第2話 ルイエルド辺境伯領の革命について

 ファインスト王国。イルカディア大陸でも古い歴史を持つ王政国家であり、広大な領地と軍事力を誇る大国だ。

 大陸三大国にも数えられる巨大な国家だが、栄華の光には必ずどす黒い影というものが纏わりつくもの。それは世界に昼と夜があるように、表裏一体で然るべきなのだ。

 ある所に、辺境の地図にも無いような村を焼いて回り、村民を片っ端から奴隷として売り捌く商人がいた。

 王国においての奴隷は、その者のステータスを表す。奴隷の数は即ち無償の労働力。その数が多ければ多いほど、手掛ける産業の規模の大きさを。即ち、富を生み出す力を示しているからだ。だからこそ奴隷と言うものは、目を見張る程高値で売れる。それに、生娘は味わう事も出来る故に。

 しかしその商人はある日、屋敷の廊下内で身体中を滅多刺しにされ殺された。そしてその亡骸の傍らには、割れた皿の破片が落ちていたという。

 誰もが思った。「彼は、自らが攫った奴隷に復讐されたのだ」と。結果、奴隷として囚われていた村民は解放されることとなり、実行犯である奴隷も正体が判明せぬまま暗に見逃されることとなった。

 ある所に、王国の軍事機密を裏で他国に漏洩し、不当な賄賂を得ていた者がいた。

 その者は元々王国の出身では無いらしく、しかし武官でも高位の地位に上り詰めた彼は軍事情報という商品に目を付け、これ幸いと商売を始めたのだ。

 この漏洩による影響は大きく、ファインスト王国の軍事力を知った周辺国家はこぞって王国の領地を狙い始め、戦争の色は徐々に強まっていった。そんな状態で、むやみやたらに武官を解雇させる訳にも行かず、王国は軍に下ろす情報を制限しながら、他国との情報的な侵攻を食い止める羽目に陥ったのだ。

 しかしその武官はある日、執務室で一刀の下に両断された状態で発見された。

 犯行現場の調査の結果、愛国心溢れる軍の将校の犯行であることが判明した。彼は武官の裏のビジネスを知ってしまい、愛国心と正義感に身を委ね剣を振るってしまったのだ、と。

 王国としては僥倖であったが、表向きに武官を殺傷した将校を見逃せる筈も無く、彼は秘匿されつつの死刑が決行された。翌日、王宮前に晒されたその首は、大層満ち足りた表情であったという。

 ただ、ほぼ同時期にその武官から情報を受け取っていた各国の貴族が怪死を遂げたのは、果たして偶然だろうか。

 ある所に、王宮の正式な文書を改竄することで不当な富を得ている文官がいた。

 その者は侯爵家の出身であると同時に社交界でも広く知られており、それ故に処刑を断行してしまえばその他の貴族の反感を買い、王国のパワーバランスが崩れ兼ねない。しかしながら早く対処しなければ、王国の財政状態は危機にさらされることとなってしまう。そんな危機の中、その文官は大きなパーティーを開催した。

 パーティーは招かれた賓客の豪華さも相まって大いに盛り上がり、騒がしい夜だったという。

 しかしその夜、文官は横腹を一突きにされた状態で使用人によって発見される。そしてその傍らには、返り血に染まったメイドが慌てふためいた状態で佇んでいたという。

 そのメイドによると、彼は表向きでは貴族の鑑のような振る舞いを示してはいたが、屋敷の使用人に対しては乱暴であり、女性に対しては夜伽を強制することもあったという。

 メイドは捕らえられ、この事件は収束した。

 このパーティーの場に偶然居合わせていた赤百合、リリー・オウル・スカーレットは侯爵のことを「女を道具としか思っていない貴族の名折れ」と誹り、その卑劣さに眉を顰めたという。

