どうしてほしいの、この僕に
北館由麻
本編
第1話 謎の招待状
日曜の午後。心臓が飛び出してきそうなくらい胸をドキドキさせているけれども、これは決して恋なんかじゃない。そう、私は今、史上最高に緊張している。
「では6番のかた、自己紹介をお願いします」
右隣のきれいな顔をした女性が優雅な動作で立ち上がった。最近テレビでよく見る若手注目度ナンバーワンの女優だった。紺色のクラシカルなワンピースがよく似合っている。
「
鈴が鳴るような透明感のある高い声で、自信に満ちたそつないアピール。姫野明日香のすべてが完璧で、私のちっぽけなプライドは粉々に砕け散った。
「これっていわゆる出来レースでしょ?」
数十分前、私が姉に言い放ったセリフだ。姉はにっこりと笑って言った。
「そうかもしれないけど、
そうなのだ。
ひそかにずっと抱いている夢――女優になりたい――に、手を伸ばせば届きそうな場所へたどり着いたのは、これがはじめてだった。24歳の今までオーディション合格経験がなく、現在はカメラメーカーの契約社員をしている。
正直に言えば、夢は夢のままでもいいのかな、と思い始めていた。まだ若いでしょ、とみんな言うけど、隣の明日香さんは21歳ですでにスターの座についている。この業界で24歳は決して若いほうではないのだ。しかし焦ってみても、私には克服しなければならない深刻な問題があって、それをクリアできなければ、近い将来女優になる夢はあきらめるしかないだろうという気がしていた。
だからこのドラマオーディションへの招待状を姉から手渡されたときは、宛名が間違っているのではないかと何度も見返した。なにしろ私は演技の経験など皆無なのだから。それなのに、裏返したり、透かしてみたり、何十回と見直してみても、宛名には私の名前が記されていて、差出人の名前はどこにも見当たらない。
「では7番のかた、お願いします」
審査員席の中央に座る番組制作会社のプロデューサーが私に向かって言った。審査員テーブルには
「は、はい!」
エレガントにふるまおうと散々イメージトレーニングをしていたのに、結局慌てて勢いよく立ち上がってしまい、ガタッと椅子が鳴る。
口を開こうとして前を見た私は驚いた。
な、な、なんで、この人、私を見ているの……?
テーブルに突っ伏して眠っていたはずの
それにしても、突っ伏していたせいで跳ねた前髪すら、彼を魅力的に見せる仕掛けとしか思えないのだからイケメンはずるい。少し面倒くさそうな目つきは垂れ目のせいで、その間にはスッと通った理想的な鼻筋が降り、最後に形のよい薄い唇が私の目を釘づけにする。
その唇がわずかに動いた。
――じこしょーかい、しねーの?
あ、そうだった。なんでこんな大事なことを一瞬でも忘れちゃったんだろう。私は気を取り直して大きく息を吸った。
「わた、私はグリーンティ所属の
若干噛んでしまったが、初々しさはこの中の誰にも負けていないはず。
「グリーンティの柴田……ってことは、
「そうです」
西永さんが遠慮のない目つきで私を眺めまわした。値踏みされているのはいい気分ではないけど、こういう場所では誰よりも目立たなくてはならない。そして私の最大の武器はまぎれもなく姉の紗莉だった。姉はかつてスーパーモデルとして国内外で活躍し、今はモデル・タレント事務所グリーンティを立ち上げ社長をしている。とびぬけて優れた容姿と華々しい経歴は、いまだにテレビ業界で引っ張りだこなのだ。
「紗莉とはずいぶんイメージ違うね」
「姉は10歳年上で、物心ついたときには家にいませんでしたから」
「なるほど。たとえるなら紗莉がヒョウで、未莉さんはペルシャネコというところかな」
そう感想を述べた西永さんは私に感じのいい笑顔を見せた。どういう意味で言ったのか全然理解できないけれども、ふとこの人があの招待状の送り主ではないかと思った。でも決め手はひとつもない。
