第17話 視点2-7


 

 朝、起きて何かが違うなと感じた。お母さんはいつもなら朝食を作ってわたしとお兄ちゃんを食卓で迎え入れてくる。なのに死んだように静まり返った部屋で、お母さんはドラマを見ていた。安っぽい恋愛ドラマのようで、ヒロインが年上の男と不倫して修羅場で云々……みたいな、それってお母さんじゃん。偏差値3のドラマなんて観なくてもお母さんがもっとすごいことしてるじゃん、大学のゼミの恩師の旦那さんと不倫してわたしを作って、普通そんなことしないよお母さん、と声をかけようとして顔を覗き込んだ。


 お母さんの瞳は何も映していなかった。目の前のドラマも現実も、わたしの顔も朝食のテーブルも観ていなかった、生きながらにして死んでいた。


 お父さんもお兄ちゃんも、佐伯さんもこの顔をたまにする。金澤いよなもこれからするようになるのかもしれない。きっと、何かに絶望しきった人間だけができる、顔なんだ。わたしはまだできない。



「あ! ごめんねぼううっとしてた。急いでご飯作るね。スクランブルエッグと、あとね有機野菜のサラダ、高かったんだからねちゃんと食べてよ」


 お母さんは我に返り台所へと向かう。わたしは洗面台へ這うように進む。



 


 やっと分かった。分かってしまった。




 いつかは普通になれる、なんて言ったってそのいつかは永遠にやってこない。気が遠くなるほど時間が経って過去の自分が他人に思えるほど変化して、その時ようやく全てが手遅れだったことに気が付く。普通の人間を健常とかバカにして何処か特別気取った気になって斜に構えて敷かれたレールをはみ出る人間はいつか必ず社会の器から零れ落ちていく。わたしはそうはならない。わたしは普通になるんだ。


 ふと心の奥底から自然と湧き上がってくるイメージがあった。どこか遠くの、周囲を鬱蒼とした森に囲まれた小高い丘の上に教会がある。ステンドグラスがきらめき、建物の外観だけは豪奢で壮麗で、しかし内部は朽ち果て、座ることもできない形ばかりの椅子と、どこの誰のものかもわからない神の像が祀られている。人々はほとんど裸に近い恰好で舗装もされていない道路を半ば躓くように歩き、教会へと入っていく。その列の中にはお父さんもお母さんもお兄ちゃんも、くそほど興味ないクラスの連中も、佐伯さんも元親友の金澤いよなもいるような気がした。ほとんど叫ぶようにしながら祈りを捧げ、藻掻くように神像を見つめている。



 



 みんな救われたいんだな、と思った。他者から愛されたり必要とされたり、集団の中に属したり、仕事で成果を上げたり、偉業を達成したり、そんなことでは決して満たされない何かを埋めたがってる。誰か助けてくれ誰でもいいから。また誰かが叫ぶ、誰かが転ぶ。知らねえよ誰もお前の事なんて誰もお前なんかに興味ねえよ。教会の内部はほとんどいっぱいになって、参列は崩れ、周囲は更に荒れ果てていく。よく見れば教会が建っている丘の周囲は森を抜ければ荒涼とした廃墟が拡がっているだけだった。わたしは形だけの笑顔をゆるやかに崩して、そのイメージを意識の奥底へ追いやった。


 わたしはそうはならない。


 今まで、なんとなく自分は生きていてはいけないような気がしていた。



 薄暗い洗面台の鏡が見える。


 遠慮とか韜晦とうかいとかする必要なんて初めからなかった。ただ思うがままに振舞えば良かった。結果に大した違いがないのなら、好きなように生きればいい。だってわたしの人生なんだから。十代で重大なことに気が付けて良かった。あの雨の日みたいに笑う。


 お父さん。

 お母さん。

 お兄ちゃん。

 いよな。

 あとついでに佐伯さん。


 わたしの為に人生失敗しといてくれてありがとう。



 私はお父さんのようにもお兄ちゃんのようにもならない。お母さんみたいにもならない、佐伯さんみたいにも、いよなみたいにもならない、わたしは真面になるんだ。わたしは失敗しない。


「加奈ぁ。ご飯できたよ」


 お母さんの呑気な声が聞こえる。





 わたしはふつうになるんだ。



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