第20話 心理戦
「お約束は覚えておられますか?」
にわかに、シルヴィアが俺を見ていた。
栗色のミディアムヘアを編み込みにし、少し垂れた目とにこやかな表情が特徴的な愛嬌のある女性だ。
年はアドルフより少し上か。今はグロンマ川の視察帰りのためにフリルのついたシャツと緑色のズボン姿だ。
言われた言葉の真意を考える。ビジネスの話は終わっているし、それ以外のことに違いない。
具体的には、デートの約束だろう。
「もちろんです。その日が楽しみでなりません」
俺が営業スマイルを浮かべると、シルヴィアは嬉しそうに笑った。
バーバラの視線を感じる気がするが、気のせいだと思おう。
「私が愛するバームロの街で、ぜひ一緒にソフトクリームを食べましょう」
この世界のソフトクリームは俺たちのイメージと違って牛乳を凍らせただけのものだが、素朴で美味い。
「良いですね。甘いものは好物です」
「それは良かったわ。他にもカステラやドーナツも美味しいの。全部ご紹介しますね」
「領主のお墨付きともあれば、今から涎が出そうですよ」
「まぁ! でも、そんな大それたものではありませんの。私が幼少から頂いている懐かしいお菓子なのよ」
シルヴィアはどこか遠い目をしている。
元は中年の俺からすればその年で懐かしいというのは早い気もするが、おそらく彼女の人生はそれはもう駆け足に進んでいたのだろう。
「今は父も母も隠居して毎日お顔を合わせることはありませんが、昔は厳しく教育をされました。家庭教師も何人もいて、自由なんてなかったもの」
領主の娘らしい英才教育を施されていたようだ。
アドルフやクリスティーナも父母が健在なうちはそれなりに躾がなされていたようだったし、この世界ではこれが普通なのだ。
「あ、でも悲観しているのではないわ。一般家庭だと里子に出されることも多いことを考えれば、両親と一緒にいられて恵まれた環境だった」
この世界は身分による収入の差が顕著にある。
今いるほとんどの大人は両親ではなく乳母によって育てられている。低収入の親が仕事を継続して生活費を得るための措置だ。一般人は親子が共に過ごす時間は少ない。
領主家のように財力があれば、親が自ら教育し、乳母などにも面倒をみさせるという育て方ができる。金で時間が買えるのだ。
子供にとってどちらが良いか、一般的には後者と言えるだろう。
「自分が恵まれている分、頑張らないと気が済まなかったの。疲れた時にはよく甘味を頂いていたわ。だから私はバームロのお菓子に詳しくて、自分で作ることもできるんですよ」
「それはすごい。菓子作りは繊細な作業だと聞いたことがあります。シルヴィア卿は努力家ですね」
「ふふ。仰る通り甘味を作るのは、それは大変な工程があります。バームロを支えているのは研鑽を積み続けている人たちです。どこで何を頂いても、きっとご満足頂けますわ」
胸を張ったシルヴィアの表情は誇らしげだ。俺も負けてはいられない。
「私は末永く、この伝統を守っていきたい。だから、アドルフ卿が欲しいわ」
「…はい?」
対抗心でルーモンドの開発意欲を燃やし始めていたところに、急に冷や水を浴びせられた。
思わず生返事をする俺に向けて、シルヴィアはぴんと指を立てた。
「領主には跡継ぎが必要でしょう? それは優秀であるべきよ。アドルフ卿のように優秀な方の遺伝子は、是非バームロに欲しいの。もちろん建前だけじゃない。私は誰かのために努力をし続けられる殿方が大変好みです」
やたら捲し立てる彼女に、俺は口を開けて固まった。
頭の中は真っ白で言うべき言葉が見つからない。
「シルヴィア様。アドルフ様が困っておられますので、その辺りでお止めください」
黙って俺に付き従っていたバーバラが、俺とシルヴィアの間に立ちはだかった。
シルヴィアはむっとしたようだった。
「あら、バーバラ様。ただの雑談でアドルフ様が本気でお困りになられるはずありませんわ」
彼女は無理やりバーバラを押しのけて俺の腕を取り、バーバラに向かって言ってのけた。
「それに、男性の寵愛は広く分かち合うものではなくて?」
押しやられたバーバラも負けてはいなかった。
「ルーモンド領内ではそのようにします。その上で、余力があればバームロ領にも配分することを考えましょう」
その余力やら配分やらは空の下で言うことではないし、ましてや俺の意見などないかのようだが、確かに今意見することはないので心の中だけで抗議した。
「では、ルーモンド領とバームロで合併するのはいかがかしら。買収して頂くのでも構いません」
「生憎ですが、ルーモンドは十分に自立しています」
「バームロが加わった方がより豊かになるのでは?」
「より豊かになれるかどうか、持ち帰って検討します」
こんな道端で話していいことでは全くないから冗談のはずだが、妙に気迫のこもった応酬だった。
しかし、冷静に考えてみるとかなり有りだな。今後、ルーモンドが発展したらバームロは良いベッドタウンになるかもしれない。これだけ風光明媚で美食があれば、バームロに住んでルーモンドへ仕事に通う人生計画はいつか流行るかもしれない。
俺は現実逃避に余念がなかった。考えに耽ることで終始無言を貫いた。
気づけば、いつの間にかシルヴィアに笑顔で見送られていた。
帰途でバーバラは不機嫌だった。
カタコトと走る馬車の中には俺たち二人しかいないため、とても気まずい。
往路は雰囲気が良かった気がする。なのに復路のこれは一体どういうことなのか。
頭が痛い。
このテーマは一旦棚上げしようと心に決めた。
ふと見ると、対面に座るバーバラは足を組んでいる。
彼女は今日、肌にまとわりつくようなタイトなスカートをはいていた。
つまり、結構きわどい。
ダメだと思いつつも、魅惑の景色が俺を誘って止まない。
それとなく教えて正してもらった方がいいだろう。
「あー、バーバラさん」
不機嫌は継続中のようで、一瞥もくれられなかった。
「なにかしら」
「その、馬車は揺れるし危ないから、足はしっかり揃えて座っていた方がいいんじゃないかな」
「足…?」
俺の不自然な態度にようやく気づいたのか、バーバラは自分の足元に目をやった。
「あ! コ、コラッ! 見たのね!」
「いやいや見てない! 危ないから指摘したんだ!」
バーバラは怒ったが、一転してすっと目を細め俺に探るような目を向けた。
その雰囲気の変わりように俺は狼狽えた。
「な、なんだ?」
「こういうの、好きなの?」
バーバラはこれ見よがしに細くて長い脚を組みなおした。
今度は俺が慌てた。
「いや、あのですね。それはバーバラが恥ずかしいんじゃないのか」
「そうよ」
「じゃあ足はきちんと揃えてお座り頂くのはどうかと…」
丁寧な説明口調の俺の言い分を、バーバラは言葉を被せて遮った。
「これは高度な心理戦なの」
「え、心理戦?」
「あなたの欲情と私の羞恥心のどちらが先に負けるかのね」
「それは誰も得をしないんじゃないか」
「うまくいけば、あの女狐への意趣返しになるわ」
シルヴィアのことを指しているとはわかるが、詮索はするまい。
バーバラは何やら勝ち誇ったような顔をしている。肉食獣に舌なめずりされる草食獣のような気分だ。
馬車は館にたどり着くまで心理戦の戦場となった。
時間切れにより勝者も敗者も出なかったことは幸いだったと思う。
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