第3話 地の宮暮らし

 地の宮は地下に存在する。

 一見、無造作に組み上げられた積み石を目印の門扉にして、その背後に、見上げても頭頂部が見えない巨大な岩が2つ並んで威容いようを見せている。

 陽光の加減で刻々と金茶色や赤蘇芳あかすおうなど、見せる色を変える不思議な巨大岩が寄り添う隙間に入ると、気がつけば地の宮のエントランスホールに立っている。

 壁はほぼ目に優しい柔らかな蜂蜜色の雲母きららで、扉や家具には、瑪瑙めのうや水晶で精緻なデザインが施されている。

 黒曜の執務室や、寝室にはさらに希少な鉱物が使われていると彩雅に教わった。

 ロゼッタが一番好きな場所は、天井一面が無色透明に磨きあげられた水晶になっているリビングだ。

 生き生きと生い茂る草木の向こうに、広がる空を眺めることができる。

 外からは幻術が掛けられており、宮の内部が見えることはない。

 座り心地の良いソファが四方に置かれ、どこに座っても外の景色が気持ち良く見える。

 客間であると同時に、地の君が寛ぐための部屋でもあるということで、祈りの間や湯あみの間、それぞれから直結している。

 地の宮の特出した美点は、どの壁も同じ雲母きららだが、全てに個性があり、どれ一つとして同じではないところだ。

 今日も壁の中に可愛らしい薄紅色の輝きを見つけて、ロゼッタは気になって爪で突ついてみる。

「また爪とぎか」

 頭の上から降ってきた低い声に、肩をすくめる。

「彩雅に叱られるぞ」

 振り仰ぐと、黒曜の切れ長の双眸があった。

 朝の祈りを終えたその眼差しは穏やかで、ロゼッタは嬉しくなる。

「可愛いピンク色が見えて…彩雅さまにはナイショにしてください」

「お前は細かい違いを、よく見つけるな」

 言って背後から、ロゼッタの視線に合わせてかがみ込み、黒曜は壁に掌を当てて注視する。

紅石英べにせきえいが混ざっているのか」

 自分の顔のすぐ横に、黒曜の端正な横顔が並び、ロゼッタの心臓が落ち着かなくなった。

 少し癖のある毛先は葡萄色ぶどういろだが、短く整えられた髪は、名前の通り黒曜石のような艶のある深い黒。

 凛々しい顔立ちだが無骨な印象はなく、硬質な気品があり、妖精達の中では見ないタイプの美しさだ。

「クリスタルの仲間ですね。クリスタルは、天井の透明なのや、他にもたくさん色があって、大好きです」

「電気石…トルマリンにもたくさんの色があるぞ。お前の瞳のような色は希少で、人界では最高級品として扱われている。内側から輝くような澄んだ青だ」

「まあ、どんな色なのかしら…。黒曜さまが美しいと讃える宝石に、瞳の色が似ているって、何だか自分が褒められたような気がして嬉しいです」

 黒曜は素直にはしゃぐロゼッタを見つめると、微笑を浮かべた。

 そしてそのまま、外へ続く扉に向かう。

「お出かけですか?」

「ああ、地脈に乱れが起きた場所が見つかった。そう大層な事ではないが、念の為にな」

 ロゼッタもトコトコ後に着いていく。

「今日はブルーベリーのジャムが食べ頃です。帰ったらお召し上がりくださいね!」

 答える代わりに、黒曜はまた穏やかに微笑んだ。

 その表情がロゼッタは大好きだ。

 凛とした、一見近寄りがたく見える黒曜の面持ちがほどけるように和んで、内面の優しさが滲むのだ。

