レタスから羽ばたく

富志悠季

1日目:出会い

「はぁ……」


 狭いキッチンでレタスを剝きながら、ため息が漏れる。

 大学近くの古いアパート。壁紙の剝がれもコンセント周りの焦げ跡も、三ヶ月も経てば慣れてしまった。

 だけど、レタスを剝く音と、それを洗う水の音だけが響くこの部屋の静けさ。その音のなさが、胸にじわじわと虚しさを広げていく。


「何やってんだろな……」


 私――天野あまの 美羽みうは自分に問いかける。大学に入って三ヶ月になるが、誰かとまともに会話をした記憶がない。

 世間一般の大学生たちがどう過ごしているか知らないけれど、スーパーで半額になっていたレタスを黙々と剝いているのは少数派だろう。


 ネットで見つけた、フライ麺と和えた簡単レシピを作るつもりだったけど、性格だけでなく手先も不器用な私は、こんな単純作業にすら時間がかかる。

 もうやめようか――そう思った、その時だった。


「わあっ!?」


 水に濡れたレタスから思わず手を引っ込めると、レタスはシンクに落下した。


 今、葉っぱの奥で……何かが動いた気がする。


 恐る恐る、葉を一枚そっと剝がす。すると、そこに現れたのは――体長2センチほどの、小さな黒っぽい生き物。

 その体がゆっくりと蠢くのを見た瞬間、私は心臓が跳ねる音を感じた。


「な、なにこれ、最悪なんだけど!」


 思わず大きな声が漏れる。足元まで悪寒が走り、半ばパニックになりながらも蛇口を閉めると、ひとまず深呼吸を繰り返した。

 こいつを、シンクに放置しておくわけにもいかない。けど、直接触るのは無理だ。

 黒っぽい生き物がついているレタスの葉を指先でそーっとつまみ、できる限り丁寧に剝がす。大急ぎで使っていない鍋に放り込み、ラップをかぶせて蓋をした。


 これで……ひとまず安心だ。

 ラップ越しに鍋の中を覗き込むと、その小さな体は、相変わらずくねくねと動いている。


「もう、なんなの、これ……!」


 水に濡れた手を拭きながら、スマホで「レタス 細長い 虫」と検索すると、すぐにそれらしい結果が出てきた。

 どうやらこれは「オオタバコガ」の幼虫らしい。レタスに限らず、トマトやナスなど、様々な作物に寄生し、農家から忌み嫌われる害虫だという。


「オオタバコガ、ねえ」


 全然かわいくない名前。だけど、正体が分かって少し気持ちが落ち着いてきた。

 鍋を覗き込むと、黒っぽい幼虫は、レタスの葉の端を夢中でかじっている。


「どうしようかな、これ……」


 ティッシュに包んで捨てる……のは、可哀そうか。なら、野に放ってやろうか。窓から放り投げるとか。

 考えを巡らせていると、ふとシンク脇に放置された「岩手産レタス」の袋が目に入った。

 岩手県。東京からおよそ500キロ。大分から上京してきた私には、全く縁のない場所だ。

 なんだか、この出会いがちょっとだけ「運命」のようにも思えた。北と南で育った私たちが、遠い場所で交差する。少しドラマチックに感じるのは、気の迷いだろうか。


「……とりあえず、様子見かな」


 そう呟き、鍋にかぶせたラップに小さな空気穴をいくつか開けてやる。

 飼うと決めたわけじゃないけど、この奇妙な来客と、もう少しだけ付き合ってみることにした。

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