檻の中
ガイウスが出ていったあと、コルベラは服を切り裂かれて頭から湯を被ったリーゼの見るも無残な姿に絶句していたが、我に返ってきびきび指示を出して他の侍女たちを浴室の準備に向かわせると、寝台の傍に膝をついてリーゼの手をそっと捧げ持ち、深々とこうべを垂れて礼を取った。
リーゼは冷ややかにその礼を受け取りながら、自分の手首にガイウスに押さえつけられたときの痣ができていることを知って、ぞっと肌を粟立たせていた。
侍女たちが浴槽の準備が整ったと報告を寄越すころには、諸々の衝撃から抜け出したリーゼは、自分に降りかかった理不尽に苛立ちをすっかり募らせていた。
普段からリーゼを目の敵にして散々小言をぶつけてきたコルベラが、リーゼに従順に傅くのをいいことに、他の侍女を全員追い出して湯浴みの介添えにコルベラを指名する。
湯舟でふんぞり返ってお世辞にも綺麗とは言えない体を洗わせ、中途半端に染め粉の落ちたまだらな髪を何度も湯に晒して拭わせ、傷んでぱさついた毛先を香油をつけた櫛でたっぷり梳かせ、上質な布地で仕立てられた手間のかかる衣装を一から着付けさせ――
そこで八つ当たりと意趣返しを果たしたリーゼは溜飲を下げたが、コルベラはなぜか嬉しそうに破顔して、さらに甲斐甲斐しくリーゼの周囲を動き回っていた。
「わたくしは八年前にユ―リア様の離宮で女官を務めておりました。リティーツィア姫様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが……再び姫様にお仕えすることができて、たいへん光栄に存じます」
コルベラはそう語るが、ほとんど薄れてしまった遠い記憶を探ってみるまでもなく、リーゼはコルベラの顔など知らなかった。
ふうん、そう、と気のない返事をするリーゼにコルベラは悲しげに目を伏せたが、知らないものは知らない。
一年以上自分の部下として顎でこき使ってきた相手に、すぐに礼を尽くすことのできる神経も、リーゼには理解できない。
リーゼにつけられた侍女らはどうやら大なり小なり、かつて国王の愛妾であったユーリアに関係のある人間が揃えられたらしい。
彼女たちはさも嬉しそうにリーゼの周囲に侍り、母譲りのリーゼの髪と目を美しいと褒めそやし、『神殿での奉仕活動』に荒れた手や傷んだ髪を我がことのように嘆き、これまで打ち捨てられていた国王の娘をいっそう憐れむように「リティーツィア姫様」「リティーツィア様」と囀る。
コルベラですら何の疑問も持たない顔でリーゼを昔の名で呼び続けるので、リーゼは我慢の限界に達して侍女たちを睥睨した。
「――私は貴女たちに、名を呼ぶ許可を与えたつもりはないわ。それとも母の離宮に上がっていた女官は、主に許可も得ぬままに無粋に御名を呼ぶような、礼儀知らずの集まりだったのかしら」
ひとりにして、食事も着替えもお茶も不要、呼ぶまで部屋に入ってこないで、と慌てて平伏する侍女たちを下がらせて、リーゼはしんと静まり返った部屋でため息をつく。
瀟洒な家具と数々の生活用祈術具が揃えられた豪勢な部屋の内装も、平民には手を触れることもできないような華やかな服飾品や宝石類も、窓の外に広がる貴族街の美しい街並みも、リーゼの沈んだ心にはちっとも響かない。
街並みの奥に尖塔の並び立つ王城が見えた。
次にあそこに戻るときは、きっともうリーゼは下級女官リーゼではなく、王女リティーツィアと名乗っているのだろう。
部屋に備えつけられた鏡台の前に立ち、戸惑いながら埋め込まれた薄緑色の水晶石に指を触れた。
指先からするりと何かが吸い出されていく感覚があって、鏡面が水紋のように揺らめく。
真っ赤な髪に金色の目の、貴族然とした少女が鏡に映り込む。
毎日見ている自分の顔立ちはまったく変わっていないはずなのに、身に帯びる色合いを変え、肌にまとう衣を替え、髪を梳って整えただけで、今日までの平民のリーゼが八年前に死んだはずの王女リティーツィアに生まれ変わってしまった。
懐かしいと浮き立ってもよさそうな自分の姿に、リーゼはなぜだか泣き出したいような気持ちになって、堪らずその場を離れてふらふらと続きの居間に足を運んだ。
なんだか疲れた。とても体が重い。
横になりたかったけれど、リーゼに当てがわれた隣の寝室のベッドはつい先ほどガイウスに押さえつけられて散々痛い目を見た場所だ。
シーツも毛布も取り替えられているが、自分から横たわろうとは思えなかった。
結局クッション付きの肘掛け椅子を窓際まで引っ張っていって、その上に足を抱えるようにして収まった。
鍵穴も見当たらないのに窓は開かなかった。きっとこれも祈術なのだろう。
それでも息の詰まるこの部屋で一番新鮮な空気に触れられそうな気がして、初春の柔らかな陽射しの降り注ぐ窓辺で束の間リーゼは目を閉じた。
眠るつもりはなかったが、目を開けると部屋は薄暗くなっていた。
どれくらい寝ていたのか、瞼を擦りながら時刻を確認する。
祈術具を扱えない平民の住まいならとっくに照明灯の点火に走り回っている頃合いだが、貴族の邸宅では明かりはどこでどのように点けるのだろうか。
疑問に思いながらも自分で動くのが億劫で、リーゼは街灯が点き始めた眼下の街並みを、ぼんやり眺めていた。
立派な邸の立ち並ぶ整備された貴族街の遥か向こうに、小高い山の頂上に聳え立つ巨木が見えた。
――大地に加護を与えるという、聖樹。
ブロア王国が管理する紅焔の聖樹は、王都のどこからでも見えるようになっている。
夕闇の中でも淡い赤みの光を帯びてぼんやり浮かび上がっているのは、照明で光らせているというわけではなく、聖樹に咲く赤い花自身が常に祝福の光の粒子を放っているからなのだという。
リーゼがリティーツィアであったころの時代には、聖樹の頂には赤い花が咲き乱れ、この燐光も王都中を覆うほどだったというのだから、聖樹に捧げる祈りを媒介する国王が祈力器官を損なったという話もリーゼが思う以上に大事なのかもしれない。
「……姫様。コルベラでございます。入ってもよろしゅうございますか」
ドアがノックされてコルベラの声が聞こえてきた。
ちょうどいいから明かりを点けてもらおうと、深く考えずに入室の許可を出して、リーゼはすぐに後悔することになった。
コルベラが真っ暗な部屋に驚いて照明の祈術具を灯していく。
眩しさに一瞬目を細めたリーゼは、コルベラの横に佇む人影に気づいて、ぞわりと背筋を凍りつかせた。
「まあ、姫様、そのような格好で――」
リーゼが椅子の上で丸くなるように縮こまっている様子にコルベラが何事か言っていたが、リーゼの耳にはその声は届いていなかった。
「――来ないで!」
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