「お勤めつつがなきよう、いってらしゃいませ」

 彩雅に習った見送りを口に礼をとる。

 そんなロゼッタに片手を上げて応え、黒曜の均整の取れた長身の後ろ姿を見送る。

 橡色はしばみいろの衣装が黒曜の気品をより高めていて、ロゼッタはうっとりとしたため息をもらさずにいられない。

ロゼッタの瞳を希少な色のトルマリンのようだと言ったが、黒曜の瞳こそ、どんな宝石にもない至高のロイヤルブルーだと思う。

「本当に立派な方…」

 ロゼッタは小さく呟いた。

「私も頑張らなくちゃ!」

 むん!とロゼッタは両の手を拳に固めて、自身に気合いを入れた。

「立派な猫になるぞ!」

「うむ、良い心がけじゃ」

 気がつくと、いつの間にやら、彩雅が背後で腕を組み、仁王立ちをしている。

「その前に、お主の手に握りしめられている、羽のハタキは何のためのものかの?」

 ひゃっ!とロゼッタは彩雅から漂う怒気にわななく。

「自ら水晶の間を浄めると申し出ていながら、いつになったら掃除を終えるのじゃあああああ!!!」

「ごめんなさああああああぃいいぃいい」


宮の出入口まで響いてくる声に、黒曜が再び小さく笑ったことを、 二人は知らない。

※※※

「地の宮のお膝元は、水の質も良くて、あらゆる物が豊かに育っていますね!」

 ロゼッタの言葉に、彩雅がしたり顔で頷く。

「当然であろう。溢れる大地の力が地の君をお支えする。それを受けて、地の君もより力を得て、加護を返す。尊き恵みの循環じゃ。

 さらに、龍族のご出身であられる黒曜さまは、強く水を引き寄せる。結果、よりここは豊穣をもたらす地になって行ったのじゃ」

 ロゼッタは野の果実を、彩雅は薬草を摘みに伴っていた。

 この土地にあるものを褒めると、嬉しげな表情を見せる彩雅を、ロゼッタはとても好もしく思う。

 少女の見た目で、ロゼッタより背も低い彩雅であるが、寿命の長い地霊である彼女は遥かに年嵩としかさだ。

 菫色と黒のグラデーションの瞳も、ツインテールに結った青みを孕んだ紫黒の髪に混ざる紅紫の一房も、全てスギライトという鉱物から貰った色だと言う。

 ドジを踏んでしょっちゅう叱られるが、わからない事は丁寧に教えてくれるし、筋の通らないことはしない。

 常に堂々と真摯に物事に向き合う、根は面倒見の良い彩雅が、ロゼッタは大好きだ。

「我は、ノコギリソウの群生があるゆえ、あちらに参る」

 はーいと返事をして、ロゼッタも果実の香りを探し歩いた。

 この地で収穫できる果実は、渋みや鋭い酸味が少なく、どれを採っても美味だ。

 果実だけに限らず、全ての食べ物が滋味じみに富んでいる。

 改めて黒曜の偉大さを知っていくにつれ、少しでも役に立ちたいという気持ちが強まる。

 いよいよ収穫によい頃合になってきた様子のブラックベリーを見つけ、選りすぐりつつ摘みながら、さらに散策していると、見慣れた枝ぶりの木に出会った。

「まあ、林檎さん!」

 花の季節は過ぎて、小さな実が姿を見せている。

 ロゼッタは、木に掌を当てて話しかけた。

「こんにちは!私はロゼッタ。地の君さまにお仕えしているの。ここにはまだ来て間もないのだけど、会えて嬉しいわ。たくさんの実が育っていて、楽しみね!秋になったら、実を頂いてもいいかしら?」

