第1話 私は捧げもの
どのような扱いを受けても良い。
その覚悟ではいたが、やはり少したじろいでしまう。
妖精は、圧倒的に男性が少ない種族である。
殿方と近しく接したことのないロゼッタには、抱きしめられるのは生まれて初めての事だった。
黒曜の腕の中に棒立ちでいながら、ロゼッタはここに来るまでの出来事を思い返した。
※※※
顔を縁取るように切り揃えられた癖のない髪は新緑の澄んだ緑に、顎に優美な影を落とす菜の花色が差し色で映える。
妖精王の御前で、ロゼッタは両腕に抱えられるだけのジャムの瓶を抱えて畏まっていた。
自分は、妖精王に気軽に目通りが叶う立場ではない。
お会いしたのは、意志が目覚めた時のみ。
妖精として認知を受け、領地に迎える祝福を下さった。
—……特出した力もない、まだまだ未熟な私に、どう言ったご用命があるのだろう...?
あれこれグルグルと考えてロゼッタが行きついた結論は、『フロリンダに酸っぱい野いちごを食べさせた咎を受ける』だった。
時系列的には早すぎるが、何せフロリンダさまは風の
情報伝達の速さは類に及ばない。
城を訪れ、通された客間のソファでフロリンダが菓子をかじっているのを目にした時、「やっぱり」とロゼッタは青ざめた。
細やかで美しい調度品のど真ん中でも物怖じせず、当人は「ヤホ〜」と笑顔で手を振っているが、妖精王は難しい面持ちで腕に抱いた毛足の長い純白の猫を撫ででいる。
ロゼッタは落ち着いた萌葱色に金糸銀糸で蔓草の模様が刺繍された絨毯に両膝を着いて、アワアワとジャムの瓶を差し出した。
「あの、先程フロリンダさまが召し上がった野いちごは、ジャムにすると美味しくなるので、決して酸っぱいのを食べさせたわけではッ...」
「え、何それ、貰う、ちょうだい!」
気がつけば音もなく間近にいて、フロリンダは流れるようにロゼッタの手からジャムを奪い取った。
と、思った次の瞬間には元いたソファに腰を降ろしてジャムの蓋を開けに掛かっているのだから、その動きの速さは凄まじい。
妖精王の表情が少し緩み、橄欖石色の眼差しがロゼッタに改めて注がれた。
「急に呼びだしたりして、さぞかし驚いただろうね。これから話す事は、とても大切な事だから、丁寧に話そう」
「なにこのジャム!!!おいしっ!」
空気を読まない歓声に、妖精王の頬がやや引き攣る。
「ちょっと静かにしてくれるかな?フロリンダ」
フロリンダは首を竦めて、ジャムをたっぷり乗せたビスケットを頬張った。
猫が妖精王の腕の中からするりと抜け出して、菓子を貪るフロリンダに擦り寄る。
「ロマさん、お菓子は少しだよ。歯によろしくない」
そして顔を振り向け「私の分もジャムを残しておいておくれ」と釘を刺した。
妖精王のお言葉に返ってきたのは、サクサクと菓子を貪る咀嚼音のみだったが...。
「話を戻そうね。楽にしなさい」
軽く咳払いをして、妖精王はロゼッタと改めて向き直った。
「ティタニアが、夢見の眠りに入った」
ロゼッタは軽く目を瞠った。
妖精王の妃にして、同等の権限を持つ妖精の女王ティタニアは、世界の夢を司る。
夢を操ることも、夢からあらゆる情報を引き出すことも出来る偉大な女王。
日々の眠りの中で自然と掲示を受けることもあれば、有事に備えて自ら眠りに入る事もある。
今回は御自ら夢の世界に入ったと言うことは...。
「世界が、幾つもの層になっている事は知っているね?」
はい、とロゼッタは頷いた。
それは、この
この世界は、神のおわす天界と、人が暮らす人界の真ん中に在る。
人界は主に物質の中で魂が学びを得る場であり、神の世界は物質も精神も自在になる、全ての
ここ精和界は、物質から半ば解き放たれ、精神の力が影響を大きくした世界。
人と神の世の繋ぐ段階の世界とされている。
「人の世は、物質世界の中で精神を磨く、神の愛すべき幼子たちの学び舎だ。我々妖精は、精和界の中でも、特に人界と交流がある。彼らの『良き隣人』として、物質の囚われから意識を解き放つ導き手となるのも役目のひとつ。そんな我らに拮抗する勢力があるのも知っているね?」
「……我々の影……ですね?」
「その通り」
精和界の裏には、豊かな光溢れるこの世界と対を成す、不穏な闇が支配する、邪念渦巻く
気ままなように見えて、根幹では世の全てにもたらされている神の祝福を知っており、その意志を受けて生きることに感謝を失わない精和界の住人とは真逆の、神の祝福に背を向ける者達の世界。
そこは不毛の地である。
その魔獄界と精和界は常に相対し、長く争っていたが、神の御心により元素の司守が立てられ、その力によって互いに通じる世界の扉は閉じられた。
だからといって、魔獄界の脅威が無くなったわけではないのだが…。
「400年ぶりに、魔獄界の力が高まり、精和界との扉の封が緩む星回りなのだよ」
妖精王は重々しい言葉をキッパリと口にした。
ロゼッタは青ざめて震える手で口元を覆う。
「それに備えて、ティタニアは夢見に入ったのだ。こちらの世界に籍を置いていようと、闇の種に近しいダークエルフである火の司守が荒れるのも、星の影響があるのだろう。それら全てを鑑みて、高次元世界に助言を求めた。そこで女王が得た託宣が…」
