第二話 ――古城からの帰還
夜の帳が降りたアルバ村。
僕・ロランは全身汗だくで、どうにか自宅の扉を開いた。古城での“出来事”のせいで疲労は極限だが、今は家族にバレないよう、平静を装う必要がある。
「ただいま……」
「あら、ロラン。ずいぶん遅かったじゃないの」
母がキッチンから顔を出す。夕食の片づけは既に終わっており、テーブルの上に冷めたスープとパンが置かれていた。どうやら僕を待っていてくれたらしい。
父はまだ帰宅していないようだ。商人との取引で、隣村へ出かけているはず。
「ちょっと、森の方まで行ってたら遅くなっちゃって……ごめん」
「そう。まあ危ないことをしなかったんならいいけど。冷えてるけど、ちゃんと食べてね」
母は軽くため息をつきながらも、僕を叱りつけることなく奥に戻っていった。
今は叱られるよりも、早くひとりになりたい。古城での恐怖と疲弊がズシリとのしかかり、食欲もほとんどない。スープを一口含むが、舌が味を感じないほどだった。
(……どうにか普通に振る舞わなきゃ。あんなこと、誰にも言えないし)
僕の中にはいまだ、魔王アルナール・ネグザレスが“亡霊”として潜んでいる。脳裏にあの低い声がこびりつき、いつまた話しかけてくるか分からない緊張感に襲われる。
(おい、小僧。聞こえているぞ。いつまで黙っているつもりだ)
――やっぱり。
意識の奥底から、まるで耳元で囁くように魔王の声が響いてくる。思わずスプーンを持つ手が震えた。
(今は勘弁してよ……家族にバレたら面倒なことになる)
(ならば内心で会話することにしろ。貴様の身体を完全に支配できぬ以上、こうしてやり取りするしかないのだからな)
ロランとしては正直、気がおかしくなりそうだ。しかし母に気づかれないよう、なんとか平静を保ち、スープとパンを少しだけ口に運んだ。
食事を終え、自室に戻ると、すぐにベッドに倒れ込む。脳裏の魔王が再び話し始めた。
(ふん……散々な結果だが、我とてこのまま黙ってはおらぬ。近くに我の力を取り戻す手がかりがあるはずだ)
(悪いけど、その“力を取り戻す”ってのは勘弁してくれないかな。僕の身体を完全に乗っ取られたらたまらない)
(黙れ、小僧。もともと貴様の身体など、儀式の生贄にすぎなかった。今ここにあるのは偶然の産物だ)
(偶然……? なんで完全に乗っ取れなかったの?)
あのとき、魔王は確かに僕の全身を覆うほどの闇を放っていた。でも途中で何かに邪魔されたようだった。
(わからぬ。だが貴様の内側に、我が呪いを拒む“光”のようなものを感じた……まさか、こんな凡庸な小僧が、何らかの聖なる加護を受けているのか?)
(聖なる加護、なんて身に覚えないけど……)
自分が何か特別な存在だなんて思ったことは一度もない。ただの農家の息子で、魔法の才能もなく、剣術も振るえない。
だというのに、なぜ魔王は完全復活に失敗し、僕の中に留まっているのか。疑問だけが膨らむばかりだった。
翌朝
早朝、鳥のさえずりとともに目が覚めた。あまり眠れた気がしないが、日常は待ってくれない。畑の仕事や家の手伝いを放っておくわけにはいかないからだ。
母が用意してくれた朝食のパンとミルクを口にしながら、僕は窓の外を眺める。いつも通りの穏やかな村の風景……でも、僕の心は全く落ち着かない。
(しばらくは、この魔王との同居がバレないように気をつけないと……)
考え事をしていると、不意に玄関の方で騒がしい声がした。
「ロラン、エリンちゃんが来てるわよ」
母の声に、ああと返事をして玄関に向かうと、そこには幼なじみのエリンが立っていた。少し焦ったような表情だ。
「ロラン、大丈夫!? 昨日、森の奥に行ってたって話を聞いて……あの古城の近くまで行ったんじゃないかって……」
「あ、ああ……ちょっと探し物してて。別に怪我もないし平気だよ」
本当のことは言えない。エリンは幼いころからの付き合いで、何でも話せる相手だけれど、さすがに「魔王の亡霊が憑いたんだ」なんて告白したら大事になる。
エリンは僕の顔を上から下までしげしげと見たあと、胸をなでおろした。
「……そっか。よかった。変わりないようなら安心したよ。でも、あそこは危ないって聞くし……二度と行かないようにね」
「わかってる。心配かけてごめん」
エリンの大きな瞳は、まるで何かを探るかのように僕を見つめている。彼女は村の医術師に弟子入りしているからか、人の体調の変化によく気づくのだ。今も、僕の様子がおかしいことにうすうす感づいているのかもしれない。
しかし、これ以上詮索されたらまずい。早々に話を切り上げようとしたそのとき――
「そうだ、ロラン。今朝、変な噂を聞いたんだけど……村の外れで、昨夜“黒い影”を見たって人がいるんだって」
エリンが思い出したように話し始めた。その“黒い影”という言葉に、僕はぎくりとする。まさか、古城での呪いの影響? それとも魔王の力がどこかで暴れた?
