第10話

「こちらへ――」


 店主の言葉で大きな縦長のモノの前に立たされた。重苦しい布を捲り上げると、中からは大きな姿見鏡が現れた。布を外された鏡は反射する光源が部屋にないのに少しの明るみを周りに与えている。


「人はなぜ鏡に姿を映すのでしょう。反転する自分の影を捉えたいのか、誰かの目に映るものを気にして、なのか」


「たぶん、怖いんだと思います。自分がどう人の目に映っているかなんて自分ではわからない……わからない、は怖い、です」


 自分のこと。それは、見えているつもりでも目が届かないとこばかり。誰かの指摘で気付くことの方が圧倒的に多い。そんな自分の知らない周知を突きつけられるのはとても怖い。


「ええ。見えないもの、わからないもの、というのは不安であり恐怖でもありますね。例え鏡に映したからといって何かが明らかになるわけでもありません。できるのはただ映った姿を覗くことくらい」


 そうだ、鏡に姿を映しても何かが明らかになるわけじゃない。見える範囲だってそう多くはない。


「では心はどうでしょうか? 確かに自分の中に存在する。思う、考える、感じる、それら感情など。ですが実体はありませんし、見えないものですよね」


「私は心も怖いです。わからないです、見えません。自分のも、誰のも……」


「言葉は心を映す鏡です。文字や声、形にならないものでもその言葉は心の何かを少しだけわかるようにしてくれます。おそらくあなたはわからないのではなく、それがわかり過ぎるから怖いのでしょう」


 わかり過ぎる? そんなことない、店主の言葉を、首を振って否定した。どれもわからない。


 わからないだらけの私の心はどんな言葉を映すのだろう。やっぱり、わからない、というような霧の中のような言葉だろうか。


「そんな心は鏡に何を映してくれるのでしょうね」


 そう言うと店主は先ほど記帳した帳簿から紙を剥がし鏡に押し当てた。


 すると、鏡は紙を跳ね返すことなく。水面の如く、スっと吸い付けると波紋を広げながらみるみる紙をその中へ落としていった。


「参りましょう」


 店主に手を引かれ、私もそのまま鏡の中へ踏み込む。一瞬、水のような冷たさを感じた気がして怖くなり目を瞑(つむ)ってしまった。鏡の中、そんな無機質で未知の中に踏み込んでしまった。怖い、怖い、怖い。


「大丈夫、知っている風景を想像してください」


 目を瞑ったまま、言われた通り現実の光景を思い浮かべた。次に目を開ければいつもの風景が広がっている。そう、期待ではなく、願いでもなく、そう思いながら。店主の「着きましたよ」の声に目を開けた。


 日常を思い浮かべる。雑多で喧騒の駅前大通り、絶え間なく交差していく人の流れ、煩い残響、息苦しさを感じた景色。


 私は目を開けた。




 しかし、――――私の目の前には想像していた〝いつもの風景〟とは違ったものが広がっていた。


 目に入ったのは巨大な木。樹齢何年どころではないような巨木。大きな幹は遠近感を狂わせ、無数に広がった枝には青々とした葉を茂らせている。あんなに大きな木はテレビでも見たことがない。


 巨木以外にも幹が太く、背の高い針葉樹らしき樹木や枝葉の大きい広葉樹なしき樹木が無数に群生していて、何かの手違いでどこかの森の中にでもきてしまったのだと思った。それくらい、目に入ってくるものは圧倒的な緑。


 大きな木や想像した現実との違いに驚きながらも辺りを見渡した。すると、ツタに浸食されたビル群、コケに覆われた信号機、草花が生い茂ったアスファルト、緑の中に私の知っている日常がある。ここは確かに現実だ。


 現実と知ると一気に周りの音たちが耳に入ってきた。


車のエンジン音、間隔の早い足音、人の話し声、どこからか聞こえる音楽の混ざり合い、様々な雑響。

馴染みのある、見たことのない光景。私のよく知る無機質と人で埋まった駅前大通りは緑に覆われた森だった。


 それでも、最も信じられない光景は緑に包まれた荒廃都市のような世界ではなく、その中で人々が顔色一つ変えず何も変わらぬ日常を送っていることだ。


「わっ!」


 私たちを透けるように後ろから人が通り抜けた。


「現実に対してわたし達は殆ど干渉できませんが、」


 そっか。私たちは今、実体がないから……なるほど。


「現実からは干渉を受けやすいので十分に気をつけてください」


「わかりました」


私の知っている日常。それが余計にこの景観の異常性を際立たせている。


「これが先ほども説明した〝影響〟です」


 店主は近くの一本の樹木に触れながら視線を一周させ「わたし達を含め、この光景は彼らには見えていません。ですが、確かにここにあるのです」と言った。


 私がまだ日常の異常に目を奪われている中「これを」と方位磁石のようなものを渡された。


「今からあなたを探します。この世界では現実と同様の時間が流れているので、なるべく早くあなたを見つけなくてはなりません。今、あなたの肉体は生命活動こそしていますが、意識がない、とても無防備な状態なはず。それに何らかの理由で体を移動されたりすると探し出す時間が延びる可能性もあります」


 私がこうなった場所は駅だ。体に危害を加えられることは考え難いが、病院などに運ばれていれば確かに探すのは骨が折れる。今の状態の私では誰かに道を尋ねることさえできないのだ。


「この方位磁石は強く思った者の影響を受けて場所を指します。急ぎましょう」


 私たちは荒廃した日常のような光景に足を踏み出した。


 言われたまま、方位磁石を握り、自身の姿を思い浮かべる。名前や住所がわからなくとも、幾度となく目にした姿だ――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る