第4話 王女の許嫁

 翠碧宮は切り拓いた山の頂上に位置する。頂上といっても、その面積は広大で、その眺望がなければ山の上だとは解らないほどだ。その広大な土地に大小、いくつもの建物が並んでいる。場を大きく占めているのが北に位置する、建物群、典薬寮。その広さは城全体の半分を越え、庶民にとって、城と聞けば典薬寮を思い浮かべる程、国にとって重要な施設だ。その次が、南に位置する、緑青殿と呼ばれる、王や、その家族が生活する場所だ。翠碧宮は主にこの二つに大別されている。は。

 橙司の君と呼ばれる、その少年は、黒尽くめの男を連れて、緑青殿の中を歩いていた。この中を自由に歩けるものは、官吏の中にもそう多くはない。彼はその数少ない内の一人だった。彼と出くわすと、道行く下女や下男、官吏まで、見えない糸で縫いつけられるかのように跪いていった。彼はその光景が好きではなかった。そうさせる彼自身も嫌だった。

 足早に、緑青殿を歩いて、中庭に出る。中庭を突っ切った先には碧く蒼く巨大な建物がそびえている。典薬寮だ。しかし、彼の目的地はそこではない。中庭を左に曲がり、玉石を踏みしめて歩いていく。すると、別の建物が見えてきた。

 その建物は豪奢だった。壁は白く塗られ、真っ黒な鉄の門には、金を使った竜の装飾が施されている。そう、たしかに豪奢だ。しかし、城の顔とも言える典薬寮とも、王のすむ緑青殿にも見劣りする、中途半端な代物だったのだ。そして、それこそが彼の目的地だった。

 彼を確認すると、門番が門を開け、礼を言う間もなく、頭を伏せた。目を見るのも畏れ多いと言うように。橙司の君が門をくぐると、背後で門が音を立てて閉まった。その建物の中は、外観にも増して殺風景なものだった。黄色っぽい、淡い光で照らされた壁は外と同じように白く塗られ、妙に不安感を抱かせる。そんな空虚さと裏腹に狭く窮屈な空間。大人の男が五十人も入れば隙間がなくなるほどの広さしかない。床には外と同じように玉砂利が敷き詰められていて、壁とともに光を照り返してくる。

 そんな奇妙な空間で一際異彩を放つのが中央にある、大きな門だ。金属で出来た、しかし鉄ではない、門の正面には、目を閉じた龍の頭が掘られている。門を支える柱にはその恐ろしい爪と尾が巻き付き、門を守るように龍は眠っていた。その彫刻は精密で、荘厳で、今くぐってきた門の金塗りの竜など、ミミズが這いずり回っているも同然だ。

 橙司が門へと向かって歩く。敷き詰められた丸石は、じゃり、じゃり、と一歩一歩を踏みしめる度に音を鳴らす。外にも玉砂利は敷き詰められているが、ここではやけに強く響いているような気がした。

 門の前に立つと、彫刻の龍が《眼を覚ました》。淡い光の中で碧く、鋭く、眼光を光らせる。 

 橙司は思わず息を詰める。話には聞いていたが、目の当たりにするとすごい迫力だ。

 その眼は獲物を検分するように橙司の君の顔から爪先、袴や長着そして、そこに刻まれた爪の紋をすがめる。そして――

 永遠のような刹那の果てに、龍がガタガタと歯車のような音を響かせ始める。途端に、龍の彫刻が命を持ったように動き始めた。門を握りしめた爪を離し、巻き付けた尾を解く。最後に巨大な頸をもたげるように天井近くまで上げた。龍がどいたその先には、真っ暗な穴がぽっかりと口を開けている。


 門が開いた。


 橙司は詰めていた息を吐き出し、振り返った。五歩ほど離れた場所で黒尽くめの男が、この壮大な仕掛けを興味深げに眺めていていた。 橙司は男に呼びかける。

「ついて来い。門が開いたぞ」

 男はニヤリと笑った。

 橙司の君は男を伴って穴へ足を踏み入れた。

 中は洞窟を削って造ったような隧道ずいどうだった。剥き出しの岩肌には明かりが点々と取り付けられ、外から見たほど暗くはない。しかし、暗いは暗い。道標のように伸びる点々とした明かりも、少し向こうまで行くと真っ暗闇へと変わる。そのうえ、足下は薄暗く、お世辞にも良いとは言えない。もっと歩きやすい履物にすればよかったと今更ながら橙司は後悔した。

