第3話 道端に咲く

 窓をのぞくと、おじいちゃんが大きなカメラを構えている。いつもお昼ごろになると、家の前の雑草を撮るのがお決まりで、玄関先が見えるリビングの窓辺は撮影会の特等席だった。こちらに気づくとのんびりほほえんで手招きをされるから、はねるように外へ出る。

「今日は、何撮った?」

しわくちゃの手に乗るカメラはピカピカだ。肩に下げた黒のバックもかっこよくて、端についた虹色の鈴がちりんと鳴った。

「んん、見せたるよ」

にぃっと笑った隙間から歯が小さく見える。楽しそうなおじいちゃんの前が唯一の居場所。少しでも長く居られるように大きな背中に飛びついた。

「今日の一等これだなぁ」

画面に映るのは、道に咲いたタンポポの花。黄色の花びらがまあるく開き、朝つゆなのか、小さく残った雫がやわらかに光る。

「すごい、すっごいきれい」

「んん、向こうの橋を渡ったところに咲いとった」

ぱちぱちとカメラを動かしながら、おじいちゃんはその日撮った全部を見せてくれる。カタバミ、ツユクサ、カラスノエンドウ。普段歩いている時は何ともないのに、おじいちゃんの写真なら、多分金ピカの指輪よりきれいに見えて、わくわくするから。

「おじいちゃんの手、魔法みたい。写真見たら、元気になれる」

ぽつんと言葉がこぼれていた。おじいちゃんはちょっとびっくりしたように固まったけれど、にこにこわしゃわしゃ、頭を撫でてきた。

「湊もできるようんなるよ」

その声は、何よりも優しかった。



からんころんとベルが鳴って、ドアが閉まる。突然の雨でやむなく入ってしまったが、橙色の店内に雪はほっと力を抜いた。店先が雑草だらけで躊躇したのはほんの数秒前の事である。

カウンター席が四つと、窓辺のテーブル席が四つ。ウォルナットの木材で統一された家具にワインレッドの座面が映える。埋まっているのは一番奥の窓辺の席だけで、常連らしき老夫婦が静かに座っていた。

奥で文庫を開いていた男性がこちらを見ていた。色素の薄い容姿、もふもふと少しカールした短い髪。白シャツに合わせた焦茶のエプロンには「喫茶みちばた」とロゴがあった。他に人はいないからこの人が店主らしい。

ぽかんと開いていた口元が柔らかに上がる。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 静かな響きに誘われて、雪は抱えていた黒のショルダーバックを横に回す。微かな鈴の音が鳴った。


「こちらメニューになります」

老夫婦から一つ開けたテーブル席に座ると、店主はキナリ色の厚紙を差し出した。


 野草茶

  本日のブレンド

  タンポポ

  カタバミ

  ドクダミ

  ツユクサ

  カラスノエンドウ

  ヨモギ

  スギナ

  クマザサ

     各五〇〇円


「え、雑草?」

 声に出してしまってから、慌てて口を抑える。まだ近くに立っていた店主は、けれど穏やかに肩を揺らす。 

「初めての方は皆さん驚かれますので、お気になさらず。うちは店先で採れた植物を、お茶にして提供しているお店なんです」

 へぇと適当に相槌を打ちながら、少しだけ唇を噛む。苦そう。ハーブならまだしも雑草から出来たお茶なんて特に。それが全部伝わったらしく、店主は楽しそうに言った。

「少しお待ち頂けますか?」

気の抜けた返事をすれば、カウンターの奥へ戻っていく。次に来た店主が持っていたのは、通常よりもっと小さなサイズの紙コップだった。透き通った薄茶色がことりと揺れる。

「本日のブレンド、クマザサとヨモギの野草茶です。騙されたと思って、一度試してみてください」

見た目は普通。独特な香りもないようだけど、ここまでされると引くに引けない。半ばどうとでもなれと雑に煽って、驚いた。

「おいしい」

目をぱちくりさせたまま店主を見ると誇らしそうに頷いた。

「ドクダミなどは独特な香りがするので、苦手な方もいらっしゃいますが、意外と飲みやすいものも多いんです」

 雑草には馴染みがある方だが、知らないこともあるものだ。同じものを注文すると、店主はまた奥へと戻っていった。窓の外はすっかり雨模様になっている。パラパラと当たる雨音が眠気を誘う。さっきから止まらないスマホの通知を無視したまま、雪は柔らかい背もたれに身を預けた。