 林檎の木は、妖精の問いに快い返事をする。

「嬉しい!秋が待ち遠しいな!フルーツ大好き!地の領地には、私の知らないフルーツかまだあるかしら?」

 林檎の木は、この時期に実をつける木をロゼッタに教えた。

「びわ…枇杷?まあ、どんな実かしら…ありがとう!尋ねてみるわ!またね!」

 林檎の木に礼を言い、教えてもらった通りに木立の中を進むと、淡い玉子色の実がなった木を見つけた。

 掌にコロンと乗るくらいの楕円形の実がついており、故郷では目にしたことはない。

 ジャムも良いが、コンポートにしたら、今日すぐに、黒曜にお出しできる。

 ただ、手が届かない。

 背にある小さな羽根は飛べるに至っておらず、 淡いたんぽぽ色に、縁のみ少し薄桃色の入った蝶に似たそれを、ロゼッタはしょんぼり震わせた。

 そんな気分を、ロゼッタはかぶりを振って打ち払う。

「飛べないなら、木に登れば良いのだわ!私は猫だもの!!」

胸の前で両拳を握り締め、気合いを入れて、ロゼッタは藤の籠の蓋を閉め、手提げ部分を左の肘に引っ掛ける。

「枇杷さん、初めまして!実をどうしても分けてほしいので、ちょっとお邪魔しますね!」

 言って、木に飛びついた。

 木に限らず、植物は妖精に好意的だ。

 枇杷の木も例外ではなく、ロゼッタの存在を許し、すんなり実ある枝まで登らせてくれた。

 枝に腰掛け、嬉々と実に手を伸ばす。

「ありがとう。枇杷さん!まあ、種はニンゲンの体には毒になることもあるの…私達も気をつけるに越したことはない…か。黒曜さまが、お加減が悪くなったら嫌だし…。わかったわ!果肉だけ、ありがたく頂くわ」

