捨てられ魔女は蒼の手乗り竜に愛される

龍田たると

本編


 北の森には魔女が住んでいる。



 大陸の北側の魔族の国と、南側に位置する人間の国。二つの境に面した森で、その魔女は独り暮らしていた。


 彼女は人間で、まだ年若い少女だった。 

 いかにもな感じの黒のローブをまとっているが、魔女と呼ぶには可愛い容貌なりの女の子。 

 古びた一軒家もどこか不釣り合いで、少女が一人で暮らすには、手入れに難儀しそうな寂れ具合だった。 


 魔女は薬を調合し、それを売って日々の生計を立てていた。 

 その薬は確かな効果があると、近隣の村からの評判も良い。

 栗色の髪に赤の瞳。まだあどけないその少女は、大きなフードを目深にかぶり、訪れる客に素顔を見せることはなかった。


 彼女は自身の出生ゆえに、かなりの人見知りだった。

 実をいうと、彼女はとある子爵家の生まれなのだが、五歳の頃、旅先で事故に遭い、両親を失ってしまう。

 彼女自身も大けがを負ったが、国境沿いの老魔女が治療を行い、何とか命を取り留めた。

 ただ、その後引き取り手が現れなかったため、そのまま老魔女の弟子として、森に住むことになったのである。


 そんな不幸な環境の変化、加えて老魔女が偏屈なこともあり、少女は引っ込み思案に育ってしまった。

 老魔女は悪人ではなかったが、幼い子供の母親として必ずしも適切とはいえなかった。

 スパルタで薬の製造法を叩き込んだ後は、知ったことかの放任主義。

 とはいえ、老体にすべての子育てを負わせることも酷であり、それでも生きる術を教えてくれた養母に、魔女は深く感謝していた。


 そして、その老魔女も今は亡く、少女はたった一人で森の屋敷で暮らしている。

 そんな生活ではあったが、特段さみしいと思うことはなかった。

 何故なら彼女の傍には、いつも一匹の竜がいたからである。


 その竜は、蒼い鱗と蒼い翼を持っていて、首が長く、確かに竜と呼ぶべき姿をしていたが、とても小さかった。 

 どれくらい小さいかというと、鳩やニワトリよりもさらに小さい。

 人の手のひらに乗るサイズで、さながら文鳥のようだった。


 竜は人語を解する珍しい個体であり、魔女の唯一の話し相手だった。

 彼──おそらくは雄の竜──は、老魔女の友人を自称し、少女が一人で店を切り盛りしている時に、いつの頃からか居着くようになった。

 昼は店の中を飛び回り、日が暮れる前に帰っていく。きっと森のどこかに巣があるのだろう。


 彼は店に来る客にも遠慮なく話しかけ、事あるごとにちょっかいを出した。


 惚れ薬を注文した女性には、「そんなもので男の心を射止めて、意味があるのか?」と問う。 


 魔力を一時的に高める薬を求めた魔術科の学生には、「それで試験に受かっても、後々苦労するだけだぞ」と言った。


 歯に衣着せぬ物言いに、どの客もしばしば気色ばむ。

 が、的を射ているため、ほとんどが返す言葉に詰まってしまう。


 竜は嫌がらせをしているつもりはなく、率直な感想を口にしているだけだった。

 尊大ではあるが、表裏のない性格だったため、彼はどこか憎めない存在でもあった。



 ある時、少女は竜に尋ねた。


「あなたはどうして、いつも皆に色々言うの?」


 竜は答える。


「一言で言うなら、人間を知るためだな」


 自分は人間ではないから、人の心が理解できない。

 特に、心の機微というものがわからない。

 愛だの恋だのはもっとわからない。 

 けれど、良き隣人としてやっていくためには、それらを知る必要があるという。


 すなわち竜は、隣国の──魔族の国の住人であるらしかった。





 ある日、人間の国の王子が、国境沿いの湿地帯を通りかかった。 

 彼は横着をして、そこを馬で横断しようとした。

 しかし、それは毒の沼であり、王子は毒の泥はねを目に受けて、不運にも視力を失ってしまう。


 彼の目は毒素に侵され、一縷の光も通さない。 

 国中の医者や魔術師がかき集められたが、治癒できた者は一人もいなかった。


 『王子の目を治した者には多額の報奨金を出す』

 その報せとともに、二代目魔女の家にも使いが来て、王子を診て欲しいと頼みこんだ。


 魔女は事のあらましを聞き終えた後、すぐに王城へ向かうことを決めた。 

 報奨金の多寡は関係ない。彼女には治す自信があった。 

