恋愛怪談

成田紘(皐月あやめ)

コツコツさん

「すると、誰もいないはずの暗い廊下のその奥から、コツ、コツ……と女物の靴音が響いて来て」


「逃げ遅れた男は、このビルから飛び降り自殺した女の幽霊に手を掴まれて、異界に連れ去られてしまったのでした、だろ?」


 俺が怪談のオチを先取りすると、後輩は桜色の頬をぷくっと膨らませ、ふっくらと瑞々しい唇をつんと尖らせた。


「もう!怪談のオチを先に話しちゃうなんて、マナー違反ですよ!」




 帰宅準備を整えた後輩が、「そう言えば先輩、こんな話知ってます?」と、ひとりデスクに座ったまま残務整理に追われていた俺に声をかけてきたのが始まりだった。


 後輩がしてくれた、このどこの会社にでもありそうな怪談は、うちの会社が入っているビルにまつわるものだった。このオフィスビルで働く者なら誰でも知っている話だ。

 俺も入社早々、この怪談を先輩社員から聞かされたっけ。

 

 今、目の前で俺を叱咤した後輩は、この手の話が好きらしい。

 若い女の子はなんだかんだ、怖い話が好きだと思う。てか、それでキャッキャと盛り上がるのが楽しいのだろう。

 俺は怪談なんて信じちゃいないが、エンタメのひとつとしてなら楽しめる。


 とはいえ、もうとっくに定時を過ぎている。

 うちの会社は本日ノー残業デーだ。事前に残業申請していない後輩をいつまでも残しておくわけにはいかんだろう。


 俺はすまんすまんと笑いながら、「気をつけて帰れよ」と後輩に帰宅を促した。


「お疲れさまでした!先輩なんかコツコツさんに連れてかれちゃえ!」


 後輩はぺこりと頭を下げると、そんな捨て台詞を残して会社を後にした。

 俺はこのビルに出ると言われる女の幽霊が、そんな名前で呼ばれていることを初めって知って、思わず関心してしまった。

 俺が聞かされた時は少なくとも無名だったはすだが、話が進化していておもしろい。


「てか、コツコツさんて。子供の頃に聞いた都市伝説と色々ごっちゃになってね?」


 


 腹時計が鳴ってスマホを確認すると、既に八時を回っていた。

 俺は軽く首を回し強張った肩の凝りをほぐす。

 誰もいないオフィスは伽藍堂がらんどうで、空調は効いているのにどこか寒々しい。

 俺はフッと短く息をついた。


「腹減ったな……」


 俺は今週の金曜日、バースデー休暇を取得している。たまたま今年の誕生日が金曜だったことを利用して、土日とくっつけて三連休にしてやった。


 特に何の予定もないが、その日でとうとう、三十歳の大台に乗る。

 男三十、独身、彼女いない歴五年。


 ここ数年は仕事に邁進して結果も残してきた自負もある。ここらでちょっと骨休めしたっていいじゃないか。そのためにノー残業デーも返上して頑張っているんだ。

 頑張っているけど。


 最近、何だか無性に空しい。

 頑張れば頑張るほど、仕事の成果と反比例して、心の充足感が右肩下がりな気がしている。

 骨折り損のくたびれ儲け――

 そんな言葉が頭をよぎった。


 俺は、何かを見落としているんじゃないだろうか。

 俺は、どこかで間違ってしまったんじゃないだろうか。


 いいや、そんなことはない。

 頑張りが無意味だなんてこと、あってたまるもんか。


「隣のコンビニでも行くか」


 俺は敢えてそう言葉に出して言うと、大きく伸びをしながら席を立った。

 その時――――




 コツ、コツ。




 耳がこの場に相応しくない音を拾い、俺は硬直してしまった。

 音の出所は廊下の方。

 オフィスの扉は閉じているが、廊下に面した窓の向こうは薄暗い。節電のために明かりを絞っているのだ。


 コツ、コツ。

 コツコツ、コツコツ。


 間違いない、廊下からこちらに向かって音が近づいて来ている。


 コツコツさん――?


 思って俺は頭を振った。

 まさか、怪談なんて作り話だ、エンタメだ。

 そもそもこの会社に入社して以来、何度も帰りが遅くなった日もあったが、今日の今日までそんな恐ろしい女に出くわしたことなんて一度もない。

 

 俺がそう反対材料を列挙している間にも、コツコツさんの足音が大きくなっていく。


 コツコツコツ。

 コツコツコ――――


 事務所の前でその音は止まった。

 いる。

 扉の前に、何者かがいる気配がする。


 カシャン……


 すると、扉のオートロックを解錠する電子音が、小さく響いた。


 まさか、入って来るのか?!