 木に教わりながら、必要と思う分だけ籠に収め、ロゼッタは大事なことに気がついた。

 降りられない。

「どうしましょ…」

 さすがに木も、身を曲げてロゼッタを降ろすまでは出来ない。

 途方に暮れるロゼッタの周りに小鳥たちが集まり、手助けは出来ないまでも、さえずっては慰めてくれた。

「みんな、ありがとう。そろそろ黒曜さまがお帰りになる気がするから、帰りたいな…。彩雅さま、気がついて迎えに来てくれたりするかしら!きっと来てくれるわね!」

 希望的観測に気を取り直し、先に摘んだブラックベリーを籠から幾つか取り出して、小鳥たちにおすそ分けする。

 楽しい空気がロゼッタの周りを包んだが、それを耳障りな大きい羽ばたきが濁らせた。

 小鳥たちが驚いて逃げるように飛び去る。

「まあ!地の君が女人をお傍に置いたと聞いて見に来たけれど」

「こんな間の抜けた、取り柄のなさそうな子だなんてね」

 クスクスと含み笑いと共に囁く声の方へ顔を向けると、体は朽ち葉色の鳥、顔は人型の女性をした生物が、少し離れた枝に止まってこちらを見ている。

 ハーピーだ。

 妖精の領土である、常若の国ティル・ナ・ノグでも見たことがある。

「身持ちの硬い美丈夫でいらっしゃる地の司守さまが侍らせるのだから、どんな優れた美女かしらと思ったけれど」

「どうしてどうして、チンチクリンな、見るからに頭の弱そうな妖精とはね」

 すぐには彼女たちの言っていることの意味がわからず、目をパチクリさせて二羽を見ていたロゼッタだったが、やっと気づいた。

「もしかして、私に意地悪言ってます!?」

 二羽の妖鳥は一瞬黙って高慢なまなざしでこちらを眺めやり、次いで、また嘲笑を聞かせた。

「龍王に即位なさるはずだったお方が、こんな頭の弱い小娘をご寵愛なさるなんて」

「いっときの慰みものでしょ。秘匿ひとくの美姫、エフォリア姫とは、比べ物にもならないわ」

 『エフォリア』……初めて会った時、意識を失う寸前に黒曜が呟いた名前。

 今まで思い出すことのなかったそれが、唐突に悪意をたっぷり絡めて差し出され、ロゼッタは身を強ばらせる。

 その変化を、ハーピー達は見逃さなかった。

「あら、あの子、なぁんにも知らないようよ?」

「仕方ないわよ、所詮、間に合わせにもならない玩具だもの」

 理由もわからないままぶつけられる悪意の礫に、ロゼッタは為す術もない。

 瞬間、木が地面ごとグラリとかしぎ、慌ててロゼッタは木の幹にしがみついた。

 ハーピー達も、耳障りな声を上げてバサバサと飛び上がる。

「地の君のお膝元で、よこしまな気を恥ずかしげもなく振りまきおって」

 頼もしく慕わしい声に目をやると、彩雅がこちらを静かに睨めつけていた。

 一時は動揺したハーピー達だったが、すぐにふてぶてしい表情を浮かべて、宙で羽ばたきながら鼻を鳴らした。

「あらぁ、有能で名高い、地の君の側近さん。ごきげんよう」

「とっても力のある地霊さん。だけどお生憎様。私達は風に乗ることができるの。モグラのように暗く湿った土の中に潜ったり、地べたを這いずり回るあなた達とは違ってね?」

 聞き捨てならない侮辱に、ロゼッタは木にしがみついたまま、憤然と眉を吊り上げた。

「大地の恵みがなければ、あなた達だって生きてはいけないでしょう!?私たちも地霊の皆さんも、人の子だってそれに違いはありません!どっちが偉いとか、ないです!

 彩雅さまは、大地の営みを支える大事なお役目を持って生まれた地の精霊。それは祝福を受けた生です!黒曜さまが一番頼りにしている彩雅さまを、悪く言うのは許しません!!」