 知らぬ者は、これらの事件を偶然だと言い、気にも留める事はしない。だが、知る者は慄いた。

 曰く、その者は必ず月の輝く夜に現れる。

 曰く、その者から逃げられることは無い。

 曰く、その者の正体は誰にも分からない。

 曰く、その者にとっては夜こそが生きる世界。

 曰く、これらの事件は全て王国に潜む影なる刃、「梟」によって行われたものだ。と。


「はわぁ…」


 揺れる馬車の中、鳥の羽でさえ置いた途端に沈んでしまうような柔らかな藍色の座席に座る女が、その熟れた果実のような口腔を晒し欠伸を漏らす。

 絶世の美女、等と言う言葉でも足りない程の美貌を持ち合わせたその女は、その紺碧の瞳に浮かんだ雫を初雪のように白く、細い指で拭い取る。

 たわわに実った双丘が上下し、直後女は甘える猫のような情けない声を漏らした。

 その、世界のどの音楽にも勝る鈴のような声を聞くだけで、世の男が悶絶するのを彼女は知っている。だからこそ、彼女は欠伸を衆目に晒したことは無い。

 しかしここは走る馬車の中。この場にいる彼女の声を聞くことが出来るのは、その向かいに座するプラチナブロンドの髪の男と、御者台に座る少女だけなのだから。


「寝不足か?」


 男が不機嫌そうな低音で訊ねる。その言葉に女は、少し思案顔を浮かべたままで応えた。

 女は自身の魅力に屈服しないのは最初、恋愛対象が女ではないからと考えていた。

 だが、どうやら違うらしい。彼には死別した妻がいて、それ故に女に靡かないのだそうだ。

 そう説明されても、簡単には納得出来ない。人間は、心理的なハードルを女相手には無意識的に下げる。相手が男であれば更に低く、女が美しければ尚更。

 この女程美しければ、最早ハードルは無いものと言ってもいいだろう。

 生まれてから一度も男に嫌われた事は無い。それどころか、このようにぶっきらぼうな態度を取られたことも。

 出世していく武官も、捻くれ者として有名な宰相も、この国の王でさえだ。つまり眼前の男は、たった一人の例外と言える。


「私の欠伸を聞いて、見て、出てくるのがそれ? 生殖機能死んでるんじゃない?」

「心配は杞憂だったようだな。元気そうなようで何よりだ」

「はっ、貴方男色だものね」

「違う」


 リリー・オウル・スカーレットが手に持っている本に視線を落としたまま、面白くなさそうに漏らした。

 王国でも古くから存在する格式ある侯爵家、スカーレット家の令嬢であり、その美貌は国内外問わず謳われ「赤百合」とも称されることもある。

 しかしスカーレット侯爵家はその実、諜報活動や工作を主とする、王国の表沙汰には出来ぬいわば闇であることを知る者は数少ない。スカーレット家にはそれぞれ役割があるが、リリーはその中でも、王命や、他貴族の依頼により秘密裏に依頼された人物を闇に葬る、詰まる所暗殺を担当している。これまでも幾つもの仕事をこなし、王国の為に陰で尽くして来た。

 表向きの評価は、絶世の美女にして全ての淑女の鑑。しかしその裏は、月夜に躍る孤高の猛禽、梟。

 それが、リリー・オウル・スカーレットという女である。


「確か、ハインドル伯爵だったか」


 アイビー・ベスコートが腕を組みながら、又しても脅す様なアルトを奏でた。

 リリーの仕事の補佐を担当する彼は、変装や偽装工作の達人だ。

 いくらリリーが優秀な暗殺者とは言え、たった一人で任務を遂行することは難しい。そこで、彼が一役買う事になる。

 彼は事前に得た情報を元に根回しをし、現場に予め潜入しその情報をリリーに横流しすることで、彼女の任務がスムーズに行われることをサポートする。そして彼女が仕事をこなしたその後、偽物の犯人を用意しつつ描いていたシナリオ通りに現場を整えるのだ。

 故に二人は一蓮托生。彼が仕損じれば、その分リリーに負担が掛かる。リリーが仕損じれば、その分彼の仕事が増える。だからこそリリーにとっての面倒事とは、彼にとっての面倒事でもあるのだ。

 リリーはぱたんと音を立て、愛読の本を閉じる。それは、人体の構造についての最近の研究がまとめられた論文であった。


「えぇ、私達と是非お茶会がしたいそうよ」

「裏は?」

「それは私の担当じゃないわ。プラム?」


 リリーはその最後の名の語気を強め、御者台に投げかける。アイビーもその様子に釣られるように、御者台の影に視線を向けた。御者台に座し手綱を操るプラムと呼ばれた少女は、リリーの言葉に答えるようにその頭頂部に生えたミルクブラウンの犬のものにも似た耳をぴくぴくと動かし振り向く。


