第2話 暗黙であること

 関係性とは、暗黙であることの積み重ねなんだと思う。


 ちょっとした仕草が何を意味するのかも。どういう行動が地雷なのかも。もちろん言葉であーだーこーだ言い合ったりすることもあるけれど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、言わなくても分かるってことは増えていく。


 少なくとも小野坂千早おのさかちはやと間宮夕凪には、そういうところがあった。


「……ふぅ。今日はどんなチョイスで来るかな」


 バイトが終わったので帰るわけだけど、行き先は実家ではなく下宿先だ。

 場所は駅からそう遠くない住宅街で、奥深くに歩いていくと、庭の広い戸建てが一軒。

 表札には『間宮』とある。

 戸は例によって空いていて、もう帰ってくる人はいないはずなので、入るなり鍵を閉めた。玄関で靴を脱いでリビングのドアを開けると、


 ――ああ、今日もいつも通りだ。


 クラシック音楽でも似合いそうな古風なリビングルームは、家主の性格を表してか、一度モノを置けば置きっ放しだ。本棚はいくつも並んでいて、ちらほら空きがあるというのに、床の至る所で本が積み上がっている。種類は難しそうなハードカバーだったり、ラノベだったり、漫画だったり様々だ。で、その家主ってのが酷く横着な性格をしているので、つい何週間か前にお掃除ロボットを導入したのだけど、今はそのロボットすら隅で埃をかぶっているという始末だった。


 これは週末に掃除だな。

 そんな風に思っていると、


「……待ったわ。遅かったのね、千早」


 透き通るような、それでいて無感動な声がした。

 間宮夕凪はソファーを横に使って、長い脚を伸び伸びとさせながら、少女漫画の単行本を読んでいた。


 着ているものといえば、中学時代の白Tとハーフパンツ。

 この格好ということは風呂上がりのはずだけど、髪のケアは雑そのもので、長い銀髪が生乾きのまま肩にタオルがかかっていた。本人曰く『こんなの何もしなくてもまとまる』らしい。


「社長の世間話に付き合ってたら長引いた。別に、先に寝てたっていいんだぞ」

「貴方が頼んでもいない家賃を稼ぎに、アルバイトなんてしているから」

「気分の問題だ。形式上ただの友人でしかないやつに、タダ部屋なんていう借りをつくっていられるか」

「にしては額が少ないのね。この辺り、六畳ワンルームでも七万を超えるらしいわよ」

「なんだよ。家賃が不満ならもっと早く――」

「いいえ。あなたから受け取るお金が多少増えても、ボードゲームの在庫が増えるだけでしょうね。貴方の時間が減って、一緒に遊ぶ時間が減っては意味ないでしょう?」


 そんなの、明らかに差し引きが合っていないわ。

 夕凪はそう言って本を閉じると、ゆるりと身体を起こす。気だるげな空色の瞳が、特に何の感情もなさそうな視線をこちらに向けてくると、今度は可愛く首を傾げて見せた。淡々としている割に言ってることが『もっと私を構え』なのだから、こっちもどんな顔をしていいのか分からなくなってしまう。


 観念して荷物をその場に置いた。


「……はあ。ハーブティーとかでいいな。カモミールとか」

「アールグレイ」

「明日早いだろ。また眠れなくなるぞ」


 夕凪はすましたように目を閉ざした。

 議論などする気はない、とのことだ。

 仕方がないから、ともかくキッチンに行ってお湯を沸かした。夕凪のはアールグレイ、ミルク多め、砂糖は小さじ二杯。ほとんど暗黙の了解だけで回っているこの家において、キッチンを使うことは何であれ俺の役目だ。


 茶と菓子が用意できる頃には、二つのソファーが囲むローテーブルの上に、ひとしきり遊ぶ準備が済んでいた。

 なるほど。今日は、人生ゲームか。


 ♢


 長年の幼馴染である間宮夕凪と二人暮らしをすることになったのが、つい最近……と言うか、高二になる直前のこと。


 これが経緯を説明しろと言われれば、すげー億劫になる。


 関係者(というか、主に俺の側の家庭内)で色々と揉めたのは言うまでもない。同居に一瞬でも反対したのが俺一人しかいなかったというのがこの件の異常なところだが、まあともかくも、俺の親は自分の息子が他所の女の子を襲うリスクより、この歳の子が一人で生きていく大変さの方を重く見たようだ。何だか男として甘く見られている気がするのだが、気のせいだろうか。


『何であれ、助けてあげなよ。千早は、あの子を一人ぼっちにさせたいのか?』


 ……まあ確かに、それはそうだ。

 そう自分を納得させたはいいものの、いざ一緒に暮らしてみても、結局お互いがお互いの知っているお互いのままなのだ。共同生活を初めたぐらいのことで、何かが大きく変わるというわけではないらしい。