みじめったらしく木にへばり付いたままで、何を偉そうに」

 甲高い声でけたたましく笑うハーピー達の姿に、唇を噛み締める。

 その刹那、わざとのようにやかましく羽ばたいていた妖鳥たちの動きが、驚愕の表情と共に止まった。

 良く見ると、小さな旋風に、それぞれ捕縛されている。

 ふわり、と薔薇やフリージアを思わせる花の香りを孕んだ風が、ロゼッタを、辺りを包む。

「あなたたちみたいな子が、風の仲間だなんて恥ずかしいわ」

 空中にスラリと立って目の前に現れたのは、雲のように柔らかく波打つ銀の髪に、蜻蛉かげろうに似た形状の、虹色に光を返す羽根を持つ妖精。

 ヒッとハーピー達が、引き攣った短い悲鳴を上げた。

「フロリンダさま!!」

「はぁ〜い!可愛いロゼッタ」

 ウインクを返すと、フロリンダはハーピー達に向き直る。

「妖精は、頭弱いの?」

 フロリンダは、先程のふてぶてしさを失った妖鳥らに、上目遣いで問いかける。

「私の悪口ね?」

 ハーピー達は懸命にかぶりを振ろうとするが、旋風の捕縛によって叶わない。

 フロリンダは、口元に握った手を当て、大きな目を潤ませる。

「エーンエーン!悪口言われちゃった〜!!」

 とうとう顔を覆って泣き出し、その場にいた全員が慌てふためいた。

 かと思いきや、

「なーんてね!嘘泣きだよ!」

 両手を顔の横でパッと開き、ニッコリ笑う。

 ポカンと眺めるロゼッタの視界の隅で、虚無の顔でそれを見あげる彩雅が居た。

「私たち妖精をおバカさんて言うあなた達は、よほどお利口さんなのね」

 満面の笑みで小首を傾げるフロリンダは、たまらなく愛らしい。

「どこでどんな噂を吹聴したところで、あなたたち如きが吹聴する情報なんて、新しい風が吹けば立ちどころに消えていく。

 だけど、世界には軽々しく口にしてはならないコトもあるって、お利口さんならわかるはずよね?」

 そう言ったフロリンダの瑠璃色の目は、もう笑っていなかった。

「私は全てを受け入れて育む、大地のようには優しくはないの」

 うふっと語尾につけた可愛い含み笑いと共に、凝縮した空気の刃がハーピー達の片羽それぞれを斜めに切り裂いた。

 悲鳴を上げて二羽は寄り添い、無事な方の羽でバランスを取る。

「仲良く力を合わせて飛べば、おうちまで帰れるでしょ?何てったて、あなた達は賢いんだし!」

 どこまでも愛らしい、けれど有無を言わせない圧のある笑みを向けられ、ハーピー達は最初の高慢な表情は何処へやら、ヨロヨロと飛び去った。

「何の騒ぎだ」

「黒曜さま!」

 異変を察して駆けつけたのだろう、その声を聞いただけで、ロゼッタの全身から緊張がほどける。

 姿を探して身をよじり、バランスを崩して木から滑り落ちた。

「キャー!」

「ロゼッタ!!」

 地面に叩きつけられるかと覚悟した体は、しかしふわりと宙で支えられ、急ぎ落下点に駆けつけた黒曜の腕の中に落ち着いた。

 腕に掛けていた籠から投げ出された果実も、落ちることなく空中でフワフワ集められて中に収まる。

 何もかもフロリンダの風が成せる業だ。

「ありがとうございます、フロリンダさま」

「朝メシ前よっ!」

 言いながら、自身も蝶のような優雅さで地上に降り立ち、ピースサインを決めた。

 先程、木の上で遊んでいた小鳥たちが戻ってきて、フロリンダとロゼッタの肩や頭に止まる。

「大丈夫よ、びっくりさせちゃったわね。ありがとう。また遊びましょうね」

 彩雅が歩み寄り、フロリンダに対し、丁寧に膝を着いて礼をとった。

「お手を煩わせてしまいましたこと、申し訳なく……」

「私からも礼を言う、フロリンダ。全てはこの彩雅から地脈を通じ、先んじて伝達されている。

 して、ロゼッタ。お前は何故に木に登ったのだ。手の届かない果実は諦めるか、他の者を頼れ」

 窘められて、ロゼッタはションボリと肩を落とす。

「黒曜さまにお出しするものは、自分で一から用意したいです…あと、猫は木に登りますし……」

 黒曜は小さく息を吐き、苦笑した。

「猫は木に登るが、降りては来られないぞ」

「わあ!では、私、ちゃんと猫ですね!」

「……ソウダナ……」

 すっかり気を取り直したロゼッタに対して、一瞬鼻白んだ黒曜だが、ヤレヤレといった態で腕から降ろす。

「降りられないのだから、一人で木登りはしないように」

 釘を刺されている横から、フロリンダが割って入った。

「風の子らがあなたの膝元でおイタをして、申し訳ないわ。あの子達も、ちょっと気性がひん曲がってはいるけれど、いつもならそう害はないの。ああした陰陽バランスが安定していない子は、魔獄界まごくかいの気配が濃くなると、影響を受けて、あちらの性質に引っ張られてしまう」