「はいリリー様! お呼びでしょうか」


 客車に付けられた小さな窓を開き、くりくりとした大きなヘーゼルの瞳が覗く。緩やかなパーマが掛かったレッドブラウンのボブが、風に激しく揺られていた。

 それは、世俗では獣人と呼ばれる種族だ。頭頂部に生える大きな犬の如き耳はぴくぴくと、風に反応するように小刻みに動いている。

 獣人と言われると、王国北方でセタナ神聖皇国との戦争状態の種族を思い起こすが、プラムの出身とは全く関係無い。

 彼女の出身は王国でも西方であり、現在も何のトラブルも無く存続している。滅んだ一族の末裔、という訳でもないのだ。

 プラム。姓は無く、ただのプラムだ。

 表向きはリリー・オウル・スカーレット専属の侍女。リリーだけに仕え、着替えや茶会の準備は勿論、御者や護衛としての役目も果たしている。ただ、リリーの梟としての顔を知っていることは即ち、その素性が普通とは大きく逸れていることと同義だ。

 スカーレット侯爵家が隠し持ち、王国全土に根を広げる特殊工作部隊。通称「娘たちドーターズ」、その第二隊の副長。それが彼女の正体である。


「侯爵へ送る品はどう?」

「ラグナー侯爵ですね!? はい! 上等な葡萄酒に希少な肉、今回は美しい絵画もご用意しようかと! 侯爵はさぞお喜びになるでしょう!」

「ありがとう。その調子で頼むわね」

「お役に立てたようで何よりです! では!」


 小さな窓が閉じられ、プラムが進行方向へ向き直る。そうして再び客車の内部は、リリーとアイビーの密室となったのだ。

 つまりこの走る馬車の中、誰もこの会話を盗み聞くことは叶わない。それでも、用心はしておくべきだ。

 一般的にファインスト王国では、贈り物は贈る相手の位によって変えるのが習わし。王の親族を除いた実質的な最高位である侯爵が相手ともなるとと、贈る品も最高な品で揃える必要がある。

 なので万が一この会話を盗み聞けたとしても、怪しむような輩はいないだろう。

 この会話は、ラグナー侯爵に関する情報を記号的な表現で表している。

 上等な葡萄酒を作るには、時間と手間が大いに掛かる。この場合は表現しているのは、ラグナー侯爵を葡萄酒とした時に侯爵を形成する人達の数。端的に言うならば、彼の支配下にある人間の数を。

 例えばドラゴン。例えばシーサーペント。希少な肉を手に入れるには、類稀なる武力が必要となる。そのように、肉という表現は彼が持つ武力を。

 上等な絵画ほど、何度も試行錯誤を重ねられているものだ。今まで捨てられてきたキャンバスを考えてみれば、その絵画が今までどれだけの犠牲を経てその美しさに至ったのか想像に余りある。即ち、侯爵と裏社会との繋がりを。