「それにしても、」今まで黙っていた男が話し始める。「なんだって、こんな派手な仕掛け、拵えようと思ったんですかねぇ、昔の人は」

 声の響き方からして、後ろを向きながら喋っているようだ。龍が《眠りに就く》様を観ているのだろうか。よくこの道をよそ見しながら、平然と歩けるものだ。橙司はキッと振りかえって口を開く。

「あ――」

 橙司は足を滑らした。

 さっき足を踏み出した真っ暗闇に今度は頭から真っ逆さまに落ちようとする。今際の際に見るのはこの男の、間抜け面かと覚悟した、その瞬間、男が衿を掴んだ。そのまま、橙司を片手で引き戻した。引き戻された勢いで、思わず、男の腰にしがみつく。

「気をつけてください。若様」

 見上げると男がニヤついている。段差の分、ただでさえ高い男の背が、より高く思えた。橙司は急いで――しっかりと足下を確認しながら――男から離れた。

「……済まない。揶揄やゆ

「いえいえ、これが約目ですから。それにさして、苦ではありませんでしたよ?」

 男、揶揄はひらひらと手を振る。橙司は口の端を曲げた。自分が大柄ではない事は分かっている。だが、それなりに成長したと自負している。だのに、片手で軽々と持ち上げられた、という事実はあまり気分が良くない。死ぬよりはマシとはいえ。

「あ、私が、前を歩きましょうか?」

「……ああ。そうしてくれ」

 体を壁につけ、道を開ける。スタスタスタと、揶揄が目の前を通り過ぎた。何段か降りて、こちらを振り返る。「さ、参りましょう」

「……ああ」

 橙司は、さっき自分を殺そうとした薄暗さに今度は感謝した。顔色を隠してくれるからだ。それも、特に赤とかを。

「……さっき誰がこの門を造ったのか聞いたな」何事もなかったかのように話し始める。

「ええ。半分、独り言でしたけど。もしかして、知ってるんですか?」

 揶揄も、何事もなかったかのように応えた。少なくとも、声の調子は。前を歩く、その表情はわからない。

「知らん」

 橙司は岩壁に手を添え、片足ずつ交代交代にだして、そろそろと降りる。

「おや、博識な若様でも知らないことがあるんですね」

 知ってか知らぬか、揶揄も歩調を緩めだした。

「当たり前だ。少なくとも、うん百年前には既にあったそうだがな。緑青殿から下に行くための通路が必要だったんだろうが……。薬肶那クスビナが王のために造った、だなんて国史には書かれてはいるな。でも、それじゃ答えにならんだろう?」

「いいえ。やはりご存知じゃないですか。若様はホントに博識だなぁ」

 そう言って、揶揄は大声で笑った。笑い声は隧道の中で虚しくこだまする。

 揶揄は橙司を若様と呼ぶ。それは、彼が元々、橙司の父親に仕えていたからだ。橙司が正式に官吏になったときに、側付きとして仕える事になったのだが、呼ばれる当人としては最初、あまりこの呼び名は気に入らなかった。『君』なんて仰々しいのも嫌だが、若様と呼ばれるのも、呼ばれる度に父を自分の後ろに見ているようで嫌だった。揶揄にそう伝えると、「承りました、若様!」なんて言ってヘラヘラしていた。さすが、父に仕えていただけのことはある、と妙に感心してしまい、言うだけ無駄だと思ってあきらめた。そして、若様、なんて呼ぶ割に、尊敬など欠片も見せないこの男を、むしろ、橙司は気に入った。この男に、『若様』と呼ばれる間は、『若様』でいる必要がなかったからだ。

 無限に続きそうだった暗闇に、案外早く果てが見えてきた。

 階段が行き着く先は、これまた大きな鉄の戸だった。先に下に着いた揶揄が恭しく手を差し出す。橙司は見えないふりをした。

 戸の前に立つと、今度は龍が目を覚ますまでもなく、独りでに、するすると横に動いて道を開けた。

 中は土間になっていて、奥に板張りの上がりかまちと廊下が見える。

 側に下男が控えていた。

「お履物をお預かりします」

 下男が言った。

 若い。橙司とそう歳が変わらないように見える。揶揄と同じような、黒い着物を着ている。違うのはそのあちこちが泥で汚れているところだ。なにも、こんな日も当たらない場所で泥にまみれて、働く必要もないだろうに。