「君が謝罪することではない。影響はどこにでも出ているからな。して、今日は何用でここに?」

「可愛いロゼッタに、お届け物を預かったの」

 ニッコリ笑って、フロリンダはロゼッタの頭を撫でた。

「あら...これ…さっき、木の枝に引っ掛けた?」

 と、フロリンダが、ロゼッタの肩の傷跡に目を止める。

「あ、コレは違います。黒曜さまにちょっとひと口……」

 そこまで言ったところで、黒曜がロゼッタの両肩に強く手を置き、言葉尻をかき消すような勢いでまくし立てた。

「初めての邂逅の際、疲労困憊の極限にあり、こちらの手違いでこの子に傷を付けるような振る舞いをしてしまった。本当にすまないことをした」

 いつにない早口の黒曜に、ロゼッタもフロリンダも目をパチクリさせる。

「…あなたでも、単細胞の駄々っ子アルスをあやした直後では、疲れてうっかり紳士的に振る舞い損ねることもあるのね...」

 納得したようで、フロリンダはうんうんとしたり顔で頷いて見せた。

 その様子を見て、肩に置かれた黒曜の手から、安堵したように力が抜けていくのがロゼッタに伝わってくる。

「コレ、痛くはないの?」

 ロゼッタはフロリンダに問われ、頷いた。

「霊薬で手当して頂き、痛みはすぐに消えたのですが、痕だけが少し残ってしまって…。傷も病もあらかた癒える、地の宮の温泉も使わせて頂いているのですが…」

「お!ん!せ!ん!」

 フロリンダの目が星を宿したように輝き、銀の髪が、虹色の羽が、キラキラと輝きを撒き散らした。

「私も入りたーい!!」

※※※

 フロリゼルの要望を黒曜に受け入れ、案内役をした所、流れでロゼッタも共に温泉に入った。

「はぁああああ〜」

 フロリゼルは翡翠ひすいの浴槽で伸び伸びと手足を伸ばし、満足そうな長いため息をもらす。

 銀の髪が湯船にキラキラした雲のように広がる様が、ロゼッタの目に眩しい。

 生い茂る木々と結界に守られた露天風呂は、動物たちも集まるが、誰かが入浴している時には先客の許可なく敷地に入ることは出来ない。

「水質もまろやかで、肌へのあたりが優しいわ。火の宮の温泉は、熱くてガツンと効く感じがいいけど、地熱でまったり温まったここもたまらないわ〜」

「火の宮に行かれた事があるのですか?」

 うん、とフロリンダは、顔だけぷかりと水面から出した状態で頷いた。

「火の司守さまは人嫌いと聞きますが、フロリンダさまは仲良しですのね!」

「ん〜、アルスが人嫌いでも、私が温泉に入りたいなって思ったら、入りに行く。それだけよ!」

 入る前に、色んな所で火が無駄に燃えているから、そこに芋を入れておいたり、グツグツいってる温水に卵を入れておくと、湯上りのおやつにちょうどいいの!と気楽な調子でさらにフロリンダは語ったが、それはとても凄いことだとロゼッタは思う。