 俺は椅子から立ち上がったままの中腰姿勢で、後退あとずさった。

 デスクに思いきり太腿を打ちつけたが、それどころではない。

 見ているうちにドアノブが半回転し、音もなく扉が内側に開いて――——




「よかった、先輩まだ残ってたんですね!」


 場違いなほど明るい声で、とっくに帰宅した後輩が顔を覗かせたのだった。


 するとその瞬間、俺の心臓がドンと跳ねた。

 驚きと安堵感、そしてその他諸々がごちゃ混ぜになって胸を打ちつける。

 俺は心臓を抑えて大きなため息をついた。


「え、先輩、どうしたんですか?」


 キョトンとした表情の後輩が、コツコツと軽やかにヒールを鳴らして近づいて来る。


「どうもこうも……、コツコツさんかと思ったぞ」


「ひどーい!なんですか、その言い草!せっかくお弁当持って来たのに!」


 え、と思うと後輩は、両手に持ったデニム生地のお弁当バッグを、ずいっとこちらに差し出した。よく見ると、後輩の服装が今日の仕事中の格好よりも若干ラフなものに変わっている。

 つんと尖らせた唇も、先程よりもほんのりと色づき艶めいていた。


 もしかして、一度家に帰って戻って来てくれたのか?

 まさか、俺のために……?




「うちの晩ご飯の残りで申し訳ないですけど」


 身をよじるようにモジモジしていた後輩は、どこか開き直ったかのように真っ直ぐに俺を見ると、一息に言った。


「それと、持って来たはいいけど先輩まだいるか分からなかったし、こんなのご迷惑かもしれないと思って外で迷ってたから冷めちゃったかもですけど、味は保証します。母は料理上手ですから」


「い、いいのか、いただいちゃっても。でもなんで急に」


 俺が戸惑いも隠せずに問いかけると、みるみる後輩の耳朶が赤く染まっていく。


「だって先輩、最近元気ないって言うかお疲れ気味っていうか。それでその、栄養補給って言うかなんと言うか……」


 語尾をごにょごにょさせる後輩の頬は、今や林檎のように鮮やかに紅潮している。

 マジか。可愛い。嬉しい。ヤバい涙出そう。


 この後輩は、こんなにも可憐いじらしかっただろうか。きっとそうだ。以前から、いや最初から後輩はこういう子だった。


 自分のことばっかりで周囲が見えていなかった俺が、気づかなかっただけなのだ。

 後輩はずっと、俺を気にかけてくれていた。

 見続けてくれていたんだ。

 



 俺は喜び勇んで差し出されたバッグを受け取り、さっそく中身を取り出しデスクに広げた。

 まだほんのり暖かいパステルグリーンの弁当箱を開けると、そこには小梅の乗った白飯、軟骨までとろとろに煮込まれていそうな鶏手羽と大根の甘辛煮に厚焼き卵、茄子の糠漬け、そしてスープジャーには具沢山の豚汁が……!!


 感動のあまり俺の腹が盛大な音を鳴らすと、後輩があははと笑う。


「あ、でも卵はあたしが焼いたので、形悪いしちょっと焦げてますけど、ちゃんと食べられるはずです!大丈夫!」

  

「ありがとう。死ぬほど嬉しいよ!」


 俺が本心からそうお礼を述べると、後輩はどこかホッとしたような、柔らかい笑顔を見せてくれた。

 すると俺の心臓が、またドキドキと見境なく跳ねまわる。

 



「そうだ、今度お礼させてくれ。何でもいい、遠慮せず何でも言ってくれ!」


 俺は、うるさい心臓の音をごまかすように、わざと大きな声でそう言う。

 すると後輩は少し考える素振りを見せると、「それでは」と切り出した。


「今度の金曜に楽しみにしてるホラー映画が封切になるんですけど、先輩の都合のいいときで構いませんので、一緒に行ってくれませんか。それかホラーが嫌なら、暖かくなったらどこかにピクニックとか。お弁当、今度はあたしが作りますから」


 見たこともないくらいに顔を真っ赤にしながら、大きな瞳をより一層大きく見開き、一瞬も逸らすことなく俺に向けられた確かな想い。


 今、後輩に触れたなら、俺の指は火傷してしまうのかもしれない。


 けれどそれ以上に、俺の胸も熱くなっていることを、この可愛い後輩に知られそうで、知られるのが恥ずかしくて、それでも知ってほしいと思う。




 骨折り損どころか、骨休めどころか――




「全部一緒に行こう」


 俺がそう言うと、春の花が咲き誇るように後輩が笑う。


 俺は、願わずにはいられない。

 恐ろしいどころか、こんなに俺を想ってくれているコツコツさんになら、異界でもピクニックでも連れ去ってほしい。


 ふたり、手を取り合って、どこへでも。





  完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋愛怪談 成田紘(皐月あやめ) @ayame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