03 豊臣秀次

 豊臣秀次という関白がいた。

 秀吉の姉・ともの子であり、つまり秀吉の甥である。

 かつて、秀吉に子がいなかったため、豊臣家の二代目と目されていた。

 秀次は文武両道で、特に剣術を極め、一胴七度なる名刀を所持していた。


「これで豊臣は磐石」


 しかし、茶々が懐妊した時点で、運命が狂い始めた。

 それでも秀吉と茶々の最初の子、鶴松が生まれた頃はまだ良かった。

 鶴松は体が弱く、いつ死ぬかわからなかった。

 それならば、秀次はまだ関白でいられた。

 案の定、鶴松は二歳になるかならぬかで死んでしまう。

 これで秀次のは確定かと思われた。

 が。



「豊臣の子が、また生まれたか」


 豊臣秀頼の誕生である。

 そして秀頼は、兄よりは長く生き延びた。


「ほう」


 秀吉は付け髭をいじりながら、秀頼の二歳の誕生祝をすることにした。

 すなわち、秀次からの関白職剥奪、ならびに切腹である。


「……うう」


 秀次はうめいた。

 秀吉と秀次の仲は少なくとも表面上は良好だった。たとえば、吉野に共に花見に行ったり、あるいは朝鮮から取り寄せた虎の骨を二人で分け合っていた。

 それが切腹である。さらに。


「な、なぜ妻や子まで」


 秀次は叫んだ。

 秀吉は秀次の切腹だけでなく、秀次の妻妾、子女、すべてを――秀次とその一族のすべてを、ほぼすべてを死罪に処した。

 理由としては、秀次が謀叛を企んだだの、悪行(罪人を自ら斬り殺す、辻斬り、妊婦の腹をく等)のゆえだの言われている。

 これにより、秀次はある異称を得た。

 すなわち、殺生関白と。



「これでは、秀次どのと同じぞ」


 忠栄ただひでは歎く。

 そういえば秀頼が手に入れた刀というのも、よく考えたら秀次の佩刀はいとうだ。


「なぜこんなことに」


 そう問わずともわかっている。

 完子さだこが言うように、完子の乳母めのとの死から喚起される何かである。


「何かとは」


 このままでは、下手をすると徳川家による豊臣家への介入を招く。いくさになる。


「それだけは避けねば」


 九条家としては、豊臣家は、ゆるやかに徳川家に臣従してもらいたい。

 もはや豊臣家に昔日の勢いはない。

 ならば、義弟である秀頼には、一公卿として、その生をまっとうしてもらいたい。


「世は泰平に向かいつつある。今さら、誰もいくさは望まぬであろう」


 何より、秀頼が身を滅ぼすような真似は、させたくないというのが忠栄の真情だった。


「会いに行こう」


 会って、諌めるべきであろう。

 今なら、四辻与津子の話をするという名目もある。


「それにしたところで、やはり……猫、否、乳母の死について考えておかねば」


 忠栄は、妻の完子から改めて乳母の怪死事件の話を聞き、その直前の、豊臣家の内々の集まり──茶々、秀頼、千姫、完子とその乳母の集まり──の話を聞いた。


「乳母の発言を千姫さまが受け、そして茶々さまが黙りこくった……無表情だった……その


 何か、引っかかる。

 それが、改めて婚儀の前夜のを振り返った時の感想だった。


「なぜ、あのようなが」


 千姫は徳川の姫である。

 しかし、茶々から見て、妹の江の娘、つまりは完子の妹。

 だというのに、なぜ。


「その言葉を無下に」


 敵意があったとして、少なくともあの場、あの集まりでは。


「何かをできたのでは……取り繕う言葉でも、『ええ』でも、『そう』でも……」


 もう一度、振り返ってみよう。

 乳母は、何と言った。


 ──何にせよ、めでたきこと……完子さまが嫁がれ、そして秀頼さまも、今改めて見ますと、何と見事な男ぶり。まさに豊臣の子。お父上の関白さまを見ているようでございます。


「…………」


 完子の記憶が正確ではなく、ところどころ、ちがうかもしれない。

 そのため、何度も聞いてみた。

 すると、言い回しなど、細かいちがいはあるが、前述の言葉を繰り返して答えた。

 つまりは、間違いは無いと思われる。

 ではなぜ、乳母の言葉が忠栄の心に引っかかるのか。


「関白か」


 豊臣秀吉が望んだ官職。

 豊臣秀頼が望まれる官職。


「それは、この九条忠栄が就いた官職」


 泉下あの世の太閤殿下が聞いたら、さぞかし歯がゆい思いをされているだろう。


「待て」


 自分は今、何を考えた。

 引っかかる。

 いや、引っかかりの根がそこにある。

 太閤殿下。


「あ」


 この時をのちに振り返り、九条忠栄は氷解した喜びと同時に、凍りつく恐怖を味わった。

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