 沼の毒の解毒法は、先代から聞いて教わっていたからだ。 


 王子の目に毒が入ってから、さほど長い日数は経っていない。 

 自分の手でも治せると踏んで、彼女は二つ返事で頼みを引き受けた。


 病に伏した一国の王子を、国はずれの魔女が診察する。

 それは前例のないことだったが、国王や国の重鎮たちは藁にもすがる思いで治療の許可を下した。


 魔女は王都へと足を運び、正門から堂々と城内に入る。

 華やかで精緻な王宮のつくりと、彼女の真っ黒なローブはミスマッチで、その姿はいかにも浮いていた。

 少女は一瞬、貴族だった頃の記憶を想起したが、今はそれどころではないと覚悟を決めて宮殿内を進んでいった。


 魔女は王子と面会し、診察が開始される。 

 彼女が見立てた通り、先代直伝の薬は劇的な効果を見せ、王子の容態は快方へと向かっていった。


 とはいえ、一度の治療ですぐに見えるようになるわけではない。 

 包帯が取れるには繰り返し患部に薬を塗る必要があり、しかもその薬は調合してすぐに使用しなければならないので、彼女は毎回登城しなければならなかった。


 国境沿いから王城まで、何度も往復するのは骨が折れる。

 それでも、少女はその行程を辛いとは思わなかった。


 国王含め、皆が魔女に期待のまなざしを向けた。

 確実に、王子の目が完治へ向かっていくという結果があってこそだが、治療の間、少なくとも少女が軽んじられることはなかった。

 怪しげな魔女でも、差別されることなく公平に扱われたのだ。

 それは、彼女が私心なく治療に尽くしたゆえでもあった。 


 そして、その懸命さは、王子の心をも動かした。


 幾度となく診察を重ねることで、魔女と王子は自然と打ち解け、治療だけでなくとりとめのない世間話もするようになっていく。

 そうなると、お互いの距離は急速に近づいていった。


 魔女は森での日々の出来事や、調合の際の苦労話、どうやって店を切り盛りしているかを話して聞かせた。

 王子も、王族としての日常のこと、いつも退屈していること、本当は誰か傍にいて欲しいことを打ち明けた。


 そして、あと何度か往診を行えば、包帯を外しても良いところまでになる。

 その時点で王子は魔女に愛を告白した。


 「治療が終わっても、僕の傍にいて欲しい」と。

 自分の妻になって欲しいと。




 森の一軒家に帰ったその晩、魔女は眠れなかった。


 信じられなかった。

 今は貴族でもない、同年代の友人もいない自分が、一国の王子様に見初められるなんて。


 胸の高鳴りが抑えられなかった。 

 誰かと結ばれるなんて夢のまた夢、このままひっそりと一人で生きていくものだと思っていたのに。


 王族に娶られて高い身分に返り咲ける、そのことはさして重要ではない。

 もちろん嬉しくないと言えば嘘になるが、一番涙が出るのは、こんな自分を愛してくれる人に出会えたということ。


 魔女には昔から憧れていた夢があった。

 それは彼女が幼い頃、老魔女から戯れに聞かされた、とある一つのおとぎ話。

 本当は高貴な生まれの村娘が、見目麗しい異国の王族に惚れられて、結婚して、最後はお妃様になるという筋書きの童話だ。

 

 別にその話を意識していたわけではなかった。

 けれど、偶然とは思えないほどそれに酷似した今の状況が、どこか信じられなくもあり、だからこそ体が震えるほどに嬉しかった。


 手乗りの竜も、その日ばかりは茶々を入れることなく、素直に彼女を祝福した。


「おめでとう。真面目に頑張ってきた奴が報われるってのはいいものだな。見ているこっちも良かったと思えるよ」


 そう言って、年長者のような優しい声で少女をねぎらう。


「……ありがとう。今まで生きてきた中で一番嬉しいわ。……本当に」


「目の包帯が取れるようになったらさ、その王子様、お前の美しさにきっと驚くぞ」


「えっ……な、何言ってるの?」


 容姿を褒められたことがなかった少女は、続く竜の言葉に驚き、戸惑った。


「おかしいか? 俺は人間の美醜はわからないけど、お前のことは美しい娘だと思ってるんだが。これは冗談でも世辞でもないぞ。お前が一生懸命に薬を作る姿は、本当に輝いて見えるんだ。王子も、目が見えないながらも、お前のそういうところに惚れたんじゃないのか」