「若様?」

 橙司はハッとして、揶揄を見た。揶揄はもう既に履物を脱いで廊下へ上がっている。下を見ると、下男が跪いていた。自分を待っているのだと気づいて、慌てて框に腰掛ける。下男は、失礼します、という声とともに、泥が手につくのも構わず、橙司の履物を脱がせた。

「お戻りの際にお返し致します」

 下男はそう言って土間に額を擦り付けるように頭を下げた。

「ああ、済まない」

 そう言うと、下男は驚いたように息を呑み、更に額を擦り付けた。居たたまれなくなって、橙司は逃げる様にその場を後にした。

 ここは山の内部に造られた、もう一つの城だ。一般人にはほとんど知られていない。蟻の巣のように山の内をあちこちへ通路が走り、大小いくつもの部屋柄と繋がっている。この国の政の要となる場所だ。

 橙司たちは長く、曲がりくねった廊下を右へ左へと進んでいく。地下道のはずなのに、さっきの隧道に比べると随分とあかるい。昼間の、緑青殿ともそう大差はないだろう。床は板張りだが、壁は剥き出しの岩なのが何処かちぐはぐだ。ところどころ襖や障子がある。

「こんな、日の当たらない場所にずっといたら体調崩すでしょうに、官吏はどうしてこんなとこに籠もるんでしょうね。全く気がしれない」

 官吏はこの地下の城で業務を果たす。地下にも官舎もあるので、寝泊まりをするものも多い。それは当然、さっきの下足番のような下男下女たちも常に地下に拘束されると言うことになる。当然、体調を崩すものだっている。

「私も、私の父も官吏なんだが?」

 自分でも少しぶっきらぼうな言い方なのがわかった。

「ええ、存じ上げておりますよ」

 こっちは本気なのか冗談なのか、まるでわからない。

「そういえば、どうして官吏になろうと思ったんです? たたでさえ、父親のすねかじってるだけで生きていられるのに。そうでなくても、姫様の許婚でしょう?」

「そう思われるのが嫌だからだ」

「理由はそれだけですか? それぐらいなら甘んじて受け入れたほうが楽でしょう?」

 この言い様で、よくこいつのクビを父は切らなかったものだ、と本気で思う。

「それだけじゃないさ」

 もっと大切で、大きな……

「じゃあ、なんですか?」

 お前なんぞに言ってたまるか、橙司は口の中で呟いた。


 廊下を歩き続けると、前に人影が見えた。お供をぞろぞろ率連れるその男は、そこそこ離れていても分かる、恰幅のよさだ。近づくと、向こうも気づいたのか、歩みを止めて振り返った。

「おお、やっぱりお前か、揶揄」

「おや、これはこれは。久しいですね。敦儀あつのり様」

 敦儀と呼ばれる、太ったこの男は、笑みを浮かべながら手に持った布で汗を拭う。この男は橙司でも知っている。王の補佐や、勅令の宣下、官吏の叙位からその剥奪まで……この国の政全般を担う、中務省の長官、中務卿敦儀だ。超大物だ。明らかに身分の低い身なりでありながら、そんな大物に気安く呼びかける、揶揄を周りのお供たちが胡乱な目で見るのも至極当然のことなのだ。

「やっぱりって、どういうことですか?」

「お得意の馬鹿笑いが、よくよく響いていたよ」

「これはお恥ずかしい」

 二人は勝手に話し始める。敦儀の周りの者も、橙司も完全に置いてけぼりだ。話さなくていいのは楽でいいが。

「お前がいるということは、こちらにいるのが……」

 敦儀がこちらに目を向ける。橙司は咄嗟に笑顔を張り付け礼をした。

「頭竜大臣、犀角さいかくが長男。橙司と申します」

 周りのお供たち、着物からしてそこそこの位の官位だろう、が驚いたように橙司を見る。調子のいい奴らだ。さっきまで揶揄の方ばかり見て、こっちは気にも留めなかった癖に。まあ、官位はこっちの方が低いのだが。

