だからさ、昨日一緒に帰ってるところを見てついに強硬手段に出たんじゃないかって心配したのよ。被害にあったなら協力するわ。これ以上新人潰しはさせられないもの」

「いえ……もう大丈夫です」

「そうなの? 貴方がそう言うならいいけど……何かあったらすぐ相談してね?」



 魂は身体の影響を受ける。

 なら性癖も引き継ぐのかもしれない。

 ううん、現に引き継いでいる。私は確信していました。

 このままではまたあの悪夢の日々が繰り返される。しかももう癒してくれたタブはいない。タブがパワハラ上司になるのだから。

 よりにもよってお前が――。そう怒りを感じた私は、タブに最後通牒をつきつけることにしたのです。


 夜の闇に紛れて、私は古いビルにタブを連れ出しました。


「このビルね、屋上の扉が壊れてて誰でも入れちゃうの」

「へえ……危険だね」

「しかも屋上にある鉄柵が一部壊れてて、飛び降りしようと思ったら簡単に出来る状態なの。私が学生の頃からそうだったけど、きっとお金ないんだろうな。事故が起きるまでこうなんだろうなって思うわ」

「……裕美さん、どうしてその話をするの?」

「もう分かるでしょ。私を本当に大事にしたいなら、その身体を消して。ここから飛び降りて消して」


 タブはAの身体でボロボロ泣いていました。可哀想より不快という気持ちが先に立ちました。だって誰が中身になってもセクハラおじさんになるのだもの。


「貴方が飛ばないなら私が飛ぶ。しょせん早いか遅いかの違いだったのよ」

「それだけは嫌だ! そんなことしたら……僕は何のために僕の身体を……」

「じゃあ死んでよ。死んで。私に生きてほしいなら死んで。その身体がこの世にあることが耐えられない!」


 タブはずっと絶望の表情でいましたが、私のその言葉でふっと顔つきが変わり、あがくのを止めた者特有の穏やかな表情を浮かべました。人間、諦めの境地になるとああいう表情になるのでしょうか。


「分かった……。でも、多分防犯カメラに僕達がここまでくる様子が映ってるから、裕美さんは今すぐここを離れて。裕美さんが警察に疑われるのは本意じゃない。何か聞かれたら僕が告白して振ったんだって言えばいい」


 タブのその物分かりの良い様子に「本当にこのまま見棄てていいのか?」 という気持ちになりました。でも本当にこのまま日常に戻ったら、またモラハラおじになるだけなんだろうなとも思いました。私はタブに背を向けます。私の背にタブの言葉がかけられます。


「十五分くらい経ったら落ちるから……」

「分かった」


 それくらいあればビルを離れて電車に乗るくらいできる。流石に人の死ぬところを直視はしたくない。


 電車が動き出してすぐの地点が、まさか飛び降りが一番良く見える場所になるだなんて思いもしませんでした。

 すぐ近くのビルから人が真っ逆さまに落ちるのを車内の何人かが目撃して騒然となりました。

 私は私自身が不気味になるほど何も思いませんでした。

 ただ、ふと思い出したのです。タブの名前の由来を。ネーミングセンスがないからブタをそのままひっくり返してタブにしたことを。タブはその由来のように、頭から落ちていったなあとぼんやり感じていました。


 警察には一応事情聴取されました。直前まで一緒にいただろうということで。ただあのお局先輩が味方になってくれました。

「鈴木さん、Aさんに長いことセクハラされてたんですよ。気が弱いから格好のターゲットだったんでしょうね。そんな鈴木さんだから人殺しなんてする訳ありませんよ。勘違いして付け上がったAさんが振られてやけになったんでしょう」


 先輩の女性の証言をもとに調べると出てくる出てくるパワハラの証拠の数々。訴えても信じて貰えないと思い込んでた日々が悔やまれるほどでした。

 そもそも飛び降りた時は電車に乗ってるのが確認されているし、飛び降りた時のAさんは紛れもなく一人だったしで、Aさんの件は自殺で片づけられました。


 そしてAが消えたことで、新しい上司が配属されました。もっと酷い人だったらどうしようという不安もありましたが、それが杞憂に終わるほど出来た方でした。むしろAさんの件で色々と気を遣ってくださって……本当に世界が変わりました。上司一人が消えただけで。


 環境が変わって精神が安定してくると、自分を振り返る余裕が生まれます。私は人でなしの所業をしたのではないか? という恐れが生まれました。


 おそらく訳も分からぬまま亡くなったAさん。愛してくれた飼い主に死を命じられたタブ……。


 私はまたミニブタを飼い始めました。あの入れ替わりが起きる前の生活に合わせようと思って。

 上司が変わっただけ。それ以外何も変わってない。そう言い聞かせて毎日を過ごしています。実際それ以外は何も変わっていないような毎日でした。穏やかな環境で生きていると何もかも夢のように思えてきます。


 それなのにただ一つ。

 あれから、流れ星が怖くて仕方ありません。

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