 竜は気にした様子もなく、なおもストレートな物言いで彼女を褒めたたえる。


 その言葉に他意がないことはわかっていた。彼は決して嘘をつくような性格ではない。

 しかし、化粧っ気もない平凡な容姿を美しいなどと言うのは、さすがに褒めすぎではないだろうか。


 そもそも、魔女の仕事は決して華やかなものではない。

 採取のため泥まみれになって野山を回り、時には顔をすすだらけにすることもあるのだ。

 

「でもなぁ。泥が付こうが、煤が付こうが、そんなの関係ないと思うけどな。だって、お前が必死でやってる証なんだから。むしろそれは誇りだろう?」


 ただ、そうやって評価してもらえることは嬉しかったし、彼に認められることは、不思議と誇らしい気分だった。




 しかし、いよいよ王子の目の包帯が取れる日になって。


 まぶたに塗られた薬を拭い、最後の仕上げに癒しの術をかけた後で。

 目を開き、魔女の顔を見た彼女の愛しい人は、何故だかまったく明るい表情を見せなかった。


 「御苦労だった」と、気のない様子で短く謝意を述べるのみ。

 たったそれだけで、何事もなかったかのようにすぐに魔女は帰されてしまう。



 ──どうして。



 声には出さず、けれど少女は当惑した。

 いつものように、優しい言葉をかけてくれると思っていたのに。


 何が気に入らなかったのか。今までの診察と同じで、最後だからと何を変えたわけでもない。


 ……そう、今までと同じ。

 彼女はその日も、先代から受け継いだ真っ黒なローブで登城していた。

 王子の目が開くからといって、着飾っていくことなど考えもしない。


 何故なら、彼女は本来診察のために会いに行っているのだから。

 生真面目な少女は、あくまで本分はそれだと思い、真剣に治療に取り組んでいた。

 そして、王子の担当医として、その小さな身体に大きな責任感を背負っていた。


 ただ、彼女の姿を初めて目にした王子の視線に、少女は言いようのない違和感を覚えた。

 魔女を一瞥した後、一瞬落胆したような顔になり、その後は路傍の石ころでも見るような表情となる。

 上手く言えないが、それは少なくとも結婚を申し込んだ相手に向けられるものではなかった。


 そして、目の治療が終わり、報奨の支払いが済んでしまえば、二人をつなぐものは何もなくなってしまう。

 結婚の約束は口頭でなされたのみで、当たり前だが書状などを交わしたわけでもなかった。


 そこからは、向こうからの連絡をただ待つしかなかった。

 それでも一週間、二週間と過ぎても音沙汰はない。

 最後の治療からちょうど一ヶ月が経った時、魔女はしびれを切らしてとうとう王城へと出かけていった。

 しかし、先月までと異なり、正門前で警備の兵に止められてしまう。


「申し訳ありませんが、殿下の恩人であるあなたでも、許可なく通すことは禁じられていますので。何卒、お引き取り願います」


 魔女はその警告に面食らってしまった。

 確かに、自分のような者が勝手に城内に入るのはまずいだろう。

 

 でも、自分は殿下と結婚するのだから。彼はそう約束してくれたのだから。

 喉まで出かかったその言葉を、彼女は寸前で思いとどまる。

 何故だか嫌な予感がした。だから少女は自分のことは伏せたままで、門番にそれとなく聞いてみた。


「あの、殿下は……誰かとお付き合いされてるとか、ご婚約されるとか……聞いていませんか」


「おお、さすがは魔女殿。お耳が早い」


 兵士はその質問にうなずいたが、続く答えは彼女が望んでいたものではなかった。


「近いうちに、公爵家のご令嬢と、婚姻の儀が執り行われる予定です」


「えっ……」



 ──そんな。どういうことなの。



 その答えに、少女の背中を冷たいものがはしり抜けた。


 最初は、聞き間違えたのかと思った。

 あるいは、門番が悪辣な冗談を言ったのかもしれない。

 だが、一介の兵士がそんなことをするはずもなく、むしろ好意で教えてくれていることは彼の目を見れば明らかだ。


 魔女は動揺を悟られないように、ぐいとフードを被りなおす。

 その時、正門前に一台の馬車が近付いてくる。

 馬車は城内に入る前に停止して、一人の女性が魔女の前へと降り立った。


「こんにちは。いきなり呼び止めて悪いのだけど……。あなたが殿下の目を治療した……魔女さんよね?」


 彼女は魔女に近づいて、にこやかに話しかけた。

 奇遇なことにその女性こそが、王子の婚約者たる令嬢その人だった。


 輝く金の髪に、宝石のような紺碧の瞳。

 彼女はとても美しく、まるで物語の中から抜け出してきたようだった。

 着ている衣装もきらびやかで、パステルブルーの柔らかなドレスは透き通った水面を思わせる。

 魔女の黒装束と隣り合うと、余計にそれが際立って見えた。

 

