最終話

 ぼくはこれで話は終わりだと思い、ICレコーダーをオフにしかけた。

 しかし、和田さんの話はもう少し続いた。今しがた聞いた話の、数年後の出来事だという。


「霧が出とる日の海辺で手を合わせるもんがおると、さっきそう言うたやろ」

「ええ、おっしゃってましたね」

 近しかった故人を偲び、あるいは祖霊に感謝し、霧のはるか向こうの極楽浄土に祈りを捧げる。確かそういう話だった。

「霧の日に必ず祈っとる熱心な人がおったのや。悦子えつこさんという人やったのやが、祈っとる内容がえらい不憫ふびんでなあ……」


 悦子さんは六十代半ばになる女性で、旦那さんと息子さんを、相次いで亡くしたそうだ。旦那さんが心臓の病で亡くなった半年後に、今度は息子さんが車の事故により亡くなった。

 それから悦子さんは霧が立ちこめている日に、必ず海辺で手を合わせるようになったという。その海辺で同じように祈っていた人が、悦子さんの呟くように祈る声を聞いたのだった。


「ひとりはいやや、はよう迎えにきて……そう祈っとったようや」

 家族を相次いで亡くした悦子さんは、孤独に堪え兼ねていたのかもしれない。

 そして、あるときその悦子さんが――。


 二月半ばにしては暖かい日の、昼過ぎのことだったという。ふらふらと歩いている悦子さんを近所の人が見かけて、どこにいくのかと声をかけた。

 すると、悦子さんはこう答えたそうだ。

「霧が出とるさかいな、海辺に祈りにいくのや」

 近所の人はそれを聞いて首を傾げた。その日は霧など出ておらず、空気もすっきりと澄んでいた。

 そういったことがあった日に、悦子さんは忽然と姿を消した。海辺から家に帰った痕跡はなく、足取りもつかめず、蒸発するように消えたのだ。まさに神隠しという状況だった。


「今も見つかっていないんですか」

 ぼくの問いに、和田さんは頷いた。警察が事件と事故の両面から捜査したが、今に至るまで発見されていないという。

「普通の霧は誰の目にも見える。そやけど、極楽浄土から流れてきよる霧は、きっと一部のもんにしか見えんのや。悦子さんは極楽浄土の霧を見たのやろう」


 和田さんもさっきの話の中で、同じような体験をしている。漁の最中に不気味なほどの濃霧にみまわれたというのに、仲間の漁師は霧など出ていなかったと断言した。和田さんには見えていた濃霧が、仲間の漁師に見えなかったのだ。

 それが神隠しを起こすとされている極楽浄土の霧であり、一部の人にしか見えない霧ということなのだろう。

 そして、その霧を見た悦子さんは極楽浄土につれていかれたと、暗にそう言っているのだ。

 悦子さんは生きることに絶望していた。海に身を投げた可能性もあるだろうが、それはぼくがあれこれ詮索することではないはずだ。


 和田さんの話は続いた。

「あのときわしは、濃霧の中で声が聞こえたような気がしたのや。島影のあるほうに向かわんよう、よび止めてくれとるような声やった」

「そんな話をされてましたね」

「あれは妻や子供たちの声やったと思う」

 和田さんは奥さんがご健在で、成人したふたりの息子さんと、余所よそに嫁いだ娘さんがひとりいる。孫もたくさんできた。

 極楽浄土の島影に向かいかけていた和田さんを、この世にいる彼らがよび止めてくれたのではないかと、今になってそんなふうに思っているとのだという。


「そやけど、悦子さんは家族を亡くして孤独な人やった。よび止めてくれる人がおらんくて、極楽浄土にいってしもうたのやろう……いや、もしかしたら声が聞こえていたかもしれんが、極楽浄土から聞こえよったのかもしれんな」

 悦子さんの旦那さんと息子さんは相次いで亡くなっている。彼女の家族はもうこの世にいないのだ。悦子さんも霧の中で家族の声を聞いたのだとすれば、極楽浄土の島から響いてくる声だったのかもしれない。

「悦子さんは旦那さんや息子さんに会えたのやろか。会えとったらええのやが……」

 和田さんはそう呟きながら、手を合わせて、祈るような仕草をした。

 悦子さんが安らかであることを祈ったのだと思う。


 ところで、海でのその一件があってから以降、和田さんにはある心境の変化があったそうだ。

 以前の和田さんは毎晩のように酒を飲み、煙草も好きなだけ吸っていた。しかし、現在は酒も煙草もなるべく控えている。週末に奥さんがつけてくれた梅酒を飲むくらいだという。家族のために元気で長生きしようと、それまでの生活を改める決意をしたのだった。


     (了)


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霧の海 烏目浩輔 @WATERES

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