籠目堂の御寮人

紫藤市

一 籠目堂

 昨夜まで空を覆っていた雨雲は消え去り、朝から夏の眩しい日差しが帝都に降り注いでいる。

 自動車や馬車が騒々しくひっきりなしに走る大通りを曲がり、みなみさやちょうの一本路地に入った道に面した『かごどう』の店先では、おおとりがまだ濡れている地面を箒でてきぱきと掃いていた。

(父さんったら、買い付けに行ってくるって言って出かけたっきり、三日も帰ってこないなんて)

 『籠目堂』の店主である大鳥たかは志麻子の父だ。

(まったく、どこをほっつき歩いているんだか。いまどこにいるか、葉書の一枚くらい寄越して知らせてくれてもいいじゃないの)

 箒を握り締めながら志麻子は唇を噛み締める。

「おはよう、志麻子ちゃん。お父さん、まだ帰ってこないのかい?」

 向かいの金物屋の女将がれんを手にして出てくると、威勢よく話し掛けてきた。

「おはようございます。えぇ、まだなんです」

 束髪に着物の袖をたすきでたくし上げた格好の志麻子は、憂い顔から作り笑いに表情を変えて答える。

 このかいわいは南鞘町という名が示す通り、江戸の頃は刀の鞘を作る職人が多く住んでいた町だ。御一新から五十年近くが経ち、町は大きく様変わりした。約四十年前に廃刀令が出て以降、鞘職人は姿を消した。

 代わりに古美術商や古道具商が軒を連ねるようになった。

 古道具屋『籠目堂』もそのひとつで、主に陶磁器の食器や櫛、簪など装飾品類の日用雑貨を扱っている。

「何日も帰ってきてないんじゃないかい? どこまで行っているんだい?」

「それが、わからないんです。父はどこへ行くとも言わずに出かけてしまったので、いつ帰ってくるかもわからないんです」

「それは困ったもんだね。まぁ、志麻子ちゃんが婿さんを迎えたから、安心して遠方まで仕入れに行ってるんだろうね」

 女将さんが笑いながら志麻子の肩を叩く。

 十八歳の志麻子はこの春に高等女学校を出て、五月に結婚した。

 相手は父の知人の息子であるあもこうすけだ。

 四つ年上の彼は一年前に『籠目堂』にやってきて、そのまま居着いてしまった。鷹雄が不在の際は店番をしているが、算盤をはじいて金勘定をするのは苦手だそうだ。しかし、陽気でよく喋るため接客はうまい。

 『籠目堂』は志麻子の祖父が始めた店で、最初は露天商だった。籠目紋が付いたはんてんを着ていたので客から『籠目堂』と呼ばれるようになり、やがてそのまま店の名前にしたそうだ。

 その祖父が南鞘町に店を構えたのは二十年ほど前だ。

「いい婿さんが来てくれてよかったじゃないかい」

「…………はい」

 曖昧な笑みを浮かべて、志麻子は女将に当たり障りのない返事をする。

 父と娘の二人暮らしだった大鳥家を、近所の住人たちが以前から気に掛けてくれていたことは知っていた。一人娘の志麻子は婿を取るのか、それとも嫁に行くのか、店はどうするのか、とよく心配されていた。

「じゃあね。お父さんが帰ってきたら、よろしく言っておいておくれ」

 金物屋の女将は言いたいことを言うと、満足した様子で志麻子に背を向けて開店の準備を始めた。

(いい婿さん、ねぇ……)

 まだ暖簾を出していない『籠目堂』の中に視線を向けて、志麻子は小さくため息をつく。

(女将さんにはそういう風に見えるのね)

 商売をしている身としては、世間体は大事だ。

(確かに、店の手伝いはしっかりしてくれるし、飲む、打つ、買うはしないし、家事もしてくれるから、世間的にはいい夫ってことになるんでしょうけどね)

 素性の知れない男がそうろうしているのは外聞が悪いし自分の見合いにも影響する、と志麻子が父親に不満を漏らしたのは三か月前のことだ。

 それに対する父親の返事は「なら、お前と鴻介が結婚すればいいじゃないか」だった。

 一瞬、唖然となって返事に窮していた志麻子に「よし、そうしよう。決まりだな」と鴻介の了解を得ずに父は二人の結婚を強引に決めた。

(まったく、父さんときたらなにを考えているんだか。揚げ句に「新婚夫婦の邪魔になるといけないから、ちょっくら買い付けに言ってくるわ」って、どういうことよ)

 にやにやしながら支度をしていた先日の父の顔を思い出した志麻子は、箒の柄を握り締めへし折りたくなる衝動をなんとか抑えた。

 志麻子は鴻介と婚姻届を出したが、それは便宜上赤の他人である鴻介に「婿養子」という大鳥家で暮らす口実を与えるためのものだ。

(ただ籍を入れただけなんだから! 本当にただそれだけなんだから!)