 その令嬢は、魔女が尋ねてもいないのに、自身と王子の関係を、また、どのようにして知り合ったかを話してきた。


 令嬢が王子と出会ったのは、まだたった三週間前のこと。

 王家と公爵家、両家の者たちによって見合いの席が組まれ、そこで一目で両想いになったという。


「殿下は光を失われて、一時は王位継承すら危ぶまれていたそうなの」


 だから治って本当に良かったわ。そのおかげで、こうして私のことを目に留めていただけたのだし──と、彼女は誇らしげに微笑んだ。


 しかし、そうなると王子と令嬢が知り合ったのは、彼の目が完治した後ということになる。

 もともと二人が付き合っていたわけではない。

 結婚の約束をしていたのは、魔女が先のはずなのに。


 そして、令嬢は感謝の言葉を述べつつも、どこか無機質な視線を少女へと向けた。


 これ見よがしに魔女の頭からつま先までを見やると、強めの口調でたしなめるように言う。


「あなたの功績は評価に値するけど……ちょっと、その格好は……どうにかならないのかしら。登城する時はちゃんと身なりを整えるべきではなくて? その薄汚れたぼろ布。殿下も汚らわしいって難色を示されていたけど、私もまったく同意見よ」


「えっ」


 突然の苦言に思わず固まってしまった。

 殿下が、何を言っていたと。……薄汚れたぼろ布? 魔女としてのこの服装が?


「虫や獣と暮らしてるような、あなたみたいな魔女には、それが普通なんでしょうけどねえ」


 小言を言われたことのみならず、魔女は令嬢の視線にも奇妙な既視感を覚える。

 

