第24話 誤算

 時刻は少し遡り、アドルフに視点を戻す。





 バーバラと別れた俺たちは彼女の無事を祈りながらルーモンドの街へと歩いていた。


 雨の勢いは増すばかりで、視界から新たな情報はほとんど得られない。耳に聞こえるのも騒音だけ。自然がまかりよこした大豪雨は、俺たちに負荷による疲れと先の見えない不安を強いている。


 会話も一苦労なので無言のまま街にたどり着いた。しかし、前が見えない声が聞こえないでは話にならない。俺は無理やり顔を上げ、額の前に手で屋根を作って視界を確保し、人の営み以外は無視するよう耳をすませた。


 街は騒然としている。鳴り止まない雨音の中、領民たちが恐怖を押し付け合うように怒鳴り合って会話している。避難するのかしないのか。いつ避難すればいいのか。

 会話の内容はこれから先どうすればいいか、ということだけだった。適切な指示で安心を与えることが必要だ。


「広場で話す。領民を集められるか」


「かしこまりました。内政官から声かけをします」


「近場の兵士にも手伝ってもらうよ」


 アイサとラパーマが大声で人を集め始めた。


 広場にある大型電柱サイズの魔晶石は淡く赤い光を纏っており、大雨の中にあっても異彩を放っている。

 ここにあるのはアルファとベータだ。ガンマはバーバラがバームロへ持参した。

 狙い通りの成果を発揮してバームロを守って欲しい。そうでなくても、バーバラだけは無事に帰してほしいと切に願う。


(こんなにも誰かを心配するのは初めてだな)


 現代では感じたことのない気持ちだ。いや、それは自分が危険な立ち位置で当事者になったことがないだけだ。あちらの世界でも災害が起きれば死者や行方不明者は発生していたが、俺の周りで悲惨な出来事は起きたことがなかった。

 今まで自分は危機対応のスペシャリストだと思っていたが、この気持ちの理解も無しによくそんな自負をしていたものだ。焦燥感があるのとないのとで、思考の速度、緻密さ、仮説の検証回数は雲泥の差だ。

 今自分はできるだけ多くのシチュエーションを想定し、みんなに火の粉が降りかからないよう画策している。


 こういう修羅場を経験してようやく、物事を極めるための入口に立つことができるのだろうと思った。


「集められるだけの領民を集めました」


 アイサの冷静な声を耳にして、思考の沼にはまっていた俺は急速に意識を覚醒させた。


 見れば、広場には多くの領民が集まっている。ベンチャー企業で全社員にプレゼンをしたときよりもその人数は多い。


 目の前にいる人たちは俺の言葉を真に必要としていて、俺が真に言葉を届けたい人たちだ。ルールや規則や役割によって課せられた仕事の関係者ではなく、これから先を一緒に生きていきたい人たちだった。


「領主アドルフから領民へ! 状況を説明し、指示を出す! 安心して落ち着いて聞いてくれ!」


 俺はできる限りの大声を出した。

 人の声が静まり帰り、雨が地面を打つ音だけが広場を支配する。


「グロンマ川の水位が高くなっている。川が氾濫するのは時間の問題だ。その前に領民には避難をしてほしい。これは領主から領民への避難指示だ」


 俺の言葉が浸透するまで、いくばくかの時間を待ち、言葉を続ける。


「絶望することはない。今日まで、多くの領民が洪水に備えて準備をしてきた。兵士が強力な堤防を作り、職人が堤防を強化する手法を編み出した。いつまでも自然相手に怯えることはない」


 領民と俺との間にある情報格差を埋める。

 そうすれば、みんなが俺と同等の自信を持つことができるはずだ。


「絶望を吹き飛ばす最善の方法は、立ち向かうことだ。兵士は氾濫と戦うために同行してほしい。職人は兵士が力を発揮できるように支援をしてほしい。魔力のある者は力を貸してほしい。そうでない者は、彼らが心置きなく全力を振るえるよう安全圏へ向かってほしい」


 領民の行動を全て前向きに置き換える。

 俺たちは何も考えずに行動をしているのではない。それぞれが最善を尽くしている。それを後ろ向きに捉えることはない。


「俺たちはただ逃げ惑うんじゃない。グロンマ川に立ち向かい、超えるんだ。家が壊され、家族を浚われ、未来を奪われる。そんな悲劇は今日で断ち切ろう。そして、幸福な未来を目指すことを始めよう」