「——さま、お客様」

はっと目を覚ますと、腰を屈めた店主が胸を撫で下ろしたところだった。

「すみません、起こしてしまって。酷く魘されていらっしゃったので」

 奥にいた老夫婦も、飲み切ったカップも消えている。額の汗を散漫に拭い、そのまま顔を覆って息を吐いた。

「こちらこそ、すみません。居眠りなんて」

いえ、と短く返した店主はカウンターの奥へと戻るも、すぐに新しいティーカップを持ってきた。

「サービスです。落ち着くと思います」

 言われるがまま頼りない手を伸ばす。爽やかな優しい香りが鼻腔を通る。温かいものが降りてくると、ようやくほぅと息が出来た。

「……祖父の」

店主が静かに立ち去るのが端に見えて、気づいたら声が出ていた。恐々と視線を上げると、横に向いていた体がこちらに戻る。

「祖父の、夢でした。元気だった頃の。今日本当は、施設にいる祖父に会いに行く予定だったんです」




カメラが好きで、いつも道端の花を撮りにずっと散歩しているような祖父だった。ただの雑草だと思っていた花たちが、祖父の写真の中ではきらきらと光っている。だから祖父の写真が一番好きで、雪はよくその大きな背中に引っ付いていた。

祖父の写真を、祖父と見ている時間が大好きだった。


何かが壊れ始めたのは、雪が高校生になった頃。階段で躓き足を怪我してから、それまでの行動力が嘘みたいに祖父は一日中家にいるようになった。


「おう。帰ったか」

部屋に入ると祖父はベッドに座っていた。大きすぎるテレビの音が、優しかった声をぼやかしている。

「ただいま。今日は、何見てたの?」

近づいて隣に座るも、眠たそうな薄い笑みはゆっくりと外に逸れていく。

「なんやったかなぁ……」

「うん、忘れちゃうよね」

明るい声色を意識しながら、けれど、喧嘩したみたいに雪は反対側に顔を向ける。部屋の角に置かれた机には、新聞やティッシュ箱が散乱し、ピカピカだったはずの黒いバッグも埃と一緒に埋もれていた。

「じいちゃん」

「んん?」

五時の時報がコンポロォンと鳴っている。目尻に残る茶黒いシミが瞳の代わりにこっちを向いた。

「私、あのカメラ使いたい」

祖父は、そうかぁ、とだけ呟いた。


沢山の写真を撮った。何十枚と見てきた祖父の写真の中で、やっぱり一番綺麗だと思ったあの日のタンポポを目標にして。良い写真が撮れたらまた元気になると思ったから、道端の花を撮影しては見せにいった。

けれどいつ、どんな写真を見せても、祖父はただぼんやりと薄く笑って、時折眉を寄せるだけだった。


「ねぇ雪」

カメラを手に自室を出たところを、母さんに呼び止められたのは、受験生になった春。

「じいちゃんに写真見せに行くの、やめない?」

言葉通りの意味だろうに、その時すぐには分からなかった。「なんで」も「どういうこと?」すら浮かぶ前。何も言えないまま突っ立っていると、母さんは困った様子で、薄く笑う。

「いやね、じいちゃんも写真が好きだったからこそ、雪が自由に写真を撮ってるのが、しんどくなってたりはしないかなと思って」

 写真こそ、薬。道端に咲く花は、元気になれる被写体のはずで。

「それに今年は受験でしょう? あまりに写真に熱心だからさ。母さんとしては写真よりもテストで良い点数取ってきて欲しいなぁなんて、ね」

逃げるように外へ出た。土手を登って、橋を渡る。同じ道、同じ場所。けれど、明確な違和感が雪を襲う。

「……なんで」

咲いていたはずの黄色い群れは、ずっと前から無かったように刈り取られた後だった。




「カメラも、必要以上に祖父と関わることも辞めて、数ヶ月後祖父は施設に入りました」

がらんとした部屋。雪の元に置き去りにされたカメラ。勉強の合間に訪ねても、祖父は何かの冊子から目を離さず、時折小さく笑っていた。

「祖父にとって、私のした事全てが余計だったと分かってからは、勉強を理由に行かなくなりました。大学で家を出るともっと足が遠のいて、今日会えば二年ぶりくらいだったんです。祖母から懇願されなきゃ、きっと帰っても来なかった」