 ちなみに、高級官吏は元の姓の代わりに、王が名付ける、国姓と官職名を名乗るので姓は無い。敦儀や、父が高級官吏の橙司もそうだ。

「おお、橙司の君、最後にお会いしたのは、成人の儀の時でしたね。こんなにお若いのにもう、朝政に参加なさるとは流石は犀角様のご子息ですな」

「いえ、私なんてまだまだ。父に比べれば青二才です。揶揄にもよく、からかわれますし」

 揶揄はどこ吹く風でニヤニヤしてる。敦儀は笑いながら橙司の肩を叩いた。

「謙遜なさることはない。大学寮では医術も算術も首席で、修めたそうじゃないですか。お父上もさぞ鼻が高いでしょう」

 余計な事を。案の定、そこそこ官吏共が、視線で橙司を射殺さんとしている。へりくだっている相手が、こんな子供に興味を持つのは面白くないのだろう。

「ええ、でも、馬や弓の方はからっきしで」

 そこそこ官吏共の殺気が緩む。目の前のガキに勝つものを見つけたのだろう。

「懐かしいですね。お父上もそうでした。でも、心配いりませんよ。ああいうのは慣れですから。もう少しすれば出来る様になります。それに、結局、政の役には馬も弓も役には立たないものですよ。大事なのは頭」

 そこそこ官吏共の殺気がもとに戻る。敦儀はあまり気の回る性格ではないようだ。このままでは視線でなく刃で貫かれる。橙司は話題を変えた。

「お時間は宜しいのですか? 公卿くぎょうたちで打ち合わせをすると父から聞きましたが」

 敦儀は一瞬、きょとんとして、すぐに、ウンウンと頷いた。

「そうだった、そうだった。では橙司の君、《これからも》よろしく頼みますよ」

 そう言い残して、お供と共にドタドタと去っていった。

「あの調子でよくあそこ迄、大物になれたな」

 残された二人も朝堂へと歩き出す。

「当の本人が言っていたではありませんか。大事なのは頭だと」

 揶揄はしたり顔で頷く。

「あの、お供たちも大変だな」

「あの人にお溢れを期待しても、無駄でしょうね。まぁ、最初から期待してるようじゃ駄目ですよ」

 なるほど、そんなものか。政治の世界はめんどくさい。

「それに、あの狸おやじ、あれでいて結構立ち回り上手ですから」

「お前……仮にも公卿の一人をそんな悪しざまに言っていいのか?」

 敦儀にとって、揶揄の頸を飛ばすのも、判子を押すのも、さして変わらないだろうに。

「大丈夫ですよ。私が仕えているのは若様ですもの。他の者をどう言おうと関係ございません」

「なら、私にも、もっと敬意を払っていいんじゃないか?」

 揶揄は答えずに、岩の壁の前で立ち止まった。「さ、着きましたよ。ここから先は私は入れませんから、お気をつけください、若様」

 揶揄が、黒い上着を渡してくる。官吏の制服だ。着物とはまた違う、洋国風のものだ。橙司はそれを羽織ってボタンをとめる。揶揄が身をどかすと、岩戸は軋みながら開いた。そして、揶揄に促されるまま、橙司は足を踏み入れる。揶揄は、岩戸の向こうへ姿を消した。どうも、逃げられた気がする。

 辿り着いたのは、一目で自然の産物ではないとわかる、滑らかな岩壁に四方を囲まれた大広間だった。

 中には、既に何人もの官吏たちが集まり座っている。ほとんどが、歳も位も橙司より上だ。橙司はきょろきょろと見回して、自分の席へと着く。広間の端の端、末席もいいところ。それが今の自分の立ち位置だ。父は自分のために融通することもできると言った。しかし、それは橙司の望むところではない。父の七光りでなく、自分の力で、父へと近づきたかった。そして、父もそれに賛意を示してくれた。周りを見渡せば、何百もの官吏たちが蠢いている。その全てが父にたどり着くために乗り越えなければいけない、壁なのだ。本当に自分に出来るのだろうか……重い考えが体をまとわりつく。

「おい、こんなとこに、迷子がいるぜ」

 緊張は思いがけなく、過ぎ去った。頭にいきなり手を載せて、見下ろすのは、若い官吏だった。初めて見る顔だ。その官吏は、日にかざせば透けそうな、薄っぺらい品性がその顔から、その身から、にじみ出た、世にも珍しい男である。席が同じなので、年も階位も当然、橙司と同じだろう。男がにやりと笑う。ああ、なんて歯並びの悪い。

丁稚でっちが、こんなとこ座っちゃ駄目だろぉ?」

 同じニヤニヤでも、揶揄のそれとは比べ物にもならない。揶揄のそれが泥なら、こっちは肥溜めだ。

 それにしても、官服を着ている橙司を見て

、迷子だ丁稚だと、何を言っているのやら。まさか、あまりの薄っぺらさで、光が眼をすり抜けて、像を写さないのだろうか?

