第23話 神龍ミルグラド

 前世。

《楽園》には、常に話題の渦中にあった一つの掲示板が存在した。

 平穏とは程遠い波乱が、たった一言から始まったのだった。


 ──『負けた』


 投稿主がそう記した瞬間、掲示板は静寂を失った。

 ただのユーザーの呟きなら、誰も気に留めなかっただろう。しかし、この投稿主は違った。


《星九指定生物、単独撃破》

 ただそれだけで、このプレイヤーがどれほどの猛者だったかは語るに足りる。

 技量において右に出る者はおらず、戦闘狂たちからはまるで神のように崇められていた。


 そして、掲示板が崩壊するように次々とユーザーが反応する。

 ***


 002:名無し

 神がぁああああ!!


 003:名無し

 あり得ねえだろ。

 一体誰がこの超人倒せるんだよ?


 004:名無し

 >>003

 相手も神なんだろ。知らんけど


 005:Solilogos

 こいつ

(画像:087rakuen_sc.jpg)


 ***


 正直なところ、俺はそこまでこの騒動に興味があったわけじゃない。

 ただ、流れてくる投稿を何気なく眺めていたにすぎなかった。

 ──その一枚を見るまでは。


 画面に映し出されたのは、ゲーム内のスクリーンショット。

 その中央にいたのは、今まで誰の記録にもなかった、未知の生物だった。


 けれど、俺の手が止まった理由は、「未発見」という珍しさではなかった。

 もっと単純で、もっと本能的なものだった。


 ただ――魅了されたのだ。


 そこにいた存在は、まさに威風堂々。

 まるで、この世に縛られるものなど何一つないとでも言いたげな眼差しで、スクリーン越しの俺を見返していた。

 その瞳に、心を呑まれた。


「・・・・・・すげぇ」


 気づけば、言葉が漏れていた。

 口にして、自分でも驚くほど中身のない感想だったけれど、どうしようもなかった。

 日々、社会という鎖にがんじがらめにされている自分とは、まるで正反対の存在。

 自由そのもののようなその姿に、ただ圧倒されたのだ。


 蛇と龍を併せ持つような異形。

 細長い体躯は空気を裂き、雲間を泳ぐように宙を舞っていた。

 その体表には、銀白と黒曜の鱗が交互に並び、見る者を吸い込むような神秘的な輝きを放っている。


 そして翼。

 肉体から生えたものではない。

 左右に広がるのは、まるで光の帆のようなエネルギーの翼だった。

 空間に滲み、広がり、揺らめくその光は、どんな魔法よりも幻想的で――美しかった。


 ただ一つ、惜しいのは。

 スクリーンショットの画質が荒かったこと。

 細部まで目を凝らして見ようとしても、ジャギーがかかっていて、どうしても鮮明には見えない。


 ***


 006:名無し

 おいおいおい、なんだこりゃ。

 龍、か?


 007:名無し

 確実なのは未確認生物ってことだな。

 にしてもでかいな。軽くとぐろを巻いててなお、高層ビルぐらいあるぞ。全長で八十メートルはあるだろ。


 008:名無し

 高次元生命体って感じですね。


 009:名無し

 こんなんに出会ったら漏らすわ!


 010:名無し

 どこに出たんだ? 出来れば中立国からは離れてて欲しいんだが。


 011:Solilogos

 >>010

 ミルディアン大森林の奥地


 012:名無し

 ・・・・・・あの魔境か。


 013:名無し

 じゃああんま関係ないか。あそこに行ってるのは、戦闘メインにしてる連中と、生物ギルドの命知らずぐらいだしな。


 014:もふもふ命

 >>

 呼んだ?


 015:名無し

 生物ギルドだ?! 逃げろぉおおおお!


 016:名無し

 俺は狩ってない。俺は狩ってない。俺は狩ってない。俺は狩ってない。

 もふもふは狩ってないからこっちは見ないでくれぇえええ!!


