●02 SIDE:クリスティアEXM4506NI

『走る』のは初体験だった。

 

「はぁっ……はぁっ……」


 勿論、情報としては『走る』という身体運用を問題なく理解できていた。

 脚を、歩く事よりも早く動かす。

 そうする事で、より速く移動する。

 ただそれだけの事だ。

 それ以上の情報は与えられてはいなかった。


 実際の行動として自分の身体でそれを顕した際には、理論と実践にどれ程の差があるのかという事実を、私は学習する事になった。

 私の身体能力が、標準的な人間のそれよりも、著しく劣っているという事もあった、とも推測できる。筋力は勿論だが神経系の伝達に何らかの問題があった可能性もある。

 検証は後まわしにすべきだろう。


「……あうっ!?」


 私は思わず悲鳴を上げた。

 いや。悲しくは無いから、これは苦鳴というべきか。

 今、事実として私は、脚を素早く交互に出すという単純な行為に失敗して、その場に転倒したのだ。

 肉体に走る強い神経系の電気信号。痛い。そう。これは痛い。

 痛みは忌むべき『死』を予感させる。

 予測ではなく予感。確定性の低い情報。


「――クリス!?」


 アマネが立ち止まって振り返り、私の名を呼んでくる。


 クリス。クリスティアEXM4506NI。

 クリスティア系列の〈聖母〉第四世代型実験体4506番特殊個体。

 それが私の名。およそ人間に与えられる名前ではないのだと、アマネに教わるまで知る事も無かった――それが私。


「大丈夫?」

「大丈夫だと推測します」


 私はアマネの手を掴みながら言った。


「出血はしていません。またこの通路の清掃頻度は高く、雑菌の繁殖は低レベルに抑えられて――」

「立って! 立つの! 早く!」


 アマネが必死で――そう『必死』だ――訴えてくる。

 彼女のそんな様子を見ていると、私の意識の片隅で名状し難い何かがざわめくのを感じる。

 以前は感じる事も無かったソレを得た事が、私にとって良い事なのか、悪い事なのかは、未だ判別がつかない。よく分からない。そう。分からない。

 私は分からない。何も分かっていない。

 なぜなら私は――


「クリス! さあ――」

『――警告』


 声がした。恐らくは合成音声。

 壁、床、そして天上全体が振動して音を出しているのだ。真秀市の建材には可変型の微細機械ナノマシンが使われている。必要に応じて各種回路を形成し、壁が、床が、天井が、即座に求められた機能を果たす。


『ドクター・カスガベ。貴女の行動は職務上の守秘義務違反であり、幾つかの職務法令、及び真秀市特別法に抵触する犯罪行為です』


 長く白い廊下のあちらこちらが開く。

 そこから姿を現すのはやはり白い機体の小型擬人機械。乳幼児に酷似した機体に四基の電磁場浮遊翼イオノクラフトを備えた形状。

 通称〈ケルビム〉――真秀市の治安維持のために投入される〈オラクル〉の物理作業端末ドローン

 

『速やかに行動を中止し当方の指示に従ってください』


 市民感情を考慮した結果、真秀市民からは『愛らしい』と評される事も多い外装。

 しかし非殺傷兵器を複数内臓しており、非武装の人間が戦闘行為に及んでも勝てる可能性は殆ど無い。複数となるとそれがさらに等比級数的に下がる。

 現れた〈ケルビム〉は六機。

 勿論、私にもアマネにも勝てる可能性は事実上、零だ。


『繰り返します。ドクター・カスガベ。貴女の行動は職務上の守秘義務違反であり、幾つかの――』


「クリス! 逃げなさい! 逃げて――」


 私と〈ケルビム〉の間に割り込んで叫ぶアマネ。

 彼女は私よりも身体が大きい。だから私を〈ケルビム〉の非殺傷兵器から守る盾として自分自身を使おうという考えなのだろう。

 

「でもアマネ――」

「思い出しなさい! 第六〈聖杯〉実験室で何を見たか!」

「…………!」


 それはまるで。


「…………ッ! …………ッ!」


 非合理な表現である事を覚悟するならば、まるで『天啓』のように、私の意識に閃いた。

 映像記憶。私の実体験による学習情報。

 神経電流学習機ティーチャーによる脳への入力ではない『生の』情報。


 思い出す。私は思い出す。

 

 虚ろな顔をしたもう一人の『私』が用途不明の大きな機械装置に接続されている。

 口にも鼻にも耳にも。下半身にも。脇腹にも。胸にも。

 何本もの導管チューブが繋がれていて、一部、髪を剃られた頭部にも、十三本の探査針プローブが繋がれていて。

 眼は何処にも焦点を合わせず。口の端からは唾液が垂れ流し。

 語らず。歌わず。嘆かず。怒らず。

ただぴくりぴくりと……時折、痙攣するだけの、肉。


「あっ……あっ…………」


 そこにいるのは未来の私。

 いつか私がなるであろう私。

 かつてはそんな未来に対して何の感情も湧かなかった。

 私は――私も、機械に繋がれてこそいなかったが、ただ呼吸して脈動するだけの、思考すら断片的で、生理的な反射が大半の、肉でしかなかったから。

 思考も感情も無いただの肉が、肉として扱われる事に不満など、覚えるはずもない。

 実際、あそこに繋がれていた『私』の顔には何の感情も生じてはいないように見えた。


 けれど――


『地獄に生まれたものはそこを地獄と思う事すらない』

 

 そう私に、学習機ではなく自分の言葉で、自分の声で、教えたのはアマネだ。

 私は自分がただの肉ではないと知った。

 私は自分がいるこの場が『地獄』なのだと認識してしまった。

 私は――


「……いや……だ……」


 それは殆ど無意識のうちに口をついて出た否定の言葉。

 拒否を希望する。

 あんな風になりたくない。

 あんな未来に辿り着きたくない。


「行って、行きなさい!」


 アマネが立ち上がった私の背中を押してきた。


「逃げなさい、逃げられるところまで!」

「アマネは――」

「私は大丈夫だから! 私は少なくとも殺される事はないから!」


 私はアマネをその場に残して歩き出す。

 歩いて。歩いて。これでは遅いような気がして。

 少しずつ脚の動きを早めて。また転びそうになったので、手を交互に振る事で身体の平衡を確保しながら、私は、走り出す。


 最優先でアマネの捕獲を命じられているからだろう。

〈ケルビム〉はアマネを無視して私を追ってくる事は無かった。

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