第2話 長い長い闘い

出産予定日の夜に始まった陣痛。慌てて車に飛び乗り、地元の病院へと向かう。事前に名前や住所、予定日等は登録しておいたので、当日はとてもスムースに事が進む。素早く受付を済ませ、検査を受け、宿直のドクターが数値を確認して、そのまま即入院。


カナダの田舎町に在る病院はスペースに余裕があるのか、かなりゆったりしたLDRの個室を使用できる。

(LDRというのは、陣痛が始まってから分娩、そして産後の回復までを途中で移動することなく同じ部屋で落ち着いて行う事の出来る部屋の事。Labor(陣痛)、Delivery(分娩)、Recovery(回復)の頭文字をとってLDRと呼ばれている。)

快適なLDRでは、付き添いの僕にもフカフカのフルリクライニングのソファーが置かれている。それはまるで広々としたホテルに滞在しているような気分で、少し浮かれていたのだが、なぜこんな立派なソファーが必要なのか、その意味をこの時の僕は考えもしなかった。


カーテンの隙間からそっと見上げた夏の夜空は、スカッと晴れ渡り綺麗な星空が広がっている。僕はその星空を見ながら、前年、取材旅行で山奥でキャンプをしていた日の事を思い出していた・・・


カナダとアメリカの国境近くに広がる手付かずの森。そこで見上げた星空の美しさ・・・僕達は地面に直接毛布を敷き、ただ夜空を眺めていた。いや、見とれていた。そんな時、ぽつりと妻が呟いた・・・


「赤ちゃんがいたら良いのにな・・・」


・・・と同時にシューッと何かが瞬いた。



流れ星だった。



結婚から10年、半ば諦めかけていた妊娠、出産は、きっとあの時の星に願いが叶ったからだと今でも僕は信じている。


僕と同じように、諦めかけていた人がもう一人いた。もはや孫の顔を見る事は出来ないのかと思い始めていたのは日本に住む義母も同じだった。フリーカメラマンなどという得体の知れない奴と結婚し、一人娘がカナダに移住したまま10年。もうほとんどUFOで現れた宇宙人に娘をかっさらわれたような気分だったに違いない。


そんな諦めかけたところに届いた娘からの妊娠の知らせ。最初は疑い、驚き、興奮を抑え切れずに待ち続けた孫誕生に合わせ日本から駆けつけてくれた。


だが、一つ大きな問題があった・・・この義母と言う人は、根っからのネガティブ志向なのだ。


「ダメなのよ、私はいつも最悪の事を考えちゃうのよ」と本人が言うのだから間違いない。妻も、そんな義母の性格をよく分っているらしく「生まれたら連絡するから、それまでは家でニャンコのお世話係しててね」と留守番を頼んでいる。

「だって私が大変な時に、横で『大変、大変、どーしょましょ、どーしましょ』って騒ぎ始めたら、落ち着いて出産に集中できないでしょ」と言う。


まっ、でもこの調子なら明日の朝には義母に嬉しい報告が出来るだろう・・・と、この時まで僕はそう思っていた。


陣痛は続いているが、まだ生まれる気配は無い。時折響く陣痛測定器のジージージーという音だけが部屋に響く中、時計の針が12時を回り、日付が一つ進んだ。



7月21日(金)


出産予定日を過ぎてしまったが、初産が長引くことはよくある事。この時点で僕達にはまだ焦りも心配も無い。襲って来る陣痛の激しさは一定ではなく、時に強まり、時に弱まりを繰り返す。妻の身体には様々な測定機器が取り付けられ絶えずモニタリングが続けられている。そのデータを確認したナースが何度も触診をして確認するのだが、ここで大きな問題が見つかった・・・



子宮口が開かない。



自然分娩を行う場合、子宮口が10センチ以上に広がらなければ出産する事は出来ない。


だが、何度触診で確認してみても、妻の子宮口は2~3センチで止まったまま全く開く気配が無い。陣痛開始から約8時間、次第に息遣いは荒くなり、痛みは激しさを増し、一目で疲れている事が見て取れる。痛みと苦しさで眠れない妻と、その横で何の役にも立たない僕、何とも言えない不安を抱えたまま朝を迎えた。


冴えない気分とは裏腹に、窓の外は今日も綺麗な青空が広がっていた。夏のカナダ南西部特有のカラッと乾いて冷たい風がとても心地良い。


だが僕の心は重かった。


陣痛が少し弱まった隙に、病院の入り口にある公衆電話へと急ぎ、家に電話を入れる。留守宅にいる義母に、これまでの経過を伝えねばならないのだ・・・・が、妻の予想通り・・・


「え~っ、どうしましょ、どうしましょ、私もやっぱり病院に行けばよかったわ・・あ~っ、どうしましょう」と、早くも受話器の向こうでパニックになっている。


「落ち着いてください、彼女は元気ですから」

「何言ってるの!そんなはずないでしょ、こんなに時間がかかって元気なはずないわ」


「もう少し時間はかかりそうですが、大丈夫ですから・・・」

「大丈夫な訳ないでしょ!・・・男のあなたに何が分かるの!少し前までは出産で女性は沢山死んでたのよ」


興奮状態の義母の耳には、もう僕の言葉は届きそうにない。

僕もその声を聴きながら、義母にはこのまま留守番をしててもらう方が良いと感じた。



病室に戻るが一切進展は無く、疲労と共に昼が過ぎ、無情にもまた次の夜がやって来た。


動物の本来持っている本能なのだろう、陣痛は昼間よりも夜間の方がきつく激しさを増す。敵に見つかりにくい夜間に出産する事で生存確率を上げる、原始の時代からの遺伝的メカニズムなのだろう。だが妻の場合、陣痛が来ないわけではなく、子宮口が開かないのだ。初産の場合、出産時間が長期化しやすいとは知っていたが、これは幾らなんでも長すぎる。


陣痛の間隔は徐々に速まり、痛みは増し、どんどん体力が消耗されていく・・・



閉鎖された部屋の中に、流れる重い空気。


元気だったとはいえ高齢出産、先生が何度も話していた《ハイ・リスク》という言葉だけが、なぜか何度も頭を駆け抜ける。


飾り気の無い壁掛け時計の針が12時を越え、日付がまた一つ前に進む。


陣痛開始から26時間、子宮口は3センチのまま変化は無い。



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