 その表情は、王子が初めて魔女を見た時のものとひどく似通っていた。


 下賤の者に向ける視線。

 自分の人生には関係ない、どうでもいいものに対する目つき。

 魔女のみずぼらしいなりを指摘するが、だからといって彼女のためを思っているわけではない。

 単に王宮の景色にふさわしくないだけ。景観が汚れるから彼女を叱る。そんな思いからの言葉。


 魔女はそこですべてを理解した。


 どうして自分が王子から避けられていたのか。

 何故、今になるまで報せの一つも来ないのか。


 それはつまり──彼は目が開いた後、魔女を見て、その外見に幻滅したということだ。


 あれだけ甘い言葉で愛を囁いていたのに、ぱったりと止み、見向きもされなくなったのは、おそらくそのことが理由に違いない。

 他には考えられない。

 魔女とは対照的な、美麗さを絵に描いたような令嬢を相手に選んだことからも、それは明らかなことだった。


 みすぼらしい格好の薬師など、彼の眼中にはなかったのである。

 目が見えていない間は、幸か不幸かそのことを失念していた。

 あるいは、魔女の声だけを聴いて、もっと美しい少女だと勝手なイメージを膨らませていたのかもしれない。

 けれど、実際の彼女を目にしたことで、その幻想は一気に吹き飛んでしまう。


 他の王侯貴族についても同じだった。

 王子を救った魔女。それはそれで皆が敬意を払うが、だからといって彼女のすべてが肯定されたわけではない。

 功績は認められても、身分が変わるわけではなく、せいぜい上から目線でよくやったと思われる程度のこと。住む世界が違うことに変わりはないのだ。

 治療後も不釣り合いな格好の女がうろちょろしていれば、それはきっと目障りなのだろう。


 ただ、令嬢の言うように、彼女の服装が薄汚れていたかというと、そのようなことは決してなかった。

 黒いローブはいわば魔女の正装。そして、養母から受け継いだ大切なものだ。

 老魔女は必ずしも良い親とはいえなかったが、それでも少女は彼女のことを尊敬していた。

 受け継いだ衣装は大事に扱い、いつも手入れをして、清潔にしていた。

 野山での採取時には別の服に着替え、みだりに汚すことはない。

 また、そのローブは飾り気のない簡素なものだったが、宮廷魔術師の法衣と同じ上質な素材が使われている。

 つまり令嬢の指摘は的外れといってよく、そう見えたのは彼女の先入観によるところが大きかった。



 とはいえ。魔女が王子に見放されたことは、どうあっても変えようのない事実だった。


 彼女は、振られたのだ。





 ──そんなことがあってから。

 その日以降、魔女は二週間以上も店を閉め、床に伏せってしまっていた。

 病気ではないが、ショックで何も手に着かなかった。


 起きて、家にあるものを適当に食べて、またすぐに寝る。そんな生活。

 あとはほとんど放心状態。

 陽が昇って沈むのに合わせ、それだけを繰り返す毎日。

 あとはベッドの中で静かに泣き腫らす。


 本当は食欲すらなかったのだが、竜が食事だけは欠かすなとせっついたため、彼女はなんとか餓えずに済んでいた。




「……すまなかったな」


 手乗りの竜は羽ばたいて、彼女の寝床へやって来る。

 枕元に止まると、彼は静かな声でつぶやいた。

 何を謝るのか。少女は無言のまま、心の中で疑問符を浮かべる。

 竜は言葉を続けた。

 

「俺が人間の美醜なんてわからないのに、勘違いさせるようなことを言ったせいだ。顔に煤が付いてることが誇りだなんて。俺の勝手な価値基準で惑わせるべきじゃなかった」


 申し訳なさそうに自戒の言葉が述べられる。

 だが、そんなことを思う必要などなかった。

 彼の責任ではない。そのせいで振られたわけではないのだし、汚れた顔のまま王子に会いに行ったわけでもない。


 それに……自分が美しくないのは確かなのだから。

 だから、振られたのだ。

 仕方のないことなのだ。

 少なくとも、この時の彼女はそう思っていた。



「……けど……本当に、そうなのか?」

 


 しかし、彼女の思いを先読みしたかのように。

 竜は、直前の謝罪とはうって変わって、そんな疑問を口にした。


「え……?」


「謝ったすぐ後に手の平を返すようで悪いんだが……。やっぱり……俺は、納得いかないな。お前の容姿が悪いから振られただなんて。そうは思わない。お前は醜くなんてない」


「えっと……」


 いきなり何を言い出すのか。フォローのつもりか。それにしては唐突すぎる。


「王子の好みじゃなかったのかもしれないが、やっぱりお前は綺麗だよ。ああ、そうだ。そこのところは、どうあっても譲れない一線だ」


「……」


 やはりこの竜は自分の感情をそのまま口にしているだけだった。

 自分に正直に、嘘をつくということを知らない。

 魔女としては、正味なところ、それを言われてだからどうなのか、という思いはある。

 けれど、気を遣って慰めているわけではないその無遠慮な言葉が逆に、今の魔女にとっては救いでもあった。


(……ありがとう……)


 魔女は心の中で礼を言い、寝返りを打って、竜の方に体を向ける。

 

 しかし、彼女が目を向けた先に、蒼い鱗の友人はいなかった。

 驚くなかれ、そこには手乗りサイズの竜ではなく──まるで意味がわからないが──人間の少年が立っていた。


「──えっ?」


 思わず布団を跳ね上げるくらいに飛び起きる。


 見たことのない少年だった。

 その少年は、いずこかの国の王族のような出で立ちをしていた。

 金刺繍のほどこされた礼服。ブロンドの髪に、エメラルドの瞳を携えて。

 気品ただようが、しかし自国の王族の関係者というわけでもない。

 どこかエキゾチックで、魔女を捨てたあの王子とも似ていない。


 誰。

 どうなっているの。

 いつの間に家に入り込んだの。


 そんな思考すら追いつかず、魔女は寝間着のまま固まってしまう。


「ええと、姿はこんな感じでいいと思うんだが……台詞は何だったかな……『美しい人よ、私と踊っていただけますか』……だったか?」


 少年は魔女に全身を見せる様に、くるりとターンして手を差し伸べる。

 そこで少女はすべてを把握する。

 その少年の声は、蒼い竜のものとまったく同じだったからだ。

 

