王女リティーツィア

 目が覚めたとき、リーゼは柔らかいシーツの上に横たえられていた。


 聖典の創世神話の一節を描いた絵を嵌めた天蓋から、繊麗な刺繍の薄い帳が幾重にも垂れ下がっている。

 空間を仕切られた寝台は羽毛や綿が贅沢に詰まっているらしく、ついた手は体ごとふんわり沈み、リーゼが起き上がってもぎしぎしと軋む音もしない。

 滑らかなシーツに染み込んだほのかな香りが鼻腔を擽った。


 普段リーゼが寝起きしている下級女官の宿舎のベッドとはほど遠い――

 こみ上げた懐かしさに、リーゼは眉をひそめた。


「……お目覚めですか」


 声をかけられ、薄幕が開いて声の主が姿を見せた。


 女官長室にいた貴族の男。

 微笑めばさぞ女を虜にするであろう整った顔に無表情を張りつけて、リーゼを見下ろしている。


 リーゼはちらりと男の奥に見える部屋の内装を確認して、ここが王城の尋問部屋ではなくどこか貴族階級の人間の居室らしいことを判断してから、無言で目の前の男を睨めつけた。

 相手が平民など指先ひとつで退けられる高位貴族だということは知っていたが、同時にこの男がリーゼを拐かした張本人だということも知っていた。


 リーゼの警戒心を露わにした様子に、男は微かに両目を眇めた。

 どういう反応かとリーゼが訝る間もなく、おもむろに片手を差し出す。


 その手のひらに見覚えのあるロケットペンダントを見つけて、リーゼは総毛立った。

 自分の胸元を探って、いつも服の下に首から下げている鎖がなくなっていることに、血の気を失う。


「返して!」


 飛びつくようにして男の手からロケットをひったくる。

 上蓋を開いて中を確認する。

 とっくに薄れて濁ってしまった色石。上蓋の裏に刻まれた、ふた振りの剣と八重咲きの花をかたどった紋章。


 守るように自分の胸に握りしめたリーゼを、しかし男は静かに見つめていた。

 高慢な貴族にしてはリーゼの反抗的な態度に激昂してみせるでもない。


「……武勇の双剣と紅焔のオルゼは、王家の人間のみが持つことのできる紋章です。貴女からそれを取り上げるつもりはございません」


 落ち着いた口調で告げて、男はその場に腰を落とした。腰に佩いた剣を鞘ごと外して膝をつき、胸に手を当てて面を伏せる。

 ――それは王城では下級女官にさえ叩き込まれる、ブロア王族に対する最上級の跪礼。


「我が名はガイウス・ノイン・アッシュヴァルツ・ゼーア・ナッハトラウム。貴き御身に無体を働き、強引な手段で邸にお招きした無礼をお許しください。――リティーツィア王女殿下」


 紡がれた名に、リーゼはかっとして口を開いた。


「やめて」


「リティーツィア王女殿下、」


「やめて。私はリーゼよ。ただの平民のリーゼ。貴方のような高位貴族に膝をつかれる身分ではないわ」


「……王女殿下、長らくの不自由からお救いする機を掴めずにいた我らの不徳をどうかお許しください。これよりは我らが貴女様を庇護し、臣下として忠義を捧げ、必ずや現王の嫡子たる地位を御身に――」


「――やめてと言っているのが分からないの、ナッハトラウム卿!」


 頑なに顔を背けてリーゼはそれ以上の問答を拒絶する。

 ガイウスと名乗った男はゆっくりと面を上げた。


「……どれほど拒もうとも、貴女が現王ライドルフ陛下の血を引いた御子であることに変わりはありません、リティーツィア王女殿下」


「リティーツィアは死んだわ!」


 リーゼは叫ぶように言った。


「そんな王女はもういない。七歳の――正式に王族として認められる前に、貴方たちがそういうことにしたんじゃない」


 ブロア王国では王侯貴族の子は七歳の誕生日までは人前に出ずに育てられ、七歳の誕生日を迎えて初めてその家の子供として対外的に認められる。

 国王の子は王位継承が絡むため、妊娠から出産まですべてを秘されることはないが、七歳を迎えるまで内宮の中で限られた人間の手によって養育されることには変わりない。


 八年前、国王の愛妾ユ―リアが産んだ娘であるリティーツィア姫は、七歳の誕生日を迎える前にその命を落としたと公表された。

 姫の身分は『側妃ユ―リアの子』であり、国王とユ―リアの遡及婚が成立して姫の双子の弟ユスブレヒトが嫡出の第二王子の立場を得るようになっても、姫が公式記録で『王女』の称号を冠することはない。


 リーゼの糾弾を受け止めて、ガイウスは跪いたまま押し黙った。

 この男は何なのだろうとリーゼはむかむかしてくる。


 この男のことは、名乗られる前から名前と顔くらいは知っていた。


 母を亡くした齢十四のユスブレヒト王子を第一王子の対抗馬として擁立する後ろ盾、歴史ある十の一等爵家のひとつ、アッシュヴァルツ家の嫡男。

 外宮での職位は二十代半ばという若さにして上級一等文官。

 家柄も良く、有能で、何よりその優れた美貌によって宮廷中の女の憧れの的だという。

 最近はリーゼの勤め先である東宮に出入りすることも多く、同僚たちが姿を見かけるたびに色めき立っていた。


 ――リーゼにとっては、リーゼから名と立場を奪い、弟と引き離し、母を打ち捨てた元凶のひとつに他ならない。


「……ここはどこなの。王城、ではないわよね」

「王都のアッシュヴァルツ邸の、離れでございます」

「こんな人攫いのような真似までして、何が目的なの」


 低い声で問うリーゼを、ガイウスの紫水晶の瞳が映した。


「我々はかねてより王女殿下をお探し申し上げておりました。……名を変え身分を伏せて遠い地の神殿に入られたはずの御身が、よもや王都に戻られ、平民などに身をやつしておられるとは思いませんでしたが」


 ガイウスの目がリーゼの頭から爪先まで眺める。


 リーゼの今の格好は内宮付き女官のお仕着せだ。

 質素な襟つきの灰色の上着と揃いのスカート、女官の階級を示すラインの入った帽子。


 下級三等を表す浅黄色の一本線を一瞥する男が癪に触って、リーゼはきっとガイウスを睨みつけた。

 男が日常的に身にまとう衣類の質とは雲泥の差だろうが、一方的に蔑まれる筋合いはない。


「私が王都にいたら不都合だと言いたいの。誰も私を七歳のお披露目もしないうちに死んだことにされた王女だなんて思わないわよ。女官雇用の身体検査でも祈力数値は平民の同僚たちの中で最低だったくらいだもの」


「……王都におられたのは僥倖でした。もはや我々には、一刻の猶予もございませんでしたので」


 ガイウスはリーゼの当てこすりには反応しなかった。ただまっすぐにリーゼに眼差しを注いでいた。

 まるで何かに縋るような眼だと、リーゼはなんとなく思った。


「リティーツィア王女殿下、我々は貴女に、失踪された弟君、第二王子ユスブレヒト殿下の代わりに、王位継承の資格を得ていただきたいのです」

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