 俺たちはあまりにも距離感とタイミングに慣れすぎた。

 だから無口な幼馴染が何の前振りなしに話題を振って来ても、驚くってことはない。俺には俺なりの、夕凪には夕凪なりの間があるってだけだ。


椎夏しいかが、土曜にみんなで遊ぼうって。千早も一緒に来ない……?」


 みんなって何だよ。

 俺は質問に答えず、ルーレットを回した。


「1、2、3、4……あー、『タバコの不始末で家が全焼。火災保険に入ってる場合は5万ドルもらう』。嘘だろ、保険なんて入ってないって」


 ゲームは中盤に差し掛かる。

 今のところ優勢なのは夕凪の方で、俺の職業が『教師』なのに対して向こうは『政治家』。ただでさえ給料日のマスを踏むたびに入ってくる金額が倍以上も違うのに、たった今不利なマスを踏んでしまった。


 夕凪はそのことにえらくご満悦のようだ。


「あら。たかだか五千ドルを渋って家を失うだけなんて、哀れな話ね。ふふふっ……」


 教室にいては動くことのない表情が、にこやかに破顔した。

 夕凪は笑うと途方もなく愛くるしい顔になる。が、この表情になるのは主に自分が優位に立てて嬉しい時だけなのだから油断ならない。それか、悪戯が成功した時とか。


「このゲーム、火災保険が役立つことなんてそうそうないからな。てか、夕凪だってスルーしただろ?」

「そうね、小野坂先生。四人家族で家無しはかわいそうだから住まわせてあげようかしら? 私の家は十万ドルしたし、どうせ一部屋くらい空いてるでしょう?」

「煽るのにリアル事情をリンクさせるなっ。あと、最後の方で火星に飛んで破綻してろ」


 夕凪は堪えるように手で口を覆う。


「あーあ、庶民の家が燃えて笑ってられるなんて酷い政治家だよな。カップ麺の値段とか答えられるかー、間宮先生?」

「1、2、3、4、5、6。『何の前触れもなく消費税アップ。全員二万ドルずつ払う』」

「増税反対だっ。説明責任果たせよ政治家」

「くふふっ。今日の展開、まるで人生の縮図ね」

「全くその通りだが、今のお前に言われたくねー!」


 お上品に口を抑えて、くっくっと笑ってみせる幼馴染を見て、一日分の力が抜ける気がした。それもそのはず。何たってこれは、すごく小さい頃に仲良くなってから毎日のように繰り返しているルーティンそのものなのだ。


 学校から帰ってきたら必ず一緒に遊ぶ。

 本当にそれだけだ。特別なことなんて何もない。

 ただ昔と違うことがあるとすれば、前までは、お互いに学校の話をすることなんて無かったってことだ。通っていた先も全然違ったし。


 ふと、教室でみんなに囲まれる夕凪が目にちらついた。

 初めて知ったけど、あいつ、教室で上手くやっていけるタイプなんだな――って。


「さっきの話」


 向こうから質問が飛んできたのも突然なら、俺が返答したのも突然で、夕凪の目線がピクリと動いた。


「行かない。俺そういうの参加したことないし。何より、普通に面倒だ」


 夕凪は慣れた手つきで紅茶を口に含んだ。

 こんなにズボラなTシャツ姫だが、ティーカップを扱う所作だけは上品だ。まあでもTシャツだし、側に置いているお菓子がポテチだから絵になるというわけではないのだが。

 表情が少し曇ったのは、望んだ答えじゃなかったからだろうか。


「もしかして、何か怒ってる?」

「何がだよ」

「学校では、全然話してくれないから」

「…………」


 ルーレットを回した。目は7。『エジプト旅行中に置き引きに合う。五千ドル払う』とある。もう何マスにも渡って、小野坂一家は受難だらけだ。


「やっぱり避けていたのね。どうして?」


 夕凪はじっとこちらを見据えていた。

 長いまつ毛に縁取られた、大人びた目。パッと見クールそうに見えるけど、幼い頃の面影が残っていて、形がわずかに丸みを帯びている。


 うやむやにしないで、答えて。

 わざわざ口で言われなくても、そう言われている気がした。


「別に怒ってないし、夕凪は悪くないよ。でも同居がバレる導線、わざわざ作ってやることもないだろ?」


 この状態は……実は学校には黙っている。

 いくら長い付き合いとはいえ、同い年の男女で同棲しますなんて通るはずもない。それに足るだけの事情があったとしても、どれだけの説明を要することか。


 教室で絡むとバレる危険が高まる。

 そんなのは夕凪だって分かっているだろうけど、あいつはさも『私、不満よ』って感じに、これみよがしに頬を膨らませた。


「折角同じクラスになれたのに、勿体無いことこの上ないわ。新しい学校、楽しみにしてたのに」

「お前、新しい友達できてんじゃん」

「…………ねえ千早。私、土曜は見たい映画があるの。一緒に来て?」

「はあ? お前、そのナントカって子と遊びに行くんじゃ――」

「いい。そっちは面倒になった。貴方が来ないなら私も行かない」


 せっかく新しい友達ができたのに、行ってやればいいじゃん――なんて言っても無駄だ。こいつ、一度言い出すと強情なところがあるから。


「まあ、映画だったら行っても良いけどさ……」


 その夜、今の話題が続くことはもうなかった。

 間宮一家が億万長者になる頃、小野坂一家は借金を返せなくて開拓地送りになっていたが、それであいつの機嫌が良くなるということもなかったとさ。

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