第52話 猫のお味方
学校を辞めて旱魃による被害を減らすために水源を探しに行こうと準備を終え、今のうちにこの本だけは読んでおこうと思った小説を読んでいたところ、猫が小走りでやってきた。
また可愛らしい恰好で来たことだ。学校の制服姿と異なり、随分とひらひらしている。さながら乙姫か天女の衣のようなのだが、動きは二天一流特有の、下半身がまるで揺らがないものだった。それをひらひらで隠して、年頃の娘のように見せている。なるほど。これはこれで見事な技だろう。
おかげで一瞬、誰だか分らなかった。髪を下ろしていたせいもあろう。
しかし顔立ちは、見知ったそれだった。
「ミヤモト嬢?」
「はい。そうです、別の人に見えましたか」
まさにその通りなのだが、正直に言うのは気が引けた。
「制服姿でないと、まぶしく見えてな」
そしてこれも、嘘ではない。素直な感想だ。
ミヤモト嬢は立場上、普段から褒められ慣れているだろうに、生まれて初めて褒められたような顔をして横を向いている。
「ええと、褒められても何も出ませんからね」
うっかり笑いそうになるのを抑えて、ちょうどよい機会なので今生の別れを告げようと居住まいを正した。
「褒めたつもりもないのだが。それでこんな時間になんだろう」
「相談があるのですが、その前に」
ミヤモト嬢は距離感などないかのように近づいてきた。
「先輩はもっと本能や野生を大事にすべきです」
うん。意味が分からない。人は野生から離れて人になったというのに。いや猫か。猫が人間に、お前に野生が足りないと説教するのはまあ、なんとなく分かる。きっと猫からすれば、私は餌を自分で取れないような、そういう頼りないものに見えたのだろう。猫の尺度で見ればそうだな。
ミヤモト嬢はにゃあにゃあと抗議の声をあげている。人語なのだが、意味不明という意味では猫の鳴き声と少しも変わらぬ。
頼りないどころか、どうも私が悪いらしい。
いや、私は別に何もしてないが?
猫という生き物には時々そういう理不尽なところがある。勝手に木の上に上がって降りれないと泣き出したあげく、助けたら怒りだすのだ。自分が可愛らしいと分かっていて我が儘放題なのだろう。
まあ、それでいいのだが。
結局のところ、私は猫が好きなのだな。自分のことが良く分かった。
それで猫ならぬミヤモト嬢はというと、私に野生に帰れなどという。
「そんな無茶な」
「無茶でもなんでも!!」
頭を撫でて額を揉みたくなるのを抑えて笑って見せる。まあ猫ではなく人間の道理も少しは覚えて貰おうと思った。ここから先、猫だからって許すだけの人々だけではないだろうから。そう、これを餞別としよう。さすれば少しは、真面目に受け取ってくれよう。
だが、口調は優しく、優しく。
「そうだなあ。しかし考えてもみたまえ。男が野生になるというのはこういう、まあこの状況ではあまりよろしくない」
猫は行儀よく座って言った。
「大丈夫です。私は強いので」
「そういうところだぞ」
女に言い寄られたことなど前世から数えて一度もないので、うっかり表情が崩れるかと思った。勘違いさせるようなことを言うんだから。
「まったく。それで相談とは」
私は話題を変えることにした。餞別は最初に用意していたものにしよう。ところがミヤモト嬢は、粘った。
「話題を変えるのは良くないと思います」
唇でも奪えば、少しは考え直すだろうか。いや、私が斬られて終わるだけだな。そうでなくても彼女が傷つきそうだ。
やはり、ここはもう旱魃など知らんといって猫と一緒に遊ぼうか。妻に迎えるために努力してもいい。警告も献策もしたのだから、もう知らんでも許されよう。
いや、ダメだな。私は誘惑に後ろ髪を引かれながら、自分が仏になれなかった事をどう伝えようか考えて、あいまいにごまかした。
「話題を変えないとせっかく決めたことが台無しになりそうなんだよ。それに」
「それに?」
「貴族令嬢が供回りをつけずに小走りでやってくるような要件だ。余程のことだろう。御家のことなんだろう?」
「先輩は時々貴族みたいなことを言いますね」
「まあ、こっちの作法は知らないのだが」
それでミヤモト嬢は事情を話し始めた。
意に沿わぬ婚姻と、おそらくはそれでずっと後悔をし続けていたであろう、ミヤモト嬢の母の反乱。江戸のころと変わらぬ、お家騒動だった。
幕府でなくとも家の存立に女が絡んだと知られれば公儀から取りつぶしされるのは目に見えているので、表向きは別の理由になろうが、そういう話はいくらでもあった。
かつての我が家でも、有馬と名乗る前、赤松家の頃から掃いて捨てるほどある。つまりそれくらい、ありふれた悲劇ではあるのだ。
そしてこの場合、男が悪い。夫として家主として、最低限の義務すら果たさないからそうなる。豊臣がそうであった。今世ではどうだろうか。やはり同じに思える。
「先輩はどう思いますか」
「心情的にはご母堂の味方だけどね」
「そ、それはどういう!?」
「おそらく、君の幸せにつながらないような婚姻話が出て、家としてはそれを飲む話になりかけたのではないかな」
すると、ミヤモト嬢はうずくまって小さく震えた。江戸のころと比べて世が発展しているせいか、今世は大人になるまでに時間がかかる。前世の常識で言えば良家の子女として、十五でその反応はないだろうと思わなくもないが、今世で十五はまだまだ子供なのだ。きっと数百年もすれば発展が進みすぎて三十でも小僧扱いになるに違いない。
よし、年端もいかぬ子相手と思えば話は早い。私は公儀の真似なんぞせずに大名としてお味方することにした。
「家が割れるというのはつらいものだ。ご母堂の条件はミヤモト嬢の婚姻が決まるまで、というのだから、とりあえず決めてしまって、すぐにご母堂を安全な場所へ移送するのがいいだろうな。前世では尼寺だったが、はて今世ではどうか……」
「婚姻……」
ミヤモト嬢は呟くと、涙でうるんだ瞳を向けた。藁にも縋るとはまさにこれだろう。
よし私は、藁よりはマシな何かになるぞ。今そう決めた。
「なに、本当に決めてしまわないでもいいのだ。偽装でいい。こう、心に決めた人物がいるとか。適当な身代わりでも用意すればいい」
「先輩が……なってくれます?」
そこからしばらく私の記憶はない。それは不意打ちだった。
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