視線を正面に戻すと、いかにもつまらなさそうな態度で頬杖をついた守岡優輝が私を眺めていた。
「では、実技試験に移ります。台本、といっても皆さんのセリフは2つだけですが、これを5分の準備時間で覚えていただき、実際のドラマの相手役となる守岡くんと芝居をしてもらいます。ドラマでは守岡くんとヒロイン役は、兄と妹のような関係から恋愛関係へと発展していく間柄なので、その辺も考慮してください」
西永さんの合図でスタッフが台本を配り始めた。さっそく手渡された紙に目を通す。
ペラペラのコピー用紙に記されていたヒロイン役のセリフは「えっ、これを私に?」「ありがとう」の2つ。守岡優輝も「ほら、これ」「お前以外に誰がいるんだよ」だけだ。セリフはまったく同じでなくてもよくて、設定を自分なりに作り込んでもいいらしい。
つまり、守岡優輝からプレゼントをもらい、それに礼を言う寸劇で私たちの演技力が試されるというわけだ。
どうしよう、とあれこれ考えながら最終行を見た。途端に私の全身が硬直する。
『最後のセリフはかならず笑顔で』
脳が一瞬麻痺したみたいになって、なにも考えられなくなった。それから、それもそうだな、とぼんやり思う。プレゼントをもらってうれしい顔をしない女子なんてドラマのヒロインには向いていない。好意を持つ男性からのプレゼントなら、とろけるような笑顔になるのは間違いないもの。
緊張でドキドキしていた胸がズキズキと痛み始めた。まずい。そりゃ私も覚悟はしてきた。演技をするのだから、喜怒哀楽の表現は絶対に求められるだろう、と。だけど、いざ、やれと言われると自信がない。自信がないというよりも、急速に身体中の血の気が引き、今にも卒倒してしまいそうだった。
とりあえず異常なほど痛む心臓のあたりを手で押さえた。不安なとき、胸に手を当てると少しは気が楽になるから。でも今日はほとんど効き目がないみたい。泣きたいような気分で視線を正面に向けると、守岡優輝と目が合った。
心臓がドクンと脈打つ。
彼の視線は熱くもなく、かといって、冷たくもなかった。ただ不思議そうに私を眺めている。この人の場合、正面に座っていたのがたまたま私だったから、私を見ているだけなのかもしれない。首を動かして他の人を眺めるのが面倒なんじゃないかな、と。しかも私は最終選考に残ったメンバーの中で、唯一演技経験のないド素人だから、はじめて見る顔が珍しかった……って、私は珍獣扱いか!
「それでは実技を開始します。カメラも回しますからね」
西永さんの心地よい低音ボイスで私は5分が経過したことに気がついた。同時にいつの間にか胸の痛みがおさまっていることにも……。
立ち上がる守岡優輝。なんだろう、ひとつひとつの動作が絵になる男だ。テレビに映っているからそう見えるわけじゃなくて、本物が本当にかっこよかったんだ、と妙な感慨に浸る。しかも思ったより背が高い。だらしない格好で座っていたから気がつかなかったけど、これが案外ひょろひょろしていなくて、胸板の厚みがそれなりにありそうだ。引き締まった筋肉が服の内側に備わっていることを想像すると、突然顔が発火しそうなほど熱くなった。
不覚にも守岡優輝に見とれている自分に、私はものすごく動揺していた。
彼はイケメンでしかも演技派と評される人気俳優だ。彼が出演するドラマや映画は常に話題作となり、そのほとんどが高く評価されている。演技に対するストイックな態度がベテラン俳優陣にも絶賛され、彼をけなす声のほとんどがやっかみだった。
もちろん私だってイケメンが好きだし、むしろイケメンしか好きではないくらいだから、人並みに守岡優輝をいいなと思っていた。
でもそれはあくまで彼をテレビやスクリーンで見るタレントと認識した上での「いいな」であって、生身の守岡優輝は私とは別世界に生きる人だ。ついさっきまでは私の半径1メートル以内に存在するはずのない人……だったのに!