 眉目秀麗な外見には似合わないハスキーな声によって、魔女はその少年が竜の変化した姿だと理解した。


 さらに言うなら、少年が言った少女を誘う言葉。

 それは、彼女が憧れていた村娘の童話に出てくる、クライマックスの台詞だった。


 つまり竜は、童話の登場人物である王族に化けて、魔女を元気づけようとしたのだ。


「……驚いた。あなた、変化の魔法なんて使えたの? 案外多芸なのね」


 魔女もそんな友人の意図を察して、警戒を解き、小さく笑って見せた。


「まあな。これでも本国じゃ結構やる方なんだぞ」


「というか、あなたもあの童話を知ってたのね。子供に聞かせるようなお話なのに」


「一応な。平易な話だからこそ、こっちでも皆が知ってて有名なんだ。それに俺は、人間の書物にも色々と目を通させてもらってる。特に、男女の関係が描写されたものは、童話だろうと読むことにしてるんだ」


 竜は少年の姿のまま、傍らの椅子に腰かけて言った。


「男女の関係……恋愛ってことね。……どうして?」


「俺にはわからないからだ。愛とか恋とか、それをさも尊いもののように人間は言うが、具体的にはどんなものかを未だに理解できない。正味な話、それは独占欲のなれの果てのようにも思える。だから知りたいんだ。愛というものの定義を」


 ずいぶんと哲学的なことを考えるのだな、と魔女は思った。

 その物言いはまるで位の高い研究者のようでもある。

 ただの小生意気な小動物かと思っていたが、彼女が思っていた以上に竜の内面は老成しているようだった。


「でも、あなたの種族だって雌の竜に惚れたりするでしょう。あなたにはそういう経験はないの?」


「いや、俺は本当は竜ではないんだ。この少年の姿がただの変化であるように、いつもの竜の姿も仮のものでしかない。ずっと騙していて悪かったが……俺は、実は……魔族なんだ」


 竜──否、魔族は、そう言って申し訳なさそうに目を伏せた。


 その告白に、少女は少しだけ驚く。

 けれどすぐに、小さく首を横に振って応えた。


 別に何も悪い気はしなかった。

 竜だろうと魔族だろうと、彼が気のいい友人であることに変わりはない。

 何か無礼なことをされたわけでもない。


 それに、腑に落ちる部分もあった。

 彼が店に来るのは人間を知るためだと以前言っていた。

 真の姿が四つ足の獣でなく、それよりも人に近い魔族という生き物なら、なるほどその考え方もうなずける。


 魔王が治める北方の国は、人間の国と交流こそないものの、互いの領土を侵すことなく穏やかな関係を保っていた。

 魔族の生態がどんなものかはあまり知られていないが、今のところ問題が生じているわけでもない。

 無知からの畏怖はあれど、それは向こうも同じこと。

 だからこそ、彼は竜に化けて人間を知ろうとしたのだと、少女は好意的に解釈した。


「魔族といっても、一応、生物学的には男だ。ただ、俺が物心ついた時には同族の女性はいなくてな……。情愛とか惚れるとか、そういうのはよくわからないんだ」


「……そうなんだ」


 なんだか悲しいな、と魔女は思った。

 魔族というからには、おそらく長命で頭も良いはずだ。先代の魔女からそう聞かされていた。

 なのに目の前の彼は、愛する相手に巡り合うこともなく、それどころか愛という感情すらもわからず、ずっと一人で過ごしてきたのだ。


 奔放ではあるが、傍若無人というわけではない。

 彼は良い人だ。そのことは、今までの付き合いからも、少女のために変化しているその姿からも、十分にわかっていた。


「まあ、同族でないと“つがい”になれないというわけでもないんだがな……」


「あなたは愛する気持ちを、どういうものだと考えているの?」


 言い訳のように自分のことを話そうとする彼をさえぎり、魔女はそんな質問を投げかけた。


「……だから、それはまだ勉強中で」


「いいから教えてよ。あなたの考える『愛』。聞いてみたい」


 単純に興味があった。人を好きになることに、そんなに深く考えることがあるのだろうか。

 自分と王子との関係を、どんなふうに見ていたのか。

 それを言葉にして、ぜひとも聞かせて欲しいと思った。


「……そうだな。俺が……俺が思うのは──」


 少年は、少女の目を見据えた後、少し間を置いて、意を決したように口を開く。


「人間を見ていて、いつも疑問に思うのは、誰もが愛という概念を素晴らしいものととらえていることだ。男が女を愛し、女が男を愛し、人が人を愛する。だが、そう謳いながら、人はしばしばそれに反した行動を取る」


「……どういうこと?」


「男女の関係──色恋沙汰の問題になると、『愛している』などと言いながら、途端に利己的な部分が顔を出す。一人の男を複数の女が取り合ったり、その逆もしかりだ。ともすれば、殺し合いにまで発展することもある。そこまでいかなくても、金を持ってる男だとか、豊満な胸の女だとか、人はより良い個体を先んじて選ぼうとする。なのに、それを愛と呼びたがるんだ。おかしくないか?」