 声量を振り絞るため、俺は深く息を吸った。


「さぁ。立ち向かうぞ!」


 兵士の怒号が轟く。

 領民にどれくらい響いたかは雨でわからなかったが、見渡す限りどの顔にも勇気が示されている。

 少しは不安を払拭できただろう。


 後ろにいるクリスティーナは決意に満ちた表情をしている。俺は腰を屈めて彼女と目線を合わせた。


「この場は任せる」


 クリスティーナは力強く頷いた。


 成長したものだ。自分には力がないと嘆いていた少女は、今は自分のやるべきことを見つけ、自分にしかできないことまで持っているのだ。


「帰ったら、出汁の効いたお茶漬けを食べさせてくれ」


「……はい! ご武運を!」


 軽く抱擁を交わし、俺は入口広場を後にする。

 次にここに来るときは、凱旋の時だ。


「ラパーマ。可動式堤防二機を川へ運んでくれ」


「了解。一番隊と二番隊で運搬! 三番隊は街で防衛任務に当たれ!」


 兵士たちが散り散りになる。

 俺は矢継ぎ早に指示を出した。


「アイサ。工房の腕利きの職人を連れていこう。エイダも含んでくれ」


「かしこまりました」


 俺が街ですべきことは終えた。

 演説の熱気冷めやらぬ広場を眺め、勇気をもらう。

 そうして俺たちは街を出たのだった。





 グロンマ川にやってきたとき、水位レベルは八に達していた。

 川はじきに氾濫し、対応を怠れば大洪水を引き起こす。自然の猛威が街を襲うことを、絶対に阻止しなければならない。


 俺たちがいるのは、前回堤防が決壊した地域だ。

 この場所は上流から下流に向けてゆるやかな勾配が続いている。しかも右から左へカーブしているため、水流が流れを切り替えるべく大きなエネルギーを堤防へぶつけており、堤防防衛の難所にあたる。

 先の洪水では堤防が衝撃に耐えきれず決壊した。流れ込んだ水は農業区を水たまりにし、それだけでは飽き足らず街の文化を押しつぶしていった。


 堤防は修復済みだが、そのほとんどは水に浸かっていてどれほど機能してくれるのか、現状推し量ることはできない。ここからわかる過去との相違点は堤防に魔導線が繋がっていることだ。

 だが、これさえあれば古代から伝わる強力な魔法が俺たちに味方をしてくれる。


「ラパーマ。一号機をグロンマ川を囲うように設置してくれ。二号機は少し離れたところで保険として待機だ」


「二号機も下流側に並べなくていい?」


「あぁ。下流側の直線部は前回岸の堤防だけで耐えたんだ。魔法で強化を追加してやればまず壊されることはない。それよりも、洪水に耐えた実績がないこの湾曲部に集中したい」


「了解。一番隊は一号機を移動。二番隊は二号機の周りで待機」


 ラパーマの指示に従い、兵士たちが可動式堤防を転がした。ぬかるむ地面に車輪が取られ、その作業は困難を極めている。

 次があれば、何かしら車輪への工夫を考えたいところだ。


「水位レベル、まもなく九です!」


 兵士の報告を聞き、もはや一刻の猶予もないことを理解した。


「アイサ。アルファからの魔導線を一号機と二号機に接続。ベータは待機だ」


 工房の職人たちが街から引いてきた魔導線を可動式堤防に接続していく。

 この魔導線が生命線だ。街のみんながこれまで蓄えてきた魔力と今まさに送り届けてくれる魔力はここから供給されている。

 魔導線は淡く赤く輝いている。そこから領民の、そしてクリスティーナの想いを感じた俺はより一層気を引き締めた。


 一号機に最後の魔導線が接続され、戦う準備は整った。

 俺は一号機の側面を駆け上がり、家屋二階分はある高さに到達する。高所からはグロンマ川の状況が良く見える。


 上流からは水だけでなく、木々や岩々が高速で流されている。ときどき水の流れがうねりを伴って合流し、流木を簡単に飲み込む波を生んでいる。まるで水の乱闘だ。怒り猛った多勢の水が、全てを巻き込み濁流となって流れている。


 川の流れの途中には、人工の支流がある。この支流は農業地の用水路に向かって流れるものだ。支流は川幅の三分の一もない細さだが、本来の流れとは異なる方向にあるためまだ溢れてはいない。とはいえ、こちらも時間の問題だ。


 振り返ると、ラパーマが心配そうに俺を見上げているのがわかった。

 もともとラパーマたちは俺が一号機に上って指示出しをすることに反対していた。


「場所としては危険だが、ここが一番の司令塔だからな……」


 指示を出すには状況を把握することが必要だ。ただでさえ降り注ぐ雨粒で視界が悪いのだから、俯瞰しての景色は是が非でも手に入れたかった。

 全体の状況をつまびらかにした俺は、指示を放った。


「作戦を開始する! バイパス一番から三番の解放を準備!」


「了解! 一番隊、バイパス回路で待機!」


 バイパスは用水路の下流側に設けた危機時の水流の逃げ道、いわゆる放水路だ。

 下流側にあるバームロ領が川の水を得ることを妨害しないよう普段は閉じている。出口は海に繋げたいところだったが、距離があるため断念し、街に影響がない土地へ流すようにした。


 その新設したバイパスは、今こそ真価を発揮するときだった。


「バイパス解放!」


 ガコン!