「それにしても、この傷跡、気になるわ。マシュマロのようなお肌がもったいない」

 フロリンダが、そっとロゼッタの傷跡を指先でなぞった。

「痛くはないし、私は気にしていません。ただ、黒曜さまがお気になさるので、消えたらいいなと思います」

 フロリンダはじっとロゼッタを見つめて、にんまり笑って顔半分を湯に沈ませた。

「さて、そろそろ出ましょうか!」

 唐突に言ってフロリンダは立ち上がると、殆ど音を立てずに滑るように湯から上がり、瞬間、髪や肌に滴る水分を一気に吹き飛ばした。

 後を追ったロゼッタにもその力は及び、程よい潤いを残して髪も素肌も乾いた。

 巧みな力の応用に、ロゼッタは圧倒される。

 黒曜もフロリンダも、本来ならば、自分程度の小物と接することはない存在なのに、見下すような素振りはなく、温かく接してくれる。

 それがとてもありがたく、先程ハーピーらからぶつけられた言葉の毒が清められていく。

 ―……どうしても気になることは、あるけど……。

 二人が浴場を出ると、水晶の間で、彩雅が銀のタンブラーを用意して控えていた。

 あらかじめ、フロリンダが所望したものである。

「ありがとう!タイミングバッチリね!黒曜の側近は優秀だわ」

 フロリゼルは嬉々とそれらを手に取り、一つをロゼッタに手渡した。

 同時に一気に飲み干して、ぷはーっと吐く息もまた重なった。

「湯上りのミルクは最高だわーッ!」

「地の君のお膝元は、牧草も栄養たっぷりだから、牛さんも良いお乳を出してくれますー!」

 上機嫌な妖精二人を前に、彩雅がうやうやしく頭を垂れる。

「ご満足いただけて何よりです」

 空いたタンブラーをフロリンダから受け取りながら、ふと、ロゼッタはフロリンダの衣装に目を奪われた。

 騒ぎに取り巻かれて気づかなかったが、見た事のない生地だ。

 襟や袖は細やかなシルクのレースで、胸元に大ぶりなリボンを結び、トパーズのブローチで止めている。

 シルクは見知っているが、ジャンパースカートに使われている、ピーコックブルーの生地は見た事がない。

 光を受けると流動しているように見えて、彼女の動きに合わせてゆるい輝きと共に濃淡を変える。

 その下にフリルたっぷりの白いパニエを合わせているのが、 八重咲きの白薔薇を纏っているようでまた可愛らしい。

 長く細い首、腕、足のしなやかさをより良く見せるバランスが秀逸だ。

「フロリンダさま、お召し物がとっても素敵です!シルク以外は見たことのない布ですが、フロリンダさまが織ったのですか?」

 妖精は、もの造りが好きで、得意な者が多い。

 技能を独自に発展させ、使いこなす力量も魔力の高さに比例する。

 フロリンダは、笑顔になってくるりと一回転して見せた。

「自分で布から仕立てるのも好きだけど、この服は、私をもっと綺麗に可愛く飾りたいって方から頂いたの。色々な方面から贈り物は貰うけど、この衣装は逸品ね」

 ロゼッタは、憧憬どうけい溢れる眼差しをフロリンダに注ぐ。

 デザインは大好きなのだが、ロゼッタは縫い物が苦手だった。

 自分で手掛けるとおかしな形になってしまうので、仲間達の手を借り、やっと仕上げていた。

「風の君は、満足したかな」

 ノックと共に黒曜の声がして、彩雅が手際よく、扉を両開きにした。

「とーってもいいお湯だったわ!はい、これ、こちらに伺った理由の、妖精王からのお手紙!」

 フロリンダの細く長い指先には、どこからともなく現れた書簡が挟まれている。

「人目をはばかる内容ではないと仰っていたから、すぐにでもご覧になって!」

 彩雅がひっとりと、「来訪目的に至るまでの前置きの長さよ…」と呟いたが、誰も何も言わないので、ロゼッタも聞こえなかったことにした。

 黒曜はそれを受け取り、金色のシーリングスタンプが押されたそれを、手早く開く。

 すると、鱗粉りんぷんに似た細やかな煌めきと共に、半透明の小さな妖精王の姿が現れ、優雅に礼を取った。

 衣装も、ロゼッタが拝謁した時よりも華やかだ。

 天蚕のシルクであろう艶めいた淡い緑のシャツに同色のレースを重ねたジャポを首に飾り、大ぶりな赤瑪瑙あかめのうのブローチで飾っている。

 鳶色とびいろのベストの下から長く伸びる足は黒いキュロットを通し、光沢のあるグレーの靴下と合わせ、深い緑の天鵞絨ビロードの靴には金糸の刺繍が縁どりされていた。

此度こたびは、我らの愛し子を預かると、直々に丁重なレターを頂いたこと痛み入る。私としても、迷いながらも大いなる意思に全てを委ねた末の決断だったとご理解頂き、心からありがたく思う所。

 平和と愛と愉楽を性分とする我々にとって、武に重きを置く龍族の皆々様についてはいささか理解が及ばぬものの、地の司守である貴殿のお人柄は、頂戴した書面から充分に伝わって来た次第。

 全ての妖精の父として、心より安堵致しました。

 ここに我が愛し子への改めての餞と、貴殿への感謝を込めて、一曲お贈りしましょう。

 おお、ロマさんもご挨拶したいのかな。よしよし、今日も素晴らしい毛並みだね』

 ひとしきり喋った後、足元に現れた白い猫まで紹介すると、いつの間にやら抱えていた竪琴の演奏が始まった。

 美しい調べに、ロゼッタは耳を傾ける。

 興が乗ったのか妖精王は歌い出し、そこで黒曜は花崗岩かこうがんのテーブルに掌で押し付けるようにして書簡を閉じた。

「妖精王の演奏、聞かないのですか?素敵なメロディーですのに…」

「う…うむ、ま、まあ、また時間のある時に、な…」

 どっと疲れた風な黒曜もだが、無表情で遠くを見ている彩雅もロゼッタは気がかりだ。

「はい、これはロゼッタにお土産!」

 一方、全く頓着した様子のないフロリンダは、円形のポシェットを差し出した。

「まあ、私にですか?」

 驚きと共におずおずと受け取ったそれは、撫子色に染めた皮に、白い糸で野薔薇の刺繍が施されている。

「開けて中を見てみて!」

 促されて、リボンが飾られた留め具を外して中を探ると、ふわりと衣装が引き出された。 見た目からは想像できない、多くのものが収納出来る妖精の魔法がかけられているのだ。