「それは……」


「金を稼ぐ男がいいなら、それはそういう有能な雄を望んでいるだけで、特定の誰かを愛しているわけじゃない。他者を押しのけ、誰かと結ばれることを望むのは、独占欲ではあっても、皆が尊ぶような感情とは程遠い。ましてや肉体関係のみ望むことを、俺は愛だなどと呼びたくはない。詩や歌劇の主題にまでなるその概念は、単なる肉欲とは異なるもののはずだろう?」

 

 語りながらだんだんと熱を帯びていく彼の様子を見て、少女はふと思った。

 この魔族は、思った以上に純粋な心の持ち主なのだと。

 人の心というものに、人間以上に真剣に向き合い、考えている。

 そして、実際の年齢は知らないが、思春期の少年のような初心うぶな心を持っている。それが、どこか可愛らしくて微笑ましい。


「……そうねぇ」


 魔女はそこで、なんとなく自分自身を顧みて、彼に自嘲の笑顔を向けた。


「その考え方でいったら、私も不純な人間になっちゃうわね。殿下と結ばれたくて、公爵家のご令嬢に取られちゃって、それが悔しくて……。あなたの定義からすれば、独占欲の塊みたいな女よね」

 

「──それは、違う」


 しかし、少年は即座に少女の言葉を否定した。


「俺の考える愛っていうのは、人が人を思いやる心だ。相手の幸せを願う心。誰かを笑顔にしたいと思う気持ちだ。愛することが素晴らしいというなら、そこに見返りを求める感情が入ることはない。お前は王子の目を治し、彼を笑顔にしたいと思って行動した。彼を気の毒に思い、再びその目に世界が映るようにしてやりたかった。一番最初に考えていたのは、きっとそれだけだったんだろう? だからこそ、俺は美しいと思えたんだ。尊ぶべきものとしてその言葉が使われるなら……そんな感情こそが、愛と呼ぶべきなんじゃないか」


「……」


 瞬間、魔女は言葉を失った。


 嬉しかった。

 自分の行為をそんなふうに認めてくれる人がいたなんて。

 彼女が絶望したのは、振られたからだけでなく、自分の存在に価値がないように思えたからだった。

 王子も、公爵令嬢も、他の王族も、結局のところ魔女自身を見てはいなかった。

 王子は向き合おうとすらしていなかった。

 でも、彼だけは、目の前にいる少年の姿をしたこの魔族だけは、彼女のことを暖かな目で見守り続けていてくれたのだ。

 そして、美しいと評したのは外見だけではない。その気高さこそを彼は評価してくれた。

 あるいは、彼が美しさを見出す部分が人と違うのは、人の内面こそを見ているからなのかもしれない。


 そのことにようやく気付いた時──少女の目からは、大粒の涙があふれ出していた。


「もう……。何だかそれって、私に愛の告白をしてるみたいよ」


 泣き顔を悟られないように、腕で顔を隠して照れ隠しに少女は言う。


「そのつもりだが」


「え」


 そんな少女に、彼は真顔でうなずく。


「俺はお前を幸せにしてやりたい。笑った顔をもう一度見たいと思っている。俺の手でそれがかなうのなら、いくらでもそのために尽力しよう。それが俺の、偽りのない本心だ」


 彼は、誰かを笑顔にしてあげたい気持ちこそが愛だと言った。

 そして、魔女の笑顔をもう一度見たいとも。

 つまり、彼の本心とは……そういうことなのだ。


「ちょ……ちょっと待って。その、待ってよ」


 それは唐突で、およそタイミングというものを考えない、空気を読まない告白だった。

 以前、彼自身が言っていたこと。心の機微がわからない、それを地で行く突然のプロポーズ。

 人の感情が理解できないとは、おそらくこういうところなのだろう。


 けれど、ずっと真剣で。

 真摯な気持ちが直に伝わるようでもあって。


 だからこそ、その言葉は少女の胸を打ち、強く心に届いていた。


「ただ……一つだけ、お前に申し訳ないと思うことがある」


 それから魔族の少年は、少女の反応を待つことなく、一度目線を切って言葉を続けた。


「悪いと思うのは、俺の真の姿がおそらく人の感覚からは醜いということだ。俺の顔には、人間の魔術師によって付けられた呪印がある。顔の右半分、頬とこめかみのあたりに、真っ赤な呪いの紋様が刻まれているんだ。他にも、角が生えて、耳が尖っていて……あと、眼の瞳孔は縦に開いている。その姿を目にすれば……きっとお前を怖がらせてしまうと思う」