 身体強化した兵士たちによって支流からバイパスへの流入を防ぐ楔が外された。

 人がすっぽり収まる大きさのトンネル状の流路に、全てを飲み込んできた水が強引に侵入する。

 その様は圧巻だった。

 水流などもはや見飽きたと思っていたが、ゼロから始まったバイパスへの濁流は凄まじい迫力だった。改めて水の恐ろしさを思い知る。


「バイパスから離れろ! 一号機をアルファで強化する準備をしろ!」


 支流への流れが発生したことで、若干だが水かさが減っている。

 だが、バイパスの主目的はそれではなく、水の勢いを衰えさせることだ。下流に向かって流れる湾曲部の手前で、大質量の水による堤防への衝撃を和らげることを狙っている。

 どうやらその効果はありそうだ。俺が立つ一号機に打ち付ける水流が弱まったのを感じた。バイパスもいつかは満杯になってしまうが、堤防がダメージを受ける時間を短くしてくれるだろう。


 そう、これは時間との戦いだ。雨が止むまでの間、しのぎ切ることができれば俺たちの勝ちだ。


「まだ休憩だ! 魔力を温存しろ!」


 蓄積した魔力には限りがある。アルファとオメガには一週間かけて有志が魔力を貯め続けたが、川の堤防と一号機および二号機に魔法を行使し続けるには決して余裕があるとは言えない。

 水の勢いが弱いうちは素の状態で耐えきり、必要に応じて魔法を使い、雨が止むまで繰り返す。これが俺たちが考えた洪水との戦い方だった。


 雨の勢いはまだ弱まっていない。せっかく水を抜いたが、またグロンマ川が氾濫しそうだ。これ以上は素の堤防には負担が大きいだろう。


「バイパスを全開放だ! さらに魔法を使う! 堤防と一号機を強化!」


 兵士たちが魔導線を握りしめた。

 魔導線がひときわ赤く輝き、強化魔法を伝達していく。

 岸側の堤防と一号機に強化が施された。


「耐えてくれ……」


 後は祈りを捧げるのみ。大丈夫だ。強化魔法は他の魔法と違い、外界に影響を生まない分、効果は劇的だ。きっと堤防が水流に打ち勝つ。


 そして、岸からあふれた水が一号機に衝突した。


 俺の目から見て、それは無意味な攻撃だった。魔力が通った一号機は水の暴力を受けても一欠けすらしていない。

 対して、遠い向こう岸には大地が削られる光景が広がっている。無防備な姿ではああなるのだ。魔力で強化した堤防の有効性は実証された。


「早く止んでくれ……!」


 無慈悲に大粒の水を垂らし続ける天に向かって懇願する。あとは、これさえなくなればルーモンドの勝利だ。これまでの努力が報われる。アドルフの無念も晴らすことができる。


 しかし、黒雨はそのどす黒さを讃えたまま空に鎮座している。まるで静止画のようだ。巨大でのろのろと動く入道雲は、もはやその場から動きを止めたようにさえ見える。


 ゴオォォォン!


 突如生まれた轟音に目を向けると、バイパスが崩壊していた。


「くっ! バイパスまで強化が必要だったか!」


 盲点を突かれた。

 想定外の事態に兵士たちが慌てふためいている。何人かはその波に飲まれ、バイパスの下流に流れていってしまった。


「まずい! バイパスは放棄だ! 全員離れろ!」


 バイパスによる時間稼ぎは完了している。捨ててしまっても構わない。そんなことより人命だ。


 バイパスが機能しなくなったことで、一号機を打ち付ける水の威力が強まった。俺が立っている一号機の足場が揺らいでいる。


「っ!」


 バランスを崩して倒れそうになったが、前のめりになって堪えた。


 だが、それは誤った判断だった。俺は背面側、みんながいる側に倒れ込むべきだった。


「うわっ!」


 一号機にぶつかった水の奔流が高波となって舞い上がった。


 俺の目前に水の塊が迫っている。


 気づいたときには方向感覚を失っていた。

 上も下もわからない。

 川に落ちたのだ。


 自分の身体を思い通りに動かすことができない。せめて何かを掴まなければと手指に意識を集中する。


 それぐらいしか、できることがなかった。

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