第十二話 お互いの心

冷え込む夜の空気が廊下を包み込む中、彼女の足音が、やけに揃った規則正しいリズムを刻む。その音が廊下に響くたびに、西条は彼女との距離を意識させられていた。


窓の外には、闇に溶け込むような深い藍色の夜空が広がり、校舎の中に微かな寒さを染み込ませている。時折、風の音が遠くから聞こえてくるほかは、廊下には二人の足音だけが響いていた。


(なんだ、この沈黙……やべー、気まずすぎる……。お嬢様とかって、普段どんなこと話してんだ?)


西条は無意識に歩調を緩め、数歩前を歩く星羅の背中を見つめた。長く艶やかな黒髪が歩くたびに柔らかく揺れ、その姿にはどこか非現実的な美しさが漂っている。その髪がほんのりと月光を反射し、まるで夜空に浮かぶ流れ星のようだった。


しかし、その美しさとは裏腹に、彼女の背中はどこか冷たさを感じさせた。凛とした佇まいは気品そのものであり、まるで別世界の存在を見ているような気さえする。それが、西条にとって何より「話しかけにくい」という圧迫感を与えていた。


(普段のノリで話しかけていいのか……いや、さすがにやめとくか。変なこと言ったら絶対失礼だろ)


思案に暮れる西条をよそに、星羅の歩調がふと止まった。柔らかな光が差し込む窓際で立ち止まり、彼女がゆっくりと振り返る。

夜の薄暗い廊下に立つその姿は、どこか絵画のような美しさを放っている。けれども、その顔にはわずかな困惑が浮かんでいた。


「どうなさったの? 先ほどから妙に静かですわね。何かお考えですか?」


彼女の声は、夜の静けさを切り裂くように響く。驚くほど柔らかく、けれども確かな芯を感じさせるその声に、西条は一瞬ドキリとした。

突然の問いに不意を突かれた彼は、軽く目を丸くしたものの、すぐに肩をすくめていつもの調子を装う。


「あー、いや、別に。ただ、すげーキッチリしてるんだなって感心してただけ。花ヶ崎さん、何やっても完璧だよなって」


「今日は本当に助かったよ、ありがとう」


素直に感謝の言葉を口にした西条。その率直さに、星羅はほんの一瞬だけ驚いたように見えた。だが、すぐに表情を整え、口元に柔らかな笑みを浮かべる。


「いえ、そんな大げさなことではありませんわ。……ただ、そうですわね、私が“完璧”に見られることは確かによくありますわ。けれど、特別なことをしているわけではありませんの。それが、私に求められた”カタチ”であるだけですの」


その言葉に含まれる冷静な響き。星羅のどこか儚げな口調に、西条は思わず言葉を探した。

少し考え込む素振りを見せてから、場を和らげようと軽く笑いながら答える。


「いやいや、こんな時間まで俺に付き合ってくれるとか、普通できねぇって。俺なら、絶対パスしてるけどな」


西条の言葉に、星羅は思わず小さく笑みを浮かべた。そして、少し肩の力を抜いたように言い放つ。


「……ふふっ、それって要するに、貴方が無責任なだけでしょう?」


軽く笑いながらも、きっぱりと言い切るその声に、西条は「あー、それは認めるわ」と苦笑しながら頭を掻いた。その時だった。


「……私としては、こうやって誰かと”普通”にお話している方が、ずっと楽しいのですけどね」


星羅の口からふいに漏れた言葉。その無防備な響きに、西条の足が止まる。


「え、花ヶ崎さん、今なんて?」


彼女は軽く微笑みを向け、どこか楽しげな表情を浮かべながら、ふわりと西条のほうを向き直る。


「何でも無いですわ。ただ、本日は少し新鮮な気持ちになりましたわね……こういうのも、悪くないですの」


この続きでは、星羅の意外性をさらに強調し、自然体の一面を引き出します。


西条は、星羅のその言葉に一瞬呆気に取られていた。

普段の彼なら軽口を叩いて場を和ませるはずだが、今はその余裕がどこか吹き飛んでいる。

目の前に立つ星羅の姿――いつもの「完璧なお嬢様」の仮面をほんの少しだけ外し、柔らかく微笑むその表情が、西条にはどこか信じられなかった。


(なんだよこれ……花ヶ崎さんって、こんな普通のこと言うんだな)