最終選考に残ったのは全部で7名。1番の人から順に守岡優輝との実技試験が始まった。この中からテレビドラマのヒロインが決まる。
「ほら、これ」
ぶっきらぼうな声が聞こえてきた。見ると守岡優輝は指で何かをつまむようなしぐさをしている。いうなれば汚い靴下をつまみあげるような感じ……。かわいそうに、ヒロイン候補の1番さんは完全に硬直してしまった。その驚いた表情が計算された演技なら審査員を唸らせただろう。でも30秒以上もそのままでいるところを見ると、調子が狂って棒立ちになったとしか考えられない。
残りのヒロイン候補者の間に戦慄が走った。明日香さんはかわいい顔を曇らせ、膝の上で両手をぎゅっと握りしめている。これってつまり、守岡優輝の出方によって瞬時に芝居を組み立てなければならないわけで、5分かけて考えたことはすべて水の泡。
ひどい。そう思って守岡優輝を見ると、反応のない1番さんを困ったように下から覗き込んだ。その様子が面倒見のよい兄みたいに見えて、あっ、と声をあげそうになる。
「ごめん。こういうの、嫌だった?」
「え、いや、そんなことは……」
パンパンと手を鳴らす音が室内に響いた。
「はい、おつかれさまでした。では2番のかた、前へどうぞ」
西永さんの言葉でまたしても戦慄が走る。1番さんは最後まで芝居をさせてもらえずに試験終了となったのだ。
緊張で胃がキリキリと痛む。ここで上手くやれなかったらきっと女優の夢は二度と近づけないところまで遠のいてしまう。そんなの嫌だ。でも自信がない。どうすればいいのだろう。お願い……だれか助けて!
案の定、守岡優輝は毎回違うプレゼントを準備していた。ただ持っているしぐさだけで大きさや内容がなんとなく伝わってくるから不思議だ。そこにないものがあるように見える。これこそが本当の演技力なのだろう。
明日香さんは最後の「ありがとう」までたどり着いたものの、セリフが棒読みだった。それでも守岡優輝は口元に優しい兄貴っぽい穏やかな微笑みをたたえて明日香さんを見送る。相手がどんな状況だろうと演技に入ったら最後、彼はどこまでもやり通す気らしい。
「では7番のかた、前へ」
「はい」
ここまで来たらもうためらっている場合ではない。イチかバチか、やってみるしかない。
椅子から立ち上がり守岡優輝の前に進んだ。足がすくむけれども、視線は自然と向かい側に立つ彼へと吸い込まれる。
「ほら、これ」
後ろに回していた手がぐるりと弧を描き、私のほうへ伸びてきた。何も持っていないのにガサッと音がしたような気がする。空いていた左手がそっと添えられた。
「えっ、これを私に?」
すんなりセリフが出てきた。たぶん私の目の前にあるのは大きめの花束だ。間違いない。
どうして私へのプレゼントは花束なのだろう?
私の脳内は軽くパニック状態に陥った。いや、どでかいぬいぐるみだった明日香さんに比べたら格段に演技しやすいけど、守岡優輝の考えていることが全然わからない。相手によってプレゼント内容を変えているのだろうか。だってこれまで花束みたいにありがちなプレゼントはなかったんだもの。
目を丸くしたまま相手を見ると、彼は照れたようにスッと視線をそらした。……えっ?
「お前以外に誰がいるんだよ」
ちょ、ちょっと待って。これは演技、だよね?
わかっていても、あまりにも自然すぎる上、気のせいかもしれないがほんの少し頬を赤らめているような……。
パニックだった脳内に、突如ある考えが閃いた。
――もしかしてあの招待状を送ってくれたのは、まさかこの人……?
いくらなんでもそれはないか。だって守岡優輝とは初対面で、彼が私のことを知っているはずがない。
凍りついたように固まっている私の鼻先に花束が押しつけられる。正確に表現すると守岡優輝が私のほうへ1歩踏み出し、腕で何かを突き出すようにしたのだ。
そうだ、これをもらって返事をしなくては。……そう、笑顔で。ためらっている場合じゃない。やるしかないぞ、やるんだ、私!
「ありがとう」
花束を受け取りながら、私は唇の端を上げる努力をした。久しく使っていない筋肉が悲鳴をあげる。
目の前の守岡優輝の端正な顔を見つめながら、あともう少し……と思ったとき、彼がたまらないといった感じで「プッ」とふき出した。
「変な顔」
な、な、なんて失礼なヤツ!
「悪かったわね! うまく笑顔が作れなくて」
大声で捨て台詞を吐くと私は西永さんが引き留めるのも無視してオーディション会場を後にした。
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