第二十六話 鼓動に潜む影

「…頼んだぞ」


 喉の奥から声が絞り出される。

 歴戦の感を頼りに、運転への絶対的な自信を持った彼であったが、この先は実力など関係無い。

 長年連れ添った自分の相棒を如何に信じ、身を任せる事ができるか。

 

 "相棒"の前輪がガードレールに乗り上げると、鋼鉄のボディがうなりを上げ、爆発的な咆哮が夜の静寂を引き裂いた。

 こんな状況でも冷静に見える彼の表情であったが、しっかりとハンドルが握られた手の内側に汗が滲み、この状況が如何に緊迫しているのかを物語っている。

 その刹那、凄まじいトルクが地を蹴り上げ、その車体を宙へと運んだ。


「……っ、頼む、上手くいってくれよ」


 西条の視線は単車へと向けられていた。

 落ちれば、大怪我では済まない。

 それでも、彼の胸中にあるのは、自分の身よりも”相棒”の無事を願う思いだった。

 重力から開放されたその刹那、全てから解放されたかの様な錯覚に陥る。

 だがそんな自由も、一瞬の幻影に過ぎない。

 再び支配権を重力が奪い返し、直ぐに落下を始める。

 風が不気味な唸りを上げ耳元を鋭く切り裂く。

 想像以上に速い落下に身体が吸い込まれ、その視界に移る地の面積が大きくなる。

 そんな不吉な音を掻き消すかのように、まじかに迫った地面を震わせるようなエンジンの重低音が絶えず鼓動を刻み続け、それに負けじと己の心臓の鼓動が鳴り響く。

 エンジンの轟音と重なり、まるで"共鳴"するかのように、強く、激しく響き渡る。

 全神経を研ぎ澄ませ、着地の衝撃に備える。

 見据える先には、勿論安定した地面など無く、河川敷特有のただただ不安定な土と砂利、ゴロゴロとした岩が転がっている。


 ドンッ!!

 

 衝撃が全身を貫き、タイヤが地を強く打ちつけられる。

 伸びきったサスペンションが一気に収縮し、凄まじい衝撃を和らげたが、それでも計り知れない程の力で打ち付けられる。


「……俺、ちゃんと生きてるな」


 無謀な跳躍をこなした後、完全に無事、とまでは言えないが、特に目立った怪我も無く耐え伸びた西条は、自分の身の無事に安堵する間もなく、相棒の無事を確認する。


「頼むぞ…どこも壊れてねぇよな……?」


 不安で揺れた声を発しながら、恐る恐るアクセルを捻る 。


ドゥルルルルルルッ!!


 回転数が一気に跳ね上がり、夜の静寂を切り裂くようにエンジンが吠えた。

 普段と変わらない、力強い音が響く。

 しかし、その轟音はまるで友の生還を祝福し「やり遂げた」と称えているかのように聞こえた。

  緊迫から解き放たれると、やっと肩の力が抜く事ができ、ために貯めた緊張を大きな溜め息として吐き出す。

 視線を上げれば、薄暗い河川敷の先に広がる街の灯りが、まるで遠い別世界のように揺らめいていた。


「ハッ……なんとか、やり切ったか……」


 愛車の燃料タンクにポンと手を置きまだエンジンの余熱を感じ取ると、それはまるで生き物のように脈打っているように感じられる。


「お前、ほんとに最高だな……」


 高騰した胸の昂りを独り言のように呟きぶつけると、再びスロットルを開ける。

 そんな中、静寂に響いたエンジン音のにかき消されつつも、微かに物音が聞こえた。


「……ん?」


 注意深く意識を向けると、背後に感じる僅かな気配。


「さっきの警察がまた追って来たのか...?いや、サイレンなんて一切聞こえなかったよな?」

 

 背後からこちらを伺うようなこの嫌な感覚は——


 西条は僅かに眉を寄せ、ミラー越しに背後を確認する。

 河川敷の暗がり、街灯も届かない影の中に、誰かが立っていた。


 ——いや、立ってこちらを注視していた。


(……また、か)


 街を駆けるようになってから、何度かこうした不気味な気配を感じることがあった。

 まるで、自分の動向を探るように。

 まるで、“西条 零”という存在を確認するように。

 路地裏で見かけた"面倒なヤツ"とはまた違った、冷え切ったような、忌々しい視線を向けてくる。


 夜の静寂が、耳鳴りのように重く圧し掛かる。

 西条はふっと笑い、ヘルメットもない素の顔を相手へ向け、軽く顎をしゃくった。


「……そんなとこで隠れてねぇで、話ぐらいしようぜ?」


 だが、相手は何も答えなかった。

 風に紛れるように、消えた西条の言葉と一緒に、その姿はゆっくりと闇へと溶け、消えていく。


「……チッ、めんどくせぇな」


 何かが動き始めている。

 そう思わずにはいられなかった。


 西条は深く息を吐くと、再びアクセルをひねった。

 エンジンが雄叫びを上げ、暗闇の中に響く。

 このまま考えていても答えは出ない。


(だったら、走るしかねぇよな)


 黒い影が地を蹴り、夜の闇に溶けていく。

 背後に残るのは、河川敷に漂う僅かな砂煙と、誰かが確かにそこにいたという違和感だけだった——

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