「……何かおかしなことを申しましたか?」


星羅は軽く首を傾げながら、西条の反応を伺うように見つめた。その仕草には、普段の気品ある態度とは違う、少し無邪気な雰囲気が感じられる。

だが、その瞳には、彼女特有の聡明さと、わずかに揶揄するような光が宿っていた。


「いや、まさか花ヶ崎さんからそんな言葉が聞けるとは思わなかっただけ。てっきり、一人で黙々とやるのが好きなタイプかと」


西条はようやく平静を取り戻し、肩をすくめながら軽い口調で答える。その返答に、星羅は「ふふっ」と小さく笑みを漏らしながら言った。


「どうやら、少し誤解されていたようですわね」


その柔らかな笑顔――普段の完璧で威厳ある星羅の姿とは異なるその表情は、どこか無邪気さを帯びていて、西条の中に意外性として深く刻み込まれた。


(なんだ、話してみると普通に喋れるじゃねぇか。それどころか……なんかちょっと面白いかも)


再び前を向き歩き始めた星羅は、振り返らないまま、ほんの少し声を落として言葉を続けた。


「それに……貴方みたいな方と話すと、退屈しませんの」


そのさりげない言葉に、西条は再び立ち止まりそうになった。

冷たい空気に包まれる夜の廊下で、星羅がこんな言葉を発するとは予想もしなかったのだ。


「へぇ、それって俺のこと褒めてんのか?」


西条が少し冗談めかして問いかけると、星羅は振り返りもせず、肩越しに応える。


「褒めたつもりはありませんわ。だって、貴方が調子に乗るといけませんもの」


そう言いながら、彼女の口元には、普段の星羅からは考えられないほどの、ほんの少しのいたずらっぽさが浮かんでいた。


その微妙な変化を目の当たりにしながら、西条は肩をすくめる。


「……まあ、褒めてなくても、俺にそんなこと言ってくれる人っていないからさ。それなりに特別な言葉だろ」


星羅はその言葉を受けると、一瞬だけ驚いたような表情を見せた。しかし、それを隠すようにわずかに微笑みを深める。


「……そう、特別かもしれませんわね」


夜の空気は冷たく、校舎の外に出るとさらに肌を刺すような冷気が二人を包み込んだ。


足元の白い石畳が月光を反射し、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。その景色の中を、二人の足音が響き渡る。


星羅は先を歩きながら、ふと空を見上げた。その動きは、いつもの彼女からは想像もつかないほど自然で、少し無防備な印象さえ与える。


「……星、きれいですわね」


小さく漏らしたその言葉に、西条は少し驚きながら、空を見上げる。たしかに、月と星々が静かに輝き、夜空を覆い尽くしている。


「ほんとだな。こういうの、この辺じゃ滅多に見れないからな」


「ええ。……こういう時間も、悪くありませんわね」


星羅のその言葉は、夜の静けさの中に溶け込むように柔らかく反響する。その声を聞いた西条は、なんとも言えない気持ちで彼女の横顔を見つめるのであった。


(なんだろう……花ヶ崎さんって、こんな普通の女の子みたいな一面もあるんだな)


西条にとって、完璧に見えるお嬢様が見せたこの瞬間の自然さは、心に深い印象を残す。

その一方で、星羅もまた、自分でも気づかないうちに、この会話の時間をどこか楽しんでいる自分に気づいていた。


校門へと向かう二人の足音が徐々に遠ざかる中、冷たい夜の空気が少し和らぎ、静かにその二人を追いかけて行く――。

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