一瞬焦る僕をよそに、エリンは続ける。
「その人は“形がはっきりしない幽霊みたいだった”って言ってて……いや、そんなのただの見間違いだと思うんだけど、なんとなく気味が悪くてさ」
「そ、そう……だね……」
胸がドキドキする。もしかすると、あのとき城で魔王と融合した影響で、何らかの“残滓”が村にも流れ込んでいるのかもしれない。
僕の脳内で魔王が小さく鼻を鳴らした。
(クク……心当たりがあるのか、小僧? だが安心しろ。昨夜は貴様とともに城を出てから、我は何もしていない)
(それはそれで不気味なんだけど……)
僕はエリンから視線をそらし、どうにか落ち着きを保とうとする。そんな僕の様子に、エリンが首をかしげた。
「ロラン……やっぱり少し変よ? 本当にどこも具合悪くないんだよね?」
「だ、大丈夫だよ! 心配かけて悪いね。ちょっと寝不足なだけだから……」
嘘ではない。けれど、それが全てというわけでもない。エリンは納得いかない表情を浮かべながらも、一応は引き下がってくれた。
畑の仕事
エリンと別れた後、僕は家の裏手にある畑に向かい、野菜の世話に取りかかった。こうして土を耕し、作物の成長を見守るのが、いつもの日常だ。
だが、いくら身体を動かしても、頭の片隅には常に“魔王”の存在がある。
(あの……アルナール? 魔王さん? ちょっといい?)
(ふん、なんだ小僧)
農具を動かしながら、僕は心の中で問いかける。
(俺……これからどうすればいいんだ? お前を完全に追い出す方法って、あるのか?)
(さあな。我も本来ならば完全に肉体を支配し、貴様の意識は消えているはずだった。だが失敗した以上、別の手段を探るしかあるまい)
魔王はどこか気だるげに答えた。
(とはいえ、何もせずここで農作業に勤しむ気はない。貴様が渇望しようがしまいが、いずれ我の力は徐々に戻ってくる。そしてこの身体を取り戻す時が来るのだ。貴様はそれまでの“器”にすぎん)
(それは困るよ……!)
(ならば、せいぜい手を尽くしてみるがいい。聖職者とやらに頼るか、教会の秘術を探るか……いずれにせよ、このままでは終わらんぞ)
魔王の言葉は冷酷だが、そこには妙に含みがある。まるで、今は僕にすら「協力」した方がいいと考えているかのようだった。
――こんな状態では、落ち着いて生活できそうにない。でもこのまま黙っていても何も変わらない。
僕は農作業をしながら、少しだけ決意した。
(……ガルス神父さんに相談してみようか……)
アルバ村の教会を任されているガルス神父は、ときどき王都の教会へ赴いて儀式や情報を仕入れている。教会の秘術や封印に詳しそうだし、何より信頼できる大人だ。
本当は魔王の亡霊が憑いたなんて言ったら大騒ぎになるかもしれない。それでも、今のままでは僕も魔王もどうしようもない。
なにより、もし本当に魔王の気配が外に漏れ出して、村に悪影響を及ぼすなんてことになったら……。
(このまま放置はまずいし、何か手がかりを探さないと)
畑の端を耕し終え、額の汗をぬぐう。決心が固まった瞬間、僕の心臓が少しだけ軽くなった。
しかし同時に、不穏な気配が胸の中でくすぶる。魔王ははたして、僕の“相談”を黙って見逃すのだろうか――?
(クク……面白い。やるがいい、小僧。どのみち、このままでは我も完全復活はできん。強力な聖職者ならば“呪い”に詳しいはずだろう?)
(……どういうつもり?)
(何、いざとなれば貴様を支配すればいいだけのこと。むしろ貴様が無駄にジタバタして、どんな秘術を引っ張り出すのか見てみたいものだ)
まるで、僕を利用する気満々。だけど、僕はその腹の底を読む余裕なんかない。
どんな形であれ、一歩ずつ前に進むしか道はないのだから。
こうして僕は、魔王の亡霊を抱えたまま、日常へと戻った。
まだ誰にも相談していないが、近いうちにガルス神父のもとを訪ねてみよう――。
そんな不安と決意を胸に抱えつつ、僕は鍬を握り、いつもと変わらぬ村の風景を見つめていた。
――続く――
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