 ***


 その後も、掲示板の勢いは止まることを知らなかった。

 誰もが、あの存在に名前を与えたがった。


『楽園』では、未確認生物の命名権は原則として発見者に委ねられている。

 もし過去の資料に記録があるなら、それが優先されるが──今回に限っては、そんな記録はどこにも存在しなかった。


 そして、議論と憶測が渦巻く中で、その存在に名が与えられる。

「神龍ミルグラド」──そう呼ばれることになった。


 該当等級は、脅威の最上位ランク、星十フルスター

 この等級が意味するのは、簡潔にして絶望的なひとこと。


 ──勝てる見込みは、


 当然ながら、経験値稼ぎに命を賭けたくないプレイヤーたちは、揃ってミルディアン大森林を避けて通るようになった。

 だが一方で、俺を含む生物ギルドの面々は、むしろその逆を行った。


 全員が、あの神龍の痕跡を求め、ミルディアン大森林へと殺到したのだ。


 しかし、半年にわたる調査の中で、ミルグラドと遭遇した者は一人として現れなかった。

 地形調査、環境のログ確認、痕跡の分析・・・・・・あらゆる手段を講じたが、何も得られなかった。


 最終的に俺たちは、一つの仮説に落ち着いた。

 ──偶然だったのだ、と。


 ミルグラドの移動経路の中に、たまたまミルディアン大森林が含まれていた。

 そして、その瞬間にSolilogosがそこに居合わせた──それだけの、奇跡のような偶然。


 ・・・・・・そう結論づけるしか、なかった。


 ただ、それでも俺は諦めきれなかった。

 あのとき、スクリーンショット越しに見たあの目が、あの存在が、頭から離れなかった。


 もう一度会いたい。

 ただそれだけの思いで、俺は調査を続けた。

 いつか、あの神龍ミルグラドと真正面から相対するその日を夢見ながら――


 ◇


(全っ然、王都近郊にいるじゃねえか・・・・・・!)


 言葉にならない驚愕が、頭の奥で爆ぜた。

 この場にいるのは、俺ひとり。

 シルも、マルスもいない。

 まるで変化のない静かな風景。だが、足元に満ちる魔力の濃度が異常だった。


 それは明らかに、領域魔法の類。

 空間そのものを支配するような魔力。

 姿を見せない神龍に、ギルド内でも可能性として語られてはいた。


 なぜ俺がここに入れたのかは分からない。

 何か条件を満たしてしまったのか、それともただの偶然か──

 不幸にも、あるいは幸運にも、俺はここに"招かれた"のだ。


 そして、眼前に──いる。


 探し求めていたその存在が、いま、目の前に。


 全身の神経が総毛立ち、背筋に電流が走る。

 動けない。いや、動く必要もない。ただ、目が離せなかった。


 知らず、口角が上がっていた。

 それは興奮か、制御不能な感情の暴走か──

 嬉しくて、震えて、笑っている。


「ははっ・・・・・・!」


 感情が爆発しそうだった。


 圧倒的な上位存在に晒された恐怖。

 その重圧に心臓は狂ったように早鐘を打ち、血流は全身を焼くように駆け巡っていた。

 けれど、それ以上に、胸を満たしていたのは感動。


 スクリーンショットでは分からなかった、その圧倒的な姿。

 体表は、見る角度によって色を変え、銀白の鱗が星空のように輝く。

 まるで宇宙そのものが、鱗に映っているかのようだった。


 エネルギーの翼は風のように揺らぎ、光のヴェールをなびかせて、星雲のような模様を描く。

 美しさと威厳が渾然一体となった、幻想の権化。


 そして──黄金の瞳。


 その眼差しが、確かに俺を見ていた。

 心の奥底を覗くような、何もかもを見透かすような視線。


 意識するより早く、身体が硬直していた。


 逃げる? 否。

 抗う? それも違う。


 ただ、畏れと、畏敬と、そして言葉にならない歓喜と共に。

 俺は、神龍ミルグラドと真正面から、出会っていた。


 ――グシャッ。


 鈍く重たい音が耳を突き刺し、視界がぐるりと反転する。

 何が起こったのか、即座には理解できなかった。

 けれど、宙を舞う身体の感覚と、内側から砕けるような激痛が、ただ一つの事実を教えてくる。


 ――吹き飛ばされた。


 なにをされたのか分からない。

 だが、それは一撃だった。

 肉体の構造ごと破壊されるような、圧倒的な力。

 それでも生きているのは、単なる運。それだけだった。


 喉の奥から、鉄の味がこみ上げる。

 吐き出した血の赤が、宙に弧を描く。

 見下ろす地上には、巨大な扇形の痕跡──木々が広範囲に薙ぎ倒されていた。


 その先端に、長く、しなやかな尾。


 魔法ではない。

 神龍はただ、尾を払っただけで、これだけの破壊をもたらした。


 そして、死にかけた俺には目もくれず、背を向けて悠然と去ろうとする。


 ――カチッ


 秒針が戻る。

 歯車が一つ錆びた。


 アーティファクト【逆刻ぎゃっこく懺悔ざんげ

 能力は、使用者が後悔を抱いた時、その五秒前に時を戻す。


 能力そのままに、世界は五秒前に遡る。

 破壊されたはずの木々は元に戻り、俺は無傷で地面に屹立している。


 ただし、


「情報通り、か」


 Solilogosが提供してくれた数少ない貴重なデータ。

 そのひとつに、こうあった。


“神龍は、あらゆる魔法、またはそれに類する異能を無効化する”


 それはアーティファクトも例外ではない。


「ふぅ・・・・・・もう少し俺と遊んでくれよ」


 深く息を吐き、精神を落ち着ける。

 今度は、一歩踏み出すように、声を掛けた。


 届くはずがない。

 距離もあるし、神龍にとっては虫の声にも等しいだろう。


 だが。


 神龍の動きが止まる。


 そして──ゆっくりと、首をめぐらせる。

 宇宙のような鱗がきらめき、黄金の双眸が、今度こそこちらを見据えていた。

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