「わあ!」

 ロゼッタは歓声を上げる。

 出てきた衣装は、ポシェットと同じ色を基調にした、エプロンドレスだった。

「地の君にお仕えするなら、メイド服が必要でしょう?他にも色々、あなたのお友達が仕立てた衣装がその中に入っているわ」

 ロゼッタは受け取った衣装を、抱きしめる。

 急な出発であり、かつ、黒曜に会った先のことは考えていなかったので、ずっと着の身着のままでいた。

 女王ティタニアが織ったというヴェールは頂いたが、日常使いのものではない。

 新しい衣装は、素直に嬉しかった。

 朋輩ほうばいの心尽くしなら、なおさらだ。

「ありがとうございます!とってもうれしいです!!」

 はしゃぐロゼッタを満足そうに見て、フロリンダは黒曜に顔を向けた。

「ロゼッタの傷跡は、水の気が残留しているわ」 

 黒曜は形の良い眉を寄せる。

「その時のあなたの思考の状況によるものだと思うけれど、龍族のあなたの本質は水。今は司守として、地に力が偏っているから、綺麗に痕を消すとしたら、純然な水の誰かに頼るのがいいと思うわ」

 思案顔になる黒曜に、念を押すように頷いて見せて、フロリンダは机上の白磁の花瓶から、生けられた小紫陽花こあじさいを一本引き抜いた。

 小花の寄り集まった淡い青紫色のそれを優雅に髪に挿し、おもむろに黒曜の腕をぐいと引っ張ると、長身の彼を引きずるように部屋の隅に連れて行き、密やかに何か耳打ちする。

「では!私はおいとまするわね!」

 愛らしい笑顔を見せて、フロリンダは軽やかに扉へ向かった。

「風の宮へお帰りですか?」

 ロゼッタの問いに、フロリンダは人差し指を顎に当てて考える素振りを見せる。

「ん〜、火の宮に寄ってみる」

「アルスの様子を見に行ってくれるなら、ありがたい」

「いいえ、温泉卵が食べたくなったから!」

 その答えに黒曜は固まり、彩雅の唇がいよいよへの字になった。

「あ!ロゼッタ!!ロゼッタのジャムも欲しいの〜!!」

「は、はい、キッチンにブルーベリーのジャムがあります」

「やった!頂いていくわね!有能な側近さん、キッチンに案内して!」

 催促さいそくされて彩雅は、黒曜が頷くのを確認して、仕方なくといったていでフロリンダの案内に立った。

 と、扉の向こうに消えていくフロリンダを見送る黒曜が、ハッとした表情を見せる。

「その織物は……」

 フロリンダは笑みを含んだ流し目で応えて、扉を締める。

 吹き荒れた花風が唐突に鎮まったかのようで、しばし間の抜けた静寂が漂った。

 黒曜を見れば、その横顔が、ここに居るの居ないような心許なさで、ロゼッタは思わず互いの距離を詰める。

 近づく気配ですぐにこちらに顔を振り向けてくれたので、安堵して頬が緩んだ。

「ジャムはたくさん作りましたから、フロリンダさまにお分けしてもなくならないから、心配いりませんよ!」

 今日も新しく作りますし!と張り切って告げるロゼッタを見下ろす眼差しが、穏やかに細められる。

 大きな手がロゼッタの頭にポンと置かれ、そこから痺れるような甘い幸福感が広がった。

 妖精王が『愛し子』と呼ぶ自分たちを見るまなざしと、黒曜の自分を見るそれは似通っている。

 妖精王になでられた時も満ち足りた気持ちになったが、黒曜に同じようにされると、少し違うのはなぜだろう。

 胸が締め付けられて苦しいくらいなのに、たまらなく甘やかな心持になるのは、なぜ。

 初めて抱く強烈なその幸せの源を、ロゼッタはまだ知らなかった。

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