 何か答えようにも、言葉がでず、橙司は、ただただ口をポカンと開けて、男を見上げた。

「おい、やめろよ。みっともない」

 そのとき、橙司の隣に座した、青年が立ち上がり、男の手首を掴んで、頭から引きはがした。鼻筋が通って、眼窩が深い。きりりとした眼差し、太い眉毛と相まって、誠実で、頑固そうな印象を受ける。睨みつけてなければ、人好きにする顔だ。武道の心得があるのが、体つきや所作で分かる。初めて見る顔ではない。大学寮で何度か顔を合わせたことがある。

 男は一瞬、青年にひるんだような様子を見せたが、持ち前の図太さを遺憾無く発揮し、さらに声を張り上げる。

「ああ? お前だってムカつくだろ! こちとら、死ぬ気で大学寮出たのに、こんなガキと一緒なんだぜ? こいつどうせコネだろ!」

 お前こそ、よくコネを使わずに出れたものだ。思わず、橙司は感嘆した。

 「ムカつかないさ。別に。俺より成績いいからな」つかんだ手首を、ギリギリと捻り上げる。「当然、お前よりもだ」

「放せよ!」

 みっともなく歯並びの悪い男が叫んだ。青年がパッと手を離す。男は尻もちをついた。

「分かったなら、バカな真似はやめて、おとなしく座っていろ。官吏になった初日に官吏をやめる気か?」

 立ち上がった男は。自分で集めたはずの視線を睨みつけ、不服そうに、自身の席へ座り込んだ。

「悪いな」

 ため息つきながら、青年が謝ってきた。

「いえ。なんで貴方が謝るんです?」

 青年もどかっと、隣に座る。

「元はと言えば、俺のせいなんだ。俺があいつに勉強を教えたからな。じゃなきゃ、大学寮を出れなかったろうに」

「なるほど」

 確かにまともに行けば、大学寮は出れなさそうな雰囲気は醸し出していた。

「あいつ、親のコネ使ってもどうしょうもない成績だったからな。泣きつかれて、哀れに思えてつい、な」

 なんだ、アイツが使ってるんじゃないか。コネ。橙司はますます怒る気が失せる。

「優しいんですね」

 そう言うと、男は苦笑して、眉を八の字にした。

「弟、妹が多いから、頼られると弱いんだ」

「でも、彼を助けたのは間違いでしたね」

「全くだ。もうそんな過ち、侵さねぇよ」

 その真面目くさった様子が妙におかしく、思わず橙司は笑った。

「ええ。私からも頼みます」

「ああ。あ、まだ名乗ってなかったな。ショウイチだ」

「ショウイチ……さん。どういう字を書くんですか?」

「松が一本で、松一しょういちだ」

「縁起がいい名前ですね」

「あんがと」

 そう言いつつも、彼はどこか引っかかる顔をした。聞けば、彼の地元は松がよく生えているようで、親兄弟、隣近所、松がついた名前ばかりだそうで、縁起もへったくれもあったもんじゃないらしい。墓場に行けば、普通の人の一生分の〝松〟が見れるのだとか。

 そう語ると、松一は橙司に名前を尋ねた。

「橙司って言います。橙に司でトウシ」

「ほぉ。爽やかな名前だな。これから友達として、同僚として、公私ともによろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 橙司は周りにぶつからないよう、慎重に頭を下げる。

「公〝私〟なんだから、もう敬語使うなよ」

 ちょっと傷ついたような顔だ。橙司は驚く。松一は今までにあまり会ったことのない人物だ。ある意味、官吏には向いていなさそうだ。

「駄目ですよ。周りより年下の自覚はあるんです。さっきみたいなのでなくとも、それなりに厳しい目を覚悟して、ここにいるんですから」

「気にしすぎだと思うけどな」

 やはり、傷ついたように松一は呟いた。

 なんとなく、橙司は膝の上で組んだ手を、じっと見つめた。

 その時、銅鑼の音が一つ、二つ、そして三つ鳴り響いた。朝議が始まる合図だ。堂内の全員が姿勢を正し、息を詰めて沈黙の中でじっと待つ。

 橙司が入ってきた方の壁の、向かい側の端が御簾で仕切られている。王の座す席があるのだ。その横から、湧いたように人が現れた。真っ黒な髪をこの国では少し珍しい、北国風の結い方で、引っ詰めている。背は高いが痩せている。一見穏やかそうだが、遠い此処からでも、その細い目が、鋭く光っているのが見える。まるで獣のようだ。