 ラグナー侯爵は裏社会にも大きな影響力持ち、傭兵を私兵化することで武力も蓄えている。ラグナー公爵領は肥沃な大地が故に部下も多く、彼が及ぼす影響は表社会でも大きい。

 その事を把握したアイビーは、面倒そうにため息を零す。


「なるほど、ただのボンクラ貴族ではないという訳か」

「そうみたいね。結果待ちだけれどもしかして、仕事かもしれないわ」


 何処からともなく取り出したパイプを吹かしながら、リリーが零す。

 紫煙が漂い、虚空に溶けた。指一つ分ほど開いた窓より煙が流れ、糸を引くように馬車より漏れ出る。


「お前、人のいる場所での喫煙どうにかならんのか?」

「私の吐息よ? 瓶詰めにして値段を付けてもいいのよ?」


 そんなもの売れる訳が無いだろう。そう言いかけて、アイビーは言葉を飲み込む。心の隅で、もしかしたら物好きな貴族が買うかもしれないと思ってしまったからだ。

 そうして馬車に揺られる事暫く。馬車は無事、目的地へと辿り着く。


「お待ちしておりました。リリー・オウル・スカーレット様」


 使用人に扮したアイビーが馬車の扉を開く。同時に、絵本を広げるように目の前に色彩豊かな光景が広がった。

 それは庭園だ。

 今回の目的地はハインドル・ウェン・ラグナー侯爵領地。目的は茶会だ。だからこそ、ラグナー侯爵自慢の大庭園である。

 先にアイビーが下り、続けて降りるリリーをエスコートする。彼女の姿が馬車から出ると同時に、並び立つラグナー侯爵のメイドたちが一斉に頭を下げた。


「御機嫌よう。ラグナー伯はどちらにいらっしゃるのかしら」

「只今ご案内いたします。こちらへ」


 庭園内を歩くメイドの一人を、リリーとアイビーは追行する。

 小鳥は楽し気に歌うように囀りを響かせ、空にはちりばめたような疎らな雲が浮かんでいる。庭園の赤い薔薇は絢爛に咲き誇りその「情熱」を示し、白きクレチマスは深紅の隙間を彩るようであり「精神の美」を悟らせる。

 美しい庭園だ。さぞ庭師にも、多くの金を掛けているのだろう。

 しばらく行くと、パラソルによって日陰となった白いテーブルと二つの椅子が二人の目に映る。白い、大理石のような模様が刻まれた丸机。そしてその上には、白磁に黄金で意匠が施されたティーポットとカップ。

 席の側には幾人もの使用人が侍っており、向かいに座るのは貴族礼服に身を包んだ男。彼はこちらに気付くと同時に大仰な動作で腕を開く。貴族の男はいつもその動作をするな、とリリーがふと思ったのと同時に彼が声を発した。


「おぉ、これはこれは気高き赤百合よ。このハインドル、お待ち申しておりましたぞ」

「ふふっ、お待たせして大変申し訳ございません。改めまして、私がリリー・オウル・スカーレット。公式の場では御座いませんので、お気軽にリリーとお呼びくださいませ」


 公式の場であれば、リリーは形だけとは言えの護衛のための騎士を引き連れる。全く以て、ラグナーが害をなす存在と疑っている訳ではない。買い物では荷物を持つ使用人を、湯浴みでは身体を洗う侍女を、出かけるならば身を守る護衛を連れ歩く。それが貴族というものなのだ。

 ただ、個人的には呼ばれたくない。純度百パーセントの社交辞令である。


「では私の事はハインドルとお呼びください。私がハインドル・ウェン・ラグナーでございます。さぁ、まずはお席に」


 王国貴族の茶会は、最初は定型文のような挨拶から始まる。

 曰く、このような自然な流れで挨拶を交わす一連の所作に、劇を演じるような楽しさがあるそうだ。無論と言うべきか、リリーには一切その楽しみを見出だせてはいないが。そして、それらが終わってようやく本題に入る。


「――ハハハ、まさか赤百合とも称されるかのリリー嬢と、こうして茶を呑み合う日が来ようとは! いやはや、お噂以上に美しい。まさに貴女様は、このファインスト王国の生ける至宝ですな!」

「世辞はよして下さいハインドル卿。王国の真の宝とは私などと言う矮小な存在ではなく、国を支えてくれる民、そして彼らを纏め上げるハインドル卿のような尊き身の方々です。私如きが宝などと、重圧に耐えられる気がしませんわ」


 リリーは注がれていた紅茶に口を付けた。

 ハインドル・ウェン・ラグナー侯爵。由緒正しきラグナー侯爵家が当主だ。

 娘たちの調査結果によると、選民思想が強く高慢。男性の使用人からはその我儘で女好きの性格により、好感を抱く者はいない。女性の使用人からの評価は無論、そのさらに下だ。民からの信頼も同じだ。過去には馬車で民を轢き殺した事や、村娘を強引に攫ったこともあるようで、良い感情など無いに等しいと言っていいだろう。

