マルメゾンのばら

四谷軒

1(アン) ローズの悲歎(ひたん)


 ローズは歯噛みしていた、悔しさに。

 ついで泣き出した、恐ろしさに。


「…………」


 それを眺めていたジョゼフ・フーシェは、しばらく黙っていたが、やがてため息を洩らした。


「……で、どうなさりたいのです、マダム?」


「警察卿、おお警察卿、どうかわたしを救ってください」


 そこで警察卿フーシェは、またひとつため息を洩らした。


「救う、というのはどういう意味ですかな、マダム」


「わかっておりましょうに……妾は、このままでは夫に殺されます」


 ローズは卓上に置いてある新聞を指差す。

 その新聞には見出しにこう記されていた。


「エジプト遠征中のナポレオン・ボナパルト将軍、妻を寝取られる」


 見出しの下には、ナポレオン本人が書いた、妻の不義を責める手紙の内容が掲載されていた。

 そう、ナポレオンから「ジョゼフィーヌ」と呼ばれていたローズは、ナポレオンと結婚したその時から、九歳年下の美貌の騎兵大尉イッポリット・シャルルとの浮気を重ねていた。

 それどころか、イッポリット以外の男性とも逢瀬を重ね、挙句の果てに、ナポレオンとの家のほかに、その逢瀬を楽しむ「別宅」として、パリ郊外、マルメゾン城を購入していた。しかも、それはナポレオンの「新居」であると、城の持ち主に嘘を言って。

 さらに言うと、何万フランもの金銭かねを使って。

 このタイミングで、ナポレオンがローズへ向けた手紙を、よりによって、ホレーショ・ネルソンという英国海軍の提督の手に渡ってしまう。当時、地中海の制海権はイギリスにあったためである。

 ネルソンはそれを新聞に掲載することを思いつき――そして、今に至る。


 時に、革命暦八年(西暦一七九九年)。

 他ならぬナポレオン・ボナパルトによる権力奪取――霧月ブリュメール十八日のクーデターまで、あと少しのことであった。



 ローズ、すなわちマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリは最初にド・ボアルネ子爵と結婚し、その後別れ、ポール・バラスという男と愛人関係になった。

 バラスはフランス総裁政府の総裁のひとりであり、女と金銭に目がなかった。

 このバラスを軍事面で支えていたのが、誰あろう、ナポレオン・ボナパルトである。

 バラスは、ナポレオンが、エキゾチックな美人であるローズにであることを知り、またローズに飽きが来ていたため、としてナポレオンと結婚するように示唆した。


「ジョゼフィーヌ、わが運命の女性よ」


 ナポレオンはローズをそう呼んで求愛したが、一方のローズはナポレオンをつまらない男だと思っていた。


「ただ、バラスに逆らっても何だし、ナポレオンは私の言うことなら何でも聞くから」


 ローズは友人のテレーズ・カバリュスにそう語ったという。

 実際ローズは、前述のイッポリット・シャルルを始めとして、数々の男と愛人関係を結び、大いに楽しんだという。



 ローズは薔薇色の人生を謳歌していた。

 だがその人生にも転機が訪れる。

 フランス総裁政府は、かつてロベスピエールの革命政府を倒し、葡萄月ヴァンデミエールの叛乱を制圧して、ある意味強引に成り立った政府で――そのため、人気がなかった。


「この状況を覆すには、軍事的成功が必要である」


 そう提唱したナポレオンは、イタリア遠征を敢行、成功させた。

 この成功によりもたらされた栄光、そして財貨は総裁政府を支えたが、次第に――総裁政府はナポレオンを疎ましく感じるようになる。


「ナポレオンがいると、邪魔だ」


 どこからともなくそうささやかれるようになるナポレオン。ナポレオン自身もパリと距離を置く必要を感じ、エジプト遠征を立案し、その司令官となることを求めた。


「ならば、くがいい」


 もう帰って来るなと言いたげな視線で、バラスら総裁政府の面々はナポレオンを送り出した。

 ローズはというと、「さようならオールヴォワール」のひとことだけで、特に何も手紙を送ることなどしなかった。


「……そんなことより、あの人ナポレオンがいない。妾は自由。この自由を――薔薇色の人生を謳歌しなくちゃ」

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