33 ハイパーベンチレーション

 自室。ベッドに仰向けに寝た俺。


『うん、体と脳の方はもう同期大丈夫みたい。たっくん動いていいよ』


 亜翠さんが同期を取れたから動いて良いと俺に言った。

 意外なその一言に、俺は解放された気分で自由に手足を動かす。

 だがここからが地獄の始まりだった。


『それじゃあ深呼吸して、エネルギーをこっちに送る感じで』

『分かりました』


 言われるがままに深呼吸する俺。

 しかし、それだけでは終わらなかった。


『それでね、たっくん。深呼吸しながら腹筋してほしいんだって』

『はい? 腹筋ですか?』

『うん。たっくんが運動に使ったエネルギーを使って、伊緒奈ちゃんをそっちに送るんだってさ。あ、深呼吸も忘れないでね。でも目は開けないで』

『そうですか……分かりました』


 フリーメーソンに言いように言いくるめられているのだろう。

 俺は疑問を挟むことも出来たが、取り敢えず言う通りにしてみることにした。

 だがこれが大きな失敗だったのかもしれない。


 深呼吸をしながら上体起こしを1回、2回と繰り返す。

 だがデブな運動不足の体にはこれが酷く堪えた。

 数回繰り返すだけで、俺の疲労はマックスになろうとしていた。

 加えて深呼吸をしながらというのが、非常に疲れを誘発していた。

 というかこれ、ハイパーベンチレーションってやつなんじゃないか? そう思った。

 確か繰り返し行うとブラックアウト――意識消失を招く、失神ゲームなんかでよく使われる手法に似ている。

 やめたほうがいいかもしれない。そう思った。

 しかし右隣を見ると、香月さんが入ったままの酸素カプセル。


『そのまま続けて!』


 亜翠さんはこっちのキツさなんてお構いなしにそう指示してくる。


『たっくん頑張って! あと少しで伊緒奈ちゃんの転送が終わるから!』


 そう言われては止めるわけには行かなかった。

 30回40回とデブで運動不足の体にしてはたくさんの量の腹筋をする。

 もう腹筋が悲鳴を上げ、限界を迎えようとしていた。

 深呼吸もこれ以上繰り返したらどうなるかわからない。


『最後、伊緒奈ちゃんの心臓を転送するからあとちょっとだけ頑張って! それからたっくん、伊緒奈ちゃんの心臓にたっくんのエネルギーを渡して上げて! たぶんたっくんならできるって!』

『エネルギーを渡すって一体どうやって!?』


 腹筋をしながら念話で聞く俺。


『もう量子テレポーターの蓋を開けて良いから!! それで伊緒奈ちゃんの心臓付近に触ってくれればいいって! タイミングはこっちで指示するから!』

『分かりました。やってみます!』


 腹筋をなんとか行いながら、俺は指示を待った。


『たっくん、今!!』


 亜翠さんが叫ぶように言うと、俺は目を瞑りながら腹筋をやめると、右隣に見えている香月さんの量子テレポーターに触れようと右側に腕を伸ばした。

 しかし――ドン! という音がして、壁に腕がぶつかる。

 衝撃で目が開ける。

 そこには自室の空の壁紙。


『すみません、香月さんに触れられません。壁があって……』

『そっか……やっぱりたっくんでもすり抜けられないよね……みんなはたっくんならきっとできるって言ってたんだけど……』


 亜翠さんはきっとフリーメーソンの連中に騙されているのだと思った。

 しかし、いまはそんなことはどうでもいい。香月さんがどうなったかだ。


『それで……!? 香月さんはどうなるんですか!?』


 もう日が落ちて真っ暗になっていた部屋の中、俺は疲れで息を荒げながらも聞く。


『それは……駄目……伊緒奈ちゃんの転送は失敗したみたい』


 亜翠さんがそう言うと、ピーピーという音。

 俺は目を閉じると、右隣に見える量子テレポーターの蓋が開いて見えた。

 しかし中には、香月さんがいない。


『香月さんがいない……? 亜翠さんどういうことですか!?』

『ごめん……私にも分からない。でも皆は伊緒奈ちゃんが転送失敗で死んだかもって……!』


 衝撃の一言に俺の混乱は頂点に達していた。

 T2の余り踊らされるなという一言が脳裏を掠める。

 それで俺は冷静になろうと努めた。

 しかし香月さんが心配すぎて涙が止まらない。

 亜翠さんは香月さんが死んだという。

 俺は泣くのを抑えきれなかった。


「うっう……そんな……香月さん……」


 俺が夜の暗闇の中泣き始めると、まるで俺を照らすかのようにいくつもの明るい光源が現れた。宙に浮くそれらは俺に向けて光を照射している。


「まさかナノマシンか?」


 まるでナノマシンが光を照射して、泣き腫らしている俺の顔を撮り逃すまいとしているかのように思えた。フリーメーソンの連中がこれをやっているのかもしれない。そう思った。