 総評すれば、ファインスト王国で長く続く貴族制度に毒された、典型的で量産型の貴き身分の者、だろうか。


「流石ですな。外見だけでなく、その内面までも美しい。真の美女とは、リリー嬢のような方の事を示すのでしょうな」


 お前とは違って私はね。そう言いかけ言葉を飲み込む。


「また……ふふっ、世辞がお上手ですね。あぁ、そう言えば、ほんの気持ちですが贈り物を用意していたのです。ねぇ?」

「畏まりました。お嬢様」


 応えたのは、リリーの側に侍るその小さなミルクブラウンの髪の少女。

 彼女は声を出さず、どこかへ指示を飛ばすように手で印を作ると、いつのまにやら現れたもう一人のメイド服の少女から、絢爛な飾り付けがされた小さな箱を受け取る。

 記号的な表現とは言え、聞いている人間がいることを仮定しての会話だ。当然、葡萄酒や肉に絵画といったものは用意してある。

 ただこれは、贈り物の中でも最も上等な品。

 そしてリリーは少女からその箱を受け取り、そのままハインドルへと差し出した。


「どうぞ、ハインドル卿」

「おぉ! これはこれは……ほぉ、……茶葉ですか」


 彼は新たな玩具に胸を膨らませる子供のように、楽し気に箱を開く。出てきたのは、黒い下地に細やかな金の装飾が為された、金属製の円柱の箱である。

 記されている文字は、「夕日の涙」。ファインスト王国、そして他国でも非常に人気が高い、スカーレット侯爵領が誇る紅茶である。


「えぇ、我がスカーレット侯爵領にて採れた「夕日の涙」です。きっとお喜びになられると思いますわ」


 クスリと微笑むその美貌に中てられたように、ハインドルのその眼には下心が差し、頬は紅潮している。

 女は目線に敏感。とはよくある話であり事実だが、リリーの場合はそれが顕著だ。

 彼女は世界一とも称される美貌故に、様々な感情を向けられて育ってきた。その為彼女は表情から、自分に向けられた感情を読み取ることが出来る。


「あの有名な高級茶葉を頂けるとは……。これは私めの返礼も、弾ませねばなりませんな。お前達、アレを」


 ハインドルが手を数度叩くと、彼の下に現れたのは長細い箱を持った女性の使用人だ。厭らしい手付きでそれを受け取ったハインドルは一度その箱の中を確認し、そしてリリーへと手渡した。


「これは?」


 リリーはそれを受け取り、箱を開く。

 入っていたのは一本のワイン。だが、只のワインでは無かった。印字された文字を見て、リリーの目は少しだけ見開かれる。


「まさか」

「先日伝手で偶然、手に入れることが出来ましてね」

「ヴィエルジュ・ルージュを、ですか……。手に入れるには苦労されたでしょう……。本当に、頂いても?」


 驚きは本当だ。

 ヴィエルジュ・ルージュの名は、世界に数十本ほどしか流れていないとされる葡萄酒である。

 曰く、その味はうら若き処女の血のように濃く。曰く、その香りは神話に登場する世界樹の実を連想させる。曰く、その色は幻獣の血の如き深き暗褐色であると。

 少しでも葡萄酒に詳しい人間ならば、その希少性はもはやただの葡萄酒の範疇を超え、芸術品の域へまで昇華されていると語るだろう。例え一国の王族ですらも入手が困難であり、これだけでの金貨の山と同等として取引されるのにも関わらず、これが市場に出ることは滅多に無い。まさに幻の逸品だ。

 こんなものを所持しているとは。鷹揚に頷くハインドルへリリーは微笑みを向けつつ、しかしその瞳は鋭さを増す。

 同時に彼女は机の下で誰にも見られぬよう、指でサインを形作った。


「プラム、お願いね」

「はい」


 葡萄酒の収まった箱を受け取りプラムは去る。

 その姿を横目でリリーは眺め、紅茶を口に含み白磁を打ち鳴らす。


「それにしても、先日は大変な騒ぎでしたなぁリリー嬢」

「騒ぎ、ですか?」


 不思議そうに表情を曇らせるリリーに、ハインドルは机の上で腕を組むように前のめりになる。

 昔、社交場で女は皆女優、と語ったのは他でも無いリリーだ。


「ハハハッ、例の舞踏会の事件ですよ。ほら、同じ場所に居合わせたというじゃないですか」

「あぁ、それですか……」


 例の舞踏会。それが示すことなど一つしか無い。

 尚、ここで嫌な事を思い出している、といった顔を忘れないのがリリーという女の抜かりなさ。


「やはり、どうでしたか? 舞踏会の貴人とも称される、ロウル侯爵の裏の顔は」

「どう……ですか。その言葉に含まれた意味は測りかねますが……――」


 彼女の後ろに、ワインを手に持ち去っていったプラムが戻り、アイビーのすぐ横に侍った。

 リリーが唇を開く。


「全く気付くことが出来ませんでした。やはり人間、面の皮というのは厚いものですね」


 ロウル侯爵は表向きはハインドルの言葉の通り、舞踏会の貴人とも称された社交界の顔であった。

 しかしその裏では王宮の正式な書物を書き換えることにより不当な富を得ていたからこそ、彼はこの手により死を迎えることになったのだ。等とは、口が裂けても言える筈が無い。それは梟が知り得た情報であり、リリー・スカーレットは何も知らないのだから。