 その男は橙司の父、犀角だ。

「これより、朝議を始める」

 細い体のどこから出ているのか、厳しい声が堂内に朗々と響き渡った。

 朝議は淡々と進んでいく。新人の官吏たちへの挨拶から始まり、官吏の異動、祭事の準備の進度、新たに検討する施策……細々とした、雑多な物事が、犀角の手によって次々とあるべきところに収まっていく。その間、橙司や松一、入ったばかりの官吏たちは一言も話さない。話せない。ただ、一言も聞き漏らすまい、と息を詰めている。

 議題を次々と消化していき、朝議も終わろうかというところで、犀角は言った。  

「そして、最後に皆に、伝えなければならぬ事がある。今朝、緑青殿で起こったことだから、山内さんだいで忙しくしている皆は知らないだろう」

「つぐみ様が城から居なくなった」

 言葉がその場に沁み入るまで、しばし沈黙があった。そして弾けるように広間がどよめく。驚きか、困惑か、あるいはその両方か。橙司は知っていたので、そのどよめきには加わらなかったが、横を見れば松一が大口開けている。

「どうして、それをもっと早く言わないのです!」

 位の高そうな官吏がさけんだ。

「そう喚かれては朝議が進まんからだ」

 当然と言わんばかり口調で犀角は切り捨てる。

「いつのことですか?」

 今度は別の官吏がわめいた。

「今朝だと申した」

 犀角の調子は変わらない。

「早く探さねばいけません!」

「女房らが城下を探したが、見つからなかったそうだ」

「街に出たということですか!」

「まぁ、そうだろうな」

「一大事ではないですか!」

「だから、こうして話しているのだ」

「陛下はなんと?」

「大変気を揉んでおられる」

 堂内のあちこちから挙がる声に素早く、淡々と犀角は答えていく。

「では、橙司の君さまは……」

 そんな矢継ぎ早のやり取りの中に、橙司の名前が出てきた。当然と言えば当然だ。何しろ、橙司はつぐみの許婚。無関係でいることなど出来ない。

 しかし、松一にとっては意外だったようだ。出来たばかりの友人の名前を聞いて、訝しげに目を向けてきた。

 同じく、橙司の名前を聞いた犀角が橙司の目を見た。しばし考えるような素振りを見せ、そして、その声を堂内に響かせた。

「橙司、立て」

 目立つのは嫌だ。でも、他にどうしようもない。橙司は立ち上がるしかなかった。

 宰相の一人息子がこの場に、しかも一番位の低い席に居るという事実が、堂内に更なるどよめきをもたらした。

「何でしょうか、《大臣》」

 橙司が口を開くと、どよめきはぴたりと止まり、一転して沈黙が堂内を包む。

「話は聞いていたな? お前の許婚が秘密の御幸みゆきに出てしまった。……ふむ。もしや、もう知っていたか? あまり、驚いていないようだが」

 我が父ながら目ざとい。橙司は顔にこそ出さねど、内心苦々しく思う。

「ええ、存じ上げておりました。今朝、緑青殿に参りましたので」

「おや、わが息子ながら健気なものだ」

 問題となっているのが、『つぐみの失踪』でなければ、頭竜大臣としては珍しい冗談に堂内の沈黙は破られるだろう。

「からかわないでください。ただでさえ、初めての朝議なのですから。大臣のご子息は緊張しいなのですよ」

「ふん。堂々としたものだがな。さて、どうする? お前の許婚だ。お前が決めろ。――王もそうお望みだ」

 堂内の沈黙が破られる。いくら犀角の息子とは言え橙司の位は下の下の下。本来与えられる職務と権限の範疇を軽く超えている。犀角の最後の言葉は、堂内の反応を見て、取ってつけたようなものだ。