次の休みも帰ってこない? じいちゃん会いたがってるよ。

そう、最初に連絡が来たのは二ヶ月も前のこと。返信に迷う間にも祖母はめげずに送ってきて、流石に腹を括ったのはつい一週間ほど前だった。

「でも結局、施設の前で怖くなって。入れずにいたら雨降ってきて。それで今、ここに」

店内に静寂が戻る。なぜこの話を出会ったばかりの彼にしたのか、自分でも分からない。段々と恥ずかしくなってきて、誤魔化すようにお茶を飲んだ。

 お客様、とまろい声が降ってくる。

「雑草と野草の違いは、ご存知ですか?」

「……雑草と、野草?」

「ええ」

脈絡のない質問に首を傾げる。なんとなく無下には出来ずにぼやけた頭で考えた。

「食用かどうか? それか道に生えているか山に生えているか、とか?」

店主は少し笑みを深める。

「では、野草茶の材料や、山間部の道や畑に生えた植物はどうでしょうか?」

ハテナだらけになってきた雪を見て、店主は遂にふふっと息をこぼした。胸の前で人差し指を立てる。

「正解は、人の管理している土地に勝手に生えた植物を雑草、自然のままに生えている植物を野草と言います。植物はただそこに生えただけですが、人間がそう区別したんです。

これと同じような理屈で、益鳥と害鳥の話もありますね」

上に向いていた指が傾いて、雪の右側を指す。窓の外には丁度雀が止まっていた。

「農家にとって雀は、春から夏の間は害鳥を食べてくれる益鳥ですが、秋には稲を食べるので害鳥に変わります。雀は自身の食料を確保しただけなのに、こちら側の都合で立場はまるで逆になる」

丸っこい茶色。忙しなく数回跳ねて、空を見た。その瞳に翳りはなく、ただこの世界で生き抜くために、注意深く何かを捉えている。

「何が益で、何が害か。その区別は人によって変わり、きっと皆、それぞれ勝手に、見えたものを、見たいように見ているのだと思います。——だから」

小さな足は、ざらついた板目を蹴って舞い上がる。

「自分が大切だと思ったら、そのまま大切にしていても良いと思います。大切かどうかの区別は、自分だけのものだから」

彼の方を見ると、それまで気づかなかった幼さの残る瞳が、ただ真っ直ぐに雪を捉えていた。

「誰かには害に見えても、もう一方でそうでないものは絶対あって、少なくとも僕には余計だとは見えなかったです」

数刻の間を開けて、外では懐かしい時報が鳴り始める。ぎこちなく礼をして、静かに立ち去ろうとするのが見えても、もう声は出なかった。隣に置いた黒いバックを引き寄せると、丁度スマホが振動する。

 今どこ? 大丈夫? 皆待ってるよ!

 祖母からの連絡には一枚の画像が付いていた。薄く笑う祖父。誕生日の襷を下げ、手には大きめの写真立て。見覚えのあるそれは、雪が一番最初に撮ったタンポポだった。ただ映しただけの、下手くそな。またスマホが鳴って、文章が追加される。

プレゼントにあげたら離しません

どうしようもなく眉を寄せて、小さく笑う。つんと痛んだ鼻の奥まで、優しい香りは漂ってきた。



からんころんとベルが鳴って、ドアが閉まる。雨が上がった夕方、彼女が店先のタンポポ畑で立ち止まったのが見えた。おもむろにカメラを出して構えると、またしっかりとした足取りで歩いていく。その姿が見えなくなってから、ようやく湊は腰を下ろして、エプロンを取った。

彼女が店に入ってきた時、懐かしい黒のバックと虹色の鈴が見えて驚いた。まさかとは思ったが、話を聞いて確信した。

おじいちゃんの手、魔法みたい。

小学生の頃、不登校だった湊にとって、誰もいない昼間、家の前の雑草を大きなカメラで撮影するその人は、本当に救いだった。だから、余計だったと泣きそうな顔で言った彼女には、どうしても元気になって欲しくて夢中で話をした。が、今となっては羞恥心で死にそうだ。何だあれ。どこの優男だ。

 乱雑に頭を掻きながら息を吐く。オープンして一年。未だ閑古鳥が鳴き続ける店内に、そろそろ心が折れそうになっていたけれど。

厚い雲の隙間から、橙色の夕日が見えている。店先の草花は雨粒を反射させてやわらかに光っていた。

 湊もできるようんなるよ。

いつかきっと、同じように。ピカピカに磨いた床に足をつけると、湊は思いっきり伸びをした。

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