「ハッハッハッ! その通りですなぁ! 私も、リリー嬢も、その内には表に出さぬ思いを秘めている。という事が彼により分かった訳です」

「あら、ふふふっ……。ハインドル卿は一体、私に何を隠されているのかしら?」


 それはもう。その言葉の先までをハインドルは言うことは無い。しかし、言わずともその意味はリリーには見え透いたものだ。

 ふと、会話の合間を縫うように、彼女の背後に侍っていた金髪の男がリリーに耳打ちした。その言葉を聞いたリリーの瞳の色が変わる。そして、その様子を言葉を出さずに眺めるハインドルの瞳の色も。


「ふむ……。新たなご予定ですかな?」

「申し訳ございませんラグナー侯爵。本当は頂いたヴィエルジュ・ルージュを卿と共に楽しみたいと思っていましたが、残念です。どうでしょう、この辺りでお開きと致しませんか?」

「ハッハッハッ! 構いませんよ。リリー嬢はかの赤百合。私一人が独占できるような方ではありますまい。お前達、リリー嬢を送って差し上げろ」


 数人の使用人に誘われ、リリーが席を立つ。彼女の背後に侍っていた金髪の執事、そして小さな侍女も続き、大理石の通路を優雅に、音を立てて闊歩していく。


「リリー様、アイビー様、馬車の用意は出来ております」

「ありがとうプラム」

「うむ」


 馬車に乗り込む二人。そして間もなく小さな侍女がその御者台に飛び乗り、嘶きの後その馬車は走り出した。

 彼女たちを送迎する使用人たちが深々と頭を下げる。それを一瞥し、窓がしっかりと閉ざされていることを確認したアイビーが、馬車に揺られながら口を開いた。


「ワインの中に手紙が入っていた。お前の予想通りだな」

「あら、別に予想なんてしてないわよ。で、内容は?」


 問われたアイビーは低く唸りながら頷き、そして重々しく口を開いた。


「それが、少し変わっている。詳しくは後で無そう」


 リリーの眼光が鋭さを増す。それは、スカーレット侯爵家令嬢、リリー・オウル・スカーレットから、王国の梟であるリリーへと、変容する瞬間であった。

 場面は変わらず再び馬車。しかし、場所は変わっている。

 ラグナー侯爵領を出た馬車はそのまま南下。いくつかの都市を通り、王国の南側へを突き進んでいた。


「で」


 リリーはパイプをこつんと馬車の扉に当てる。身動ぎをして当たったのではなく、音を立てる為に敢えて当てたのだ。

 へイエス・ルイエルド辺境伯。王国南西、広大な領地を持つルイエルドの領主。王国でも数人しかいない、辺境伯の地位に立つ人間だ。その殺害。

 ヴィエルジュ・ルージュの中に隠されていた手紙に記されていた情報はそれだけだ。ただ、神話の世界でさえ、最も重い罪として扱われる殺人。それを依頼されるだけの理由があるというもの。だが。


「依頼者はいつ話してくれるの?」


 リリーの苛立ったような声に、御者台のプラムは答えに困った時の唸り声を上げる。時折高さの変わるそれは、どうやら未だにリリーに答える言葉を探しているらしい。ただ、それに見かねてアイビーが口を挟む。


「ルイエルドだ」

「依頼は暗殺よ? 標的が依頼人って、挑戦状のつもり?」


 溜め息の代わりにリリーから漏れるのは紫煙。吹いたそれを天井に溜めながら、彼女はトントンと爪先を揺らし音を鳴らす。

 梟への依頼方法は二種類。

 一つは手紙。これが最も一般的な方法であり、王家からの勅命の際もリリーは王家が育てている伝書鳩により手紙を受け取る。これは互いに互いを追求しないという信頼の証にもなり、抑止力にもなるものだ。