 官吏たちが落ち着くのを待って橙司は口を開く。拳を握りしめた。声が震えないように、なるたけ毅然と聞こえる様に。

「私が、責任を持って、つぐみ様を連れ戻してみせましょう」

 犀角は何も言わない。ただ、橙司の目を見つめる。その覚悟を測るかのように。

 周りの官吏たちも何もいわない。ただ、両者の遣り取りを見守っている。

「いいだろう。何か必要な物はあるか?」

 どうやら、橙司の覚悟を見て取ったようだ。

「〝〟を貸してもらえませんか?」

 相変わらず、堂内は沈黙を保っていた。というか、橙司が何を言ったのか理解出来ていない。しかし、高級官吏の何人かは小さく反応を示す。

 犀角はまたも、考え込み、そして頷いた。

「……構わん。好きにしろ」


 朝議が終わると、堂内はごった返す。祭りも近く、官吏は忙しい。特に入ったばかりの官吏たちは右も左も分からず駆けずり回っている。しかし、橙司のそばに近づこうとはしない。周りの官吏は恐ろしいものを見るかの様に、遠巻きから視線を向ける。橙司と目が合うとそらし、橙司が彼らに近づけば避けていく。松一に声を掛けようかと思ったが、いつのまにかいなくなっていた。にわかな友情とは、どうやら脆いものらしい。


 一人で堂の外に出ると、揶揄が現れた。相も変わらぬニヤニヤ顔だ。

「どうでした? 初めての朝議は。友達はできましたか?」

 橙司は揶揄を睨む。揶揄は橙司の表情を見て、ある程度答えは分かっているはずだ。それでも聞いてくるのが、この男なのだ。

「最悪だ」橙司は呻くように言った。「父上に、名指しで立たされた。息子だってこともバラされた。おかげで初日から腫れ物だ」

 そして、できた友人はいなくなった。

「だから無理だって、言ったじゃないですか。身分を隠すとか」

 揶揄が呆れたように言う。

 最もなことだ。橙司としても、直ぐにバレるだろうとは思っていた。だが、それを揶揄に言われたくない。

「で、新人官吏様のどんな役に就かれるのですか?」

 普通、新人の官吏たちは予め仮の持ち場を決められている。そこで一定期間仕事をした後、今度は別の持ち場に着く。そして、そこで一定期間働くと別の持ち場へと行く。そうやって1年ほどたらい回しにされた後、それぞれの役職が正式に割り振られることになるのだが、橙司の場合は――

「ない」

「は?」

 本来、朝議の最後に言い渡されるはずの仮の持ち場を、橙司だけ言われなかった。だから、こうして廊下を揶揄と二人きりで歩いている。

「代わりに、つぐみを探せとのことだ」

「それまた、どうしてそんなことに?」

「私が探すといったからだ。許婚としてな」

「それじゃあ、若様、自分で自分の正体バラしてるようなものじゃないですか」

 橙司は黙殺した。

「父上から眸を貸してもらうことになった。お前も忙しくなるだろう」

「眸、ですか……」

 揶揄の声色が変わる。

「ああ。駄目で元々だったが、結構あっさり貸してくれたな」

「……まあ、この時期、暇な官吏なんてそれぐらいでしょうしね」

「というわけで、お前も忙しくなるなぁ、揶揄?」

 橙司は、振り返っていつものお返しにニヤッと笑ってみせる。すると、揶揄は珍しく苦々しげに笑顔を歪めた。

 橙司としてはこの揶揄の表情だけで、今日の最悪の朝議を帳消しにして、お釣りが来る。

「え〜、私もですか?」

 本当に嫌そうな声だ。橙司としてはますます気分がいい。

「当たり前だ。むしろ、どうしてお前が忙しくならないと思うんだ。お前こそが、眸だというのに」

 揶揄は少しニヤッとする。

「若様のお守りだけでも大変じゃないですか。私が働くとなると、若様の身が心配です」

「白々しい」橙司は吐き捨てる。「元より、私にお守りなど必要ないだろう? 何もしてないじゃないか。たまには働け」

 揶揄が更にニヤッと笑った。

「階段も歩くのもおぼつかない、お坊ちゃまなのに?」

 一転、橙司の顔が苦々しく歪まれた。

「だまれ」

 揶揄の笑い声が、岩壁に響いた。

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薬と王女と龍と ぎょうざぎゅうどん @gyo-zagyu-don

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