妖精王はそこで言い淀み、微かに眉宇を寄せた。
「ロゼッタ、そなたを地の司守に捧げよ、と…」
「なぜそうなるのか、まったくわからないんだけどね〜」
愛らしくも呑気な口調で呟かれたフロリンダの言葉は、その場にいた全員の心中そのものである。
「そ、そんな...」
ロゼッタは俯いて顔を両手で顔を覆った。
「ああ、驚かせてすまない、ロゼッタ...全ての妖精の父なる身として、まだ年若いそなたに無体なことを言っているのは重々承知だ」
妖精王の掌が、
「喜んで!!」
「「「え」」」
妖精王とフロリンダが同時に呟いた――猫もハモったのは、きっと気のせいだ。
「喜んで地の司守さまの元へ参ります!」
「え…え〜と、地の君は龍族の出で...我々よりも気の濃度が強く、荒い。そなたのような魔力の発現も不安定な若い妖精は、生気を呑まれてしまうかもしれないのだよ...?」
「食べられちゃうってことですか!?」
「そ、そうだね、そんな感じだね」
妖精王の動揺にも気づかず、ロゼッタは勢い込んで立ち上がり、薔薇色に染まった頬に手を当てた。
「どのようなことでも、地の司守さまのお役に立てるなら本望ですわ。だって、私はあの方が力を振るわれた波動から生まれたのですもの...」
世界中に満ちる、『意志のないとても小さな何か』にすぎなかった自分は、強い魔力の放出の波動を受け、意思に目覚め、肉体を持つ存在となった。
「きっと、この日のために私は生まれたのです!」
両手を組み合わせて目をキラキラと輝かせるロゼッタを前に、妖精王はやや引き気味に仰け反っている。
「最高の幸せをありがとうございます!!すぐにお出かけします!」
「あ〜...、うむ」
いささか呆然としていた妖精王が我に返った様子で、姿勢を正した。
「そなたの気概、まことにありがたく、また、父なる身としては哀切もあれど、誇らしくも思う」
言って、妖精王は右手の指を打ち鳴らした。
「先を急ぐ前に、地の君への敬意と、そなたへの
そして妖精王はロゼッタの華奢な両肩に手を添えて、その額にキスをした。
「春の日差し色の髪に、額髪の薔薇色のひと房が愛らしい我が子よ。そなたに妖精王と女王からの祝福を」
慈しみのこもる掌が、ロゼッタの頭を優しくなでる。
「ありがとうございます」
にこやかに答えるロゼッタの斜め後ろに、いつの間にやら侍女が控えていた。
その先導に従い、ロゼッタは礼をとると、王の客間を退出する。
どこまでもウキウキと弾んだ足取りで—―。
そうした過程で、自分は今ここにいるわけだが……。
結い上げた髪が軽く引っ張られ、ロゼッタは肩を竦めた。
はむはむと、黒曜が髪を喰んでいる。
次いで、肩をガブリと噛まれた。
「ほえぇぇ」
痛みで、さすがに変な声が出る。
―……食べられるって、すごく直接的なのね…でもても!地の司守さまのお力になれるなら、本望です…!!
改めて覚悟を固めた瞬間、黒曜がグラリと全体重をロゼッタにかけてきた。
支えきれず、そのまま押し倒される形になる。
柔らかく生い茂る野草が衝撃を吸収してくれたが、長身の黒曜を押し戻す膂力は、ロゼッタにはない。
次にくる展開を、目を固く閉じて待った。
「……甘味……も...大事……だな……」
「え?」
微かにそう呟いたきり、黒曜は動かず、後にはすうすうと健やかな呼吸が続くばかり…。
「我が君がなかなかにお戻りにならぬと思い、迎えに参上してみれば」
頭の上で唐突に声がして、ロゼッタが首を伸ばして何とかそちらを見ようとしたと同時に、ぬっと逆さに顔を覗き込まれる。
「これはどうした事だ」
深い
美しい幼女であったが、それは自分よりもかなり年嵩の、純然な元素の力を持つ…地の精霊であると、ロゼッタは察した。
※※※
ロゼッタが退室した後の妖精王の宮殿では。
「本当に可愛くて、面白い子ねぇ」
ティータイムを再開したフロリンダが、紅茶で唇を湿らせて、愉快そうに言った。
テーブルに並べられた金のケーキスタンドは、あらかた綺麗になっている。
「ああ、無邪気で健気で、愛おしいね。だからこそ、とても悲しい。父なる立場としては」
脱力したような緩慢な動作で、妖精王がフロリンダの向かいのソファに腰を下ろす。
その膝に愛猫がするりとおさまった。
「大丈夫よ」
猫の口周りに着いた赤いジャムをナフキンで拭う王へと、フロリンダはたっぷりジャムを塗ったスコーンを差し出した。
「幸せに疑いがない子は、強いわ。信じる心は奇跡を招く。ご存知でしょう?」
妖精王はスコーンを受け取り、それを口にして、目を瞬かせた。
「このジャムを食べられなくなるのは、きっと神も惜しむと思うの。そう思いませんこと?」
「なるほど」
王の美貌が笑みに和らぐ。
「これは神も惜しむだろうね」
「でしょう?」
ニャオ、と口周りに残るジャムを舌で舐め取りながら、白猫も同意した。
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