その⑤ 一(にのまえ)くん

 『春夏冬』と書いて『あきなし』とか、『美甘』と書いて『みかも』とか、世の中にはどう読めばいいのかすぐに分からない名字の人って、結構いますよね。


 私のクラスににのまえくんが転入してきたのは、そろそろ卒業を意識し始める中学三年の三学期のことでした。


「『一』と書いて『にのまえ』と言います。よろしくお願いします」


 漢数字の一は二の前にあるからというのが読み方の由来だそうですが、当時読んでいた漫画の影響で『伊集院』や『西園寺』といった珍しい名字に憧れを抱いていた私は、一くんが『にのまえ』という名字であるだけで、友達になりたいと思ったのです。


 私は学級委員という立場を利用して、一くんに「学校、案内しようか」と尋ねました。急な声掛けに驚いたのか、一くんは私を見てビクリとしました。私は一くんの緊張が少しでもほぐれるように、わざとらしいぐらい口の端を上げて笑顔を作りました。一くんは少し迷った後、「ありがとう」と言ってくれたので、私たちは連れ立って教室を出ました。


「ここが保健室」

「こっちは音楽室」

「美術室はこの廊下の突き当りだよ」


 私は先に立って歩きながら説明の度に一くんを見ましたが、一くんの目は教室入口の上にある表示しか見ていないようで、こちらに視線が向くことはありません。

 何か嫌な気持ちにでもさせてしまっただろうかと思いましたが、そんな覚えは皆無です。とはいえ、中学三年生ともなると行為や態度とは関係なく、印象だけでどうしても好きになれない人がこの世には存在するということを十五歳の私は知っていました。


 こちらは友達になりたくても一くんはそうではないのだとしたら、それはとても悲しいことですが受け入れなくてはなりません。でも当時の私はそんな風に考えることが出来ませんでした。


 学級委員を務めている私は先生から気に入られていて、友達もたくさんいる。嫌そうに接する人はいないし、むしろ私が何かを言えば皆が「凄い」と褒めてくれるのだから、そんな私と仲良くしたくない訳がないんだと思っていたのです。


 あの時の私は良く言えば楽観的かつポジティブ、悪く言えば非常に傲慢でした。


 一くんはいつもひとりでした。

 はじめのうちは皆が声を掛けていましたが、休み時間になるといつも壁を作るように本を取り出してしまうので、次第に誰も近付かなくなったのです。

 とっつきにくいヤツだと言われるようになっても気にする様子はなく、そんな態度をとる彼のことを、むしろ私は「恰好良い名字の人はやることも他とは違うんだ」と更に憧れを募らせていきました。


 一くんのことを観察するうちに、気付いたことがありました。

 彼は人との距離が妙に遠いのです。

 私は最初「パーソナルスペースが広い人なのかな」と考えていたのですが、それも少し違いました。


 人によって空ける距離が違うのです。

 Aさんとは三メートル程開けているけれど、Bさんとは一メートルでも問題はなさそうでした。それでもメートル単位で距離を取れば、その間に誰かが割って入ったり通り過ぎたりします。何かをする際には物凄く面倒なのではと思いましたが、それでも一くんはその距離を保とうとしていました。

 私と一くんの距離はどうかというと、目視で五メートル以上開いていました。

 休み時間に私が少しでも近付こうとすると一くんは怯えた顔をして離れてしまうので、友達になるどころか少しの会話も出来ません。私にとってもどかしい日が続く中、チャンスが訪れました。


 テストの真っ最中に、一くんの具合が悪くなったのです。


 一くんは普段から休みがちな子で、身体が弱いのか真っ青な顔で早退することもしばしばありましたが、この日は学期末のテストがあったため無理を押して登校したようでした。


 カリカリと鉛筆を走らせる音だけが聞こえていた教室に、突然、床と金属の擦れる音が響いたかと思うと、「わぁ」とか「きゃっ」という声が聞こえました。

 問題用紙から顔を上げて音が聞こえてきた方向を見ると、一くんが椅子から落ちて床に倒れていたのです。

 監督をしていた担任は保健の先生を呼びに行くと教室を飛び出したため、今ここにいるのは生徒たちだけです。

 私はテスト中であることを忘れて席を立ち、一くんのそばへ駆け寄りました。

 クラスで何かが起きた時は学級委員が動くべきですし、介抱を機に一くんが少しでも私のことを見てくれるようになればいいという下心めいたものも少なからずあったと思います。


「一くん、大丈夫?」


 皆が遠巻きに見る中、私はしゃがみ込んで一くんの顔を覗くようにしながら、横向きに倒れていた一くんの肩を叩きました。


「一くん」


 何度か呼び掛ける内に一くんは薄く目を開けましたが、私に気が付くとその目を大きく見開き、真っ白な顔で震えながら「寄るな!」と叫ぶと私を手で強く突き倒したのです。


「お前ら、こっちに近付くな!」


 呆然としている私に向かってそう叫んだ一くんは、何かから逃げるように足をもたつかせながら半狂乱で教室を飛び出したものの、再び廊下で意識を失いました。

 一くんは救急車で運ばれた後、二度と学校へは戻って来ませんでした。

 卒業式を目前に控えながら、彼は別の学校へ転校したのです。


 『一くんと友達になる』という願いは叶わないまま、私は中学を卒業しました。

 それまで誰からも拒否されたことのなかった私にとって、初めて経験した敗北でした。

 

 私は一くんに関する一連の出来事について自分がこれ以上ショックを受けないようにするためにも出来るだけ深く考えないよう努めてきましたが、あの出来事から何年、何十年と経った今、ふと思うのです。


 、と。


 私をはじめ、クラスの全員を指しているとずっと思い込んでいましたが、一くんは他の子に目を遣ることなく、私だけを見据えて『お前ら』と言ったのです。


 私は私ひとりだけなのに、どうして複数形だったのでしょうか。


 一くんに、その理由を尋ねたい。

 会って、確かめたい。

 そうすれば――。


「おかあさんのうしろにこわいおかおの人たちがいっぱいいるよ。おへやがぎゅうぎゅうしてる。みんなだぁれ?」

 

 娘の言葉が本当かどうか分かるのに、と。

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