 だがただの統合失調症の幻覚の可能性だってあるのだ。

 T2が言っていたようにあまり踊らされるわけには行かない。

 そうは言っても、なかなか涙を止めることはできなかった。

 目を閉じると、光の光源が集まってきて、何か絵を書き始めた。


「まさか、香月さん?」


 香月さんも絵が得意だと聞いていた。

 もしかしたらフリーメーソンのナノマシンなんかじゃなく、転送失敗したという香月さんが、絵で俺に何かを伝えようとしているのかも知れない。

 そう思った。


 必死で光の描く絵を見ようとする俺。

 だが、絵は形になる寸前で消えてしまう。まるでこちらの時空との同期が難しいかのようだ。

 しかし、1回だけ形になった。

 その絵は香月さんの絵とは違うように思えた。


「これ……野宮のみや鉄狼てつろうさんの絵……?」


 特徴的な野宮さんの絵が一瞬浮かび上がり消えていった。

 野宮鉄狼さんとは、サークルソフトウェアという会社でキャラデザやディレクターなどを担当するゲームクリエイターだ。

 まさか、サークルソフトウェアがフリーメーソンに関わっているのか……?

 そんな疑念が浮かび上がり、俺は涙を止めた。


『亜翠さん……香月さんは……?』


 聞くと、亜翠さんは『ごめん、私にも分からない。他の時空に飛ばされてしまったのかもって言ってる』と言葉を返す。

 俺はここでどれだけフリーメーソンのことを言ってやろうかと思ったが、しかし止めた。

 まだ証拠が足りない。

 それでも香月さんが心配だった俺。

 だから一言、「香月伊緒奈を小日向拓也が守る!」という絶対命令を発した。

 そして続けて、「香月伊緒奈をこっちの世界に量子テレポートさせる」と念の為に言った。

 そうして自室を出て1階へ降りると、夕ご飯を食べた。


 夕飯を食べ終え、自室へ戻ると、暗闇の中再びベッドに仰向けになる俺。

 すると矢張さんが俺に念話をしてきた。


『たっくん、私、伊緒奈ちゃんを助けに行こうと思うの』

『それは……本気ですか?』


 矢張さんもフリーメーソンに言いくるめられてしまったのかもしれない。

 そう思った俺だったが、しかし香月さんが心配なのは確かだった。


『うん。だから今からでもまた同じことをやって貰ってもいいかな?』

『それは……同じようにできるかは分かりませんけど、できる限りでよければ……』

『じゃあお願い。それと私、同時にたっくんもこっちの世界に量子テレポートできないか試してみるつもり』


 矢張さんがいつになく真剣な声色でそう言った。

 そうして俺のハイパーベンチレーション第二弾が始まった。

 またもや亜翠さんがオペレータだ。

 2回目のハイパーベンチレーションはそれはもう辛かった。

 辛くて辛くて、でも香月さんのように矢張さんまで失うのはもっと辛くて、俺は全力でことにあたった。それは地獄だった。


『あともうちょっとで、操ちゃんの転送が終わるから! そうしたらたっくんもこっちの世界に量子テレポート開始するからね!』


 亜翠さんの一言に懸命に上体起こしを頑張る俺。無論、深呼吸もかかさない。


『操ちゃんのテレポートが終わるよたっくん! また同じように操ちゃんにエネルギーを送ってあげて!』


 言われ、またしても右隣に見える酸素カプセルのような量子テレポーターに触れようとするも壁が俺を阻んだ。

 また失敗か。そう思った俺だったが、しかし「矢張操をこっちの世界に量子テレポートさせる!」と絶対命令を挟む。


『たっくん! 操ちゃんのテレポートが終わったよ! 続けてたっくんの量子テレポート始めるよ!』


 そんな亜翠さんの一言を聞いてか聞かずか、俺が安心して体をベッドの上に預けると、全身の痙攣が始まった。


「これはまさか量子テレポート?」


 無論、ただのハイパーベンチレーションの影響による全身痙攣を引き起こした可能性もあったが、俺は一縷の望みにかけてみたいと思った。

 このまま全身痙攣で心臓発作でも起こせば死んでしまうかもしれない。

 だが、矢張さんの量子テレポートは今度こそ成功させたのだという安心感が、俺の死への恐怖を薄れさせていた。

 俺は目を閉じた。そうして……意識を失った。

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