 勢いよく箒で地面の水たまりの水を掃き散らしながら志麻子は心の中で繰り返す。

 志麻子と鴻介の関係は、五月以前と以降でまったく変わっていない。

(なんでわたし、あんな胡散臭い男と結婚してしまったのかしら!)

 娘が婿を迎えて安心したから鷹雄は遠くまで買い付けに出かけるようになった、という金物屋の女将の理屈はあながち外れているとは言えないが、それだけではないと志麻子は考えていた。

(二束三文にしかならない食器を買い付けるためにわざわざ遠方まで出かけたりするわけがないから、またもりさん辺りに面倒な買い付けを頼まれたんでしょうね)

 古道具商の鷹雄はそれなりに目利きとして知られている。買い付けた価値ある古美術品は、商売仲間である古美術商に転売して利鞘を稼いでいるのだ。古道具商だけでは大した売り上げはないが、自分の店では扱わない骨董も一緒に買い付けているので店が続いていることは志麻子もわかっている。

 これまでは「若い娘一人に何日も留守番をさせるわけにはいかないから」と言って遠出は断っていたらしい。

 しかし、志麻子が婿を迎えたことで、その言い訳が使えなくなった。

 伊森みちながは近所の古美術商だ。

 過去に一度だけ、志麻子は伊森の次男を婿にどうかと薦められたことがあったが、相手が十歳以上年上だったので遠回しに断った。

 祖父の代から伊森とは付き合いがあると聞いているが、志麻子は祖父や父の交友関係をほとんど知らない。

 一年前にふらりと『籠目堂』に現れた天羽鴻介についても、「天羽」という名をこれまで祖父や父の口から聞いたことがなかったため、本当に知人の息子かと疑ったものだ。

 しかし、父は鴻介が持って来たを見てあっさりと家に上げた。

(父さんの口車に乗せられて居候男とまさか結婚することになるとは……一生の不覚っ!)

 志麻子の父は商売人だけあって口がうまい。

 そんな父のれんくだをある程度知っている志麻子だが、言葉巧みに誘導されて婚姻届に自分の名前を書いてしまったのだ。冷静になって考え直そうとしたときには、婚姻届は父の手で役場に提出された後だった。

(いくら「婚姻届に名前を書くだけだから」って言われても、借金の借用書の保証人欄よりもが悪い書類に署名してしまったような気がしてならないわ)

 大鳥家に入った鴻介は、名ばかりとはいえ法的に志麻子の夫であることに間違いはない。

「志麻子さん、朝ご飯の支度ができましたよ。表の掃除が終わりましたら、飯食ってください」

 不機嫌極まりない志麻子に、店の横の勝手口から顔を出した着物姿の鴻介が笑顔で声を掛ける。

 『籠目堂』の一階の奥と二階が住居になっているのだ。

「……はい、ありがとうございます」

 視線を夫に向けた志麻子は淡々とした口調で返事をする。

 そういった自分の態度が新妻らしくない、と言われていることは知っているが、周囲の期待に応えるつもりはなかった。

(新妻らしい態度ってなによ。惚れた腫れたではしゃいで見せろとでも言うのかしら)

 志麻子は心の中で吐き捨てた。

 にゅうな顔の鴻介は甲斐甲斐しく家事や店の手伝いをしているので、近所では「入り婿の鑑だ」と評判だ。彼は常に腰が低く、志麻子の三歩後を歩き、口癖は「志麻子さんの言う通りですね」なのだ。

 しかし、志麻子は鴻介のじょうをよく知らない。

 彼が教えてくれたのは名前と年齢だけで、出自は一度だけ聞いたことがあるものの答えははぐらかされた。

(わたしが知っていることといえば、お味噌汁のが昆布ということくらいね。あとは、わたしよりも料理がうまいということとか)

 出汁にこだわりがない志麻子や父は、かつお出汁でも昆布出汁でも味噌汁がおいしければ文句はなかった。

 志麻子が物心ついた頃には家に母がいなかったため、幼い頃はもっぱら父の手料理を食べていた。祖父は「あれが志麻子の舌をばかにした元凶だ」とよくこぼしていたものだ。

「掃除、代わりましょうか?」

 志麻子がなかなか家に入ろうとしないので掃除が終わっていないと思ったのか、鴻介が尋ねる。

 こういう気が利くところがまた、志麻子のかんに障るのだった。

「終わりましたので、大丈夫です」

 つっけんどんに答えて志麻子は勝手口に向かう。

 家の中の台所からは、炊きたての白飯と味噌汁のおいしそうな匂いがした。

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