 もう一つは、直接彼女に伝える方法。ただこの場合それだけでは済まず、裏で一度王家を挟み正式な書類を作成する必要がある。結局は書類を作成する必要な点だけ考えると、彼女へ依頼を出すには手紙を出す他無いという考え方も出来るだろう。

 今回のヴィエルジュ・ルージュも、無論手紙。内容はルイエルド辺境伯の暗殺。そして依頼人も、ルイエルド辺境伯の暗殺だ。その点が、彼女たちの頭を悩ませている。


「プラム、ヴィエルジュ・ルージュの調査は?」

「……難航しています。どうやらあのワインは、複数の所有者を経由しているようですね。現時点では、ルイエルド辺境伯が持っていたという情報はありません」

「ヴィエルジュ・ルージュが複数の持ち主を経由? それも、ルイエルドが手にしてない? はぁ、ますます意味分かんない」


 ヴィエルジュ・ルージュは幻のワイン。どのように手にしたかは分からないが、例えるならばそれは隕石にも等しい希少性を持っている。それを手にしておいて、わざわざ手放すのもやはり不自然だ。

 また、かのワインは希少性の高さ故に場所、味、正確な本数等の情報がほぼ全ての所有者により秘匿されている。情報を軽はずみに明かせば、単純な金銭的価値ににより襲われる事も珍しくない為である。スカーレット家の依頼の裏取りは娘たちの仕事。だがそれらの理由もあり、彼女たちの調査も難航している。


「ルイエルド辺境伯については?」

「それに関しては殆ど完了しています! 先行させたグレイプに連絡を取りますか?」

「……いいわ。着いてからで」


 リリーは冷たく言い放ちカーテンを開き、窓を下ろす。吹き抜ける風に当たりながら紫煙を吹き、彼女は脳内で問題を列挙する。

 現時点での謎は二つで、そのどちらもが娘たちによる調査中だ。

 まずは、依頼の手紙についての謎。

 依頼の手紙の内容はルイエルド辺境伯の暗殺。しかし依頼人は、同じくルイエルド辺境伯によるものだ。

 裏社会ににおいて梟への依頼は、確実に為されるものである。それはリリーのプライドではなく、統計的事実に基づいた事実だ。それを、梟が実際に受けるかは別として。そしてこの依頼は、自分で自分を殺すように依頼したもの。梟を知る人間であれば、このような依頼は有り得ないと言ってもいい。

 となると、依頼人の考え方は梟を知らず誰かに唆されたのか、名を騙っているのか、もしくは梟へ挑むつもりか。

 現時点ではこの謎は解けそうも無い。

 二つ目の謎。ヴィエルジュ・ルージュの謎。

 ルイエルド辺境伯は力を持つ貴族だが、王都においてその権力は無いに等しい。王都近郊のラグナー侯爵領でも同じくだ。しかしことルイエルド辺境伯領においては、彼は王に等しい。二つ目の謎はそこにはある。ルイエルド辺境伯は、どのようにしてヴィエルジュ・ルージュに手紙を混ぜた。

 かのワインがルイエルドを経由していない可能性がある以上、彼は誰かが持っていたヴィエルジュ・ルージュに手紙を混ぜないといけないが、そのような隙はない筈だ。

 それにルイエルド辺境伯は帝国国境との防衛の為に置かれた都市であり、帝国を含む他国との取引により利益を生み出す交易都市だ。確かに他の貴族よりも珍しいものが手に入りやすい立場ではあるが、ヴィエルジュ・ルージュ程ではない。

 そうなるとルイエルドだけでは難しい。この依頼には、協力者がいる可能性が濃厚だろう。

 だが、一体何の為に。


「梟を知らない、もしくは梟が邪魔。あー……梟を脅威だと感じてる可能性。革命でも起こす気?」

「憶測はやめておけ。先入観に囚われると面倒だ」

「そうね」


 現時点で分かるのは、ルイエルド辺境伯。彼が自分で自分を殺す依頼をしていること。

 窓の外に吹きかけた煙が尾を引いて消えていく。その様子を眺めながら、リリーは移ろう景色に想いを寄せていた。

 夜の梟と、その仲間たちを乗せた馬車はラグナー伯爵領を離れ数日が経過している。そしてたった今この豪華な客車は、ルイエルド辺境伯領に入り込んだところであった。

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