 

 つまり、彼が普段竜に擬態しているのも、今、人間の少年の姿になっているのも、そんな恐れがあるからなのだった。


「本当のあなたって……一体……何者なの?」


 自然とそんな疑問が口をついて出てくる。

 彼はためらうことなく少女に答えた。


「現在、北の大地を治めている。始祖から数えて五代目の魔族の王と言えば……わかりやすいか」


「え……。魔王……様……?」


 少女は再度言葉を失った。


 一口に魔族といっても、生態の違ういくつもの種族があって、細分化されている。

 そして高位の存在は、位が上になればなるほど個体数が少なくなる。死亡の確率が低い動物は、繁殖の必要も低くなるからだ。

 その意味で、魔王である彼に同族がいないのは、ある意味必然ともいえた。


「えっと……。魔王様がこんなところに入り浸っていて、大丈夫なの?」


 彼女が尋ねると、魔王は朗らかに笑って答えた。


「これも社会勉強の一つだよ。政務の方は俺がいなくても回る。影武者に代理を頼んであるしな」


「えー……えーっと……」


 影武者の人、お疲れ様です。

 少女は心の中で名も知らぬ影武者に手を合わせる。


 そして、彼に率直な欲求と疑問を投げかけた。


「できれば、本当の姿を見たいなって思うけど……。その呪印っていうのは、どうして付けられたの? 別に戦争とか……今まで起こったりしてないよね?」


「ああ、戦争じゃない。その魔術師は高名だったが、裏の顔はとある邪教の教祖でな。俺たち魔族を悪と決め付けて、襲って来たんだ」


 応戦するしかなかった。

 それは小規模な戦闘だったが、魔術師は強く、魔王である彼も陣頭に立って戦わざるを得なかった。

 魔王は物思いにふけるように、遠い目をして言う。


「魔術師は倒したが、呪印は残ってしまった。今の俺は、あの頃の半分ほどしか力を出せない。それでも、大きな損害が出なかったことだけが唯一の救いだ」


「……仲間を守るために戦ったのね」


「まあ……そうなるかな」


「だったら、少しも恥じる必要はないわ。その呪印はあなたが皆のために力を尽くした証。むしろそれは誇りでしょう?」


 少女は穏やかに笑って言った。

 かつての彼と、まったく同じ言葉を。


 意図してその言葉を使ったのにはわけがある。

 そう言ってもらえたからこそ、少女は救われていた。

 だからこそ、彼女も魔王に同じ言葉をかけてあげたかった。


 少女は、魔王の笑顔を見たいと思った。

 だから、自分を思ってくれた彼の幸せを願ったからこそ、彼女は彼と同じ言葉を繰り返した。


「無理にとは言わないわ。でも、あなたが私を愛してくれるのなら……私を信じてくれるなら。どうか、あなたの素顔を見せて欲しい。私は、その姿を受け入れます」


「……わかった」


 魔王は少しだけ逡巡した後、うなずいて、抑えていた魔力を解放する。自らの擬装を解いていく。

 全身が強く輝きだす。

 少年の姿から、長身の成人男性の姿へ。


 少女はどんな姿でも受け入れる覚悟があった。

 彼が少女を綺麗だと評したように、気高い心に美を認めるのなら、今の魔王がまさにそうだと思ったから。

 自分を思ってくれるその心だけで、魔女は魔王を愛していけると思った。



 ──そして。


 変化を解いた彼の姿は、確かに人ならざる異形をしていたが──顔に刻まれた呪印を含めて──とても、美しかった。






 数か月後。


 雲一つない晴れやかな春の日。

 北の魔族の国では、魔王と王妃の婚姻の儀が執り行われていた。


 現魔王が初めて、そしてようやく伴侶を得たということで、国民は驚き、大いに沸き立った。


 さらに皆が驚いたのは、その伴侶となる相手の女性。

 なんと妃は、国を隔てた南方の森に住まう、人間の少女だという。


 一部の者はその事実に懸念の目を向けたが、彼女が魔族と交流の深かった森の魔女の娘だと知ると、懐疑的な声はすぐに聞かれなくなった。


 国のトップの婚礼ということで、人間の国からも多くの貴族が賓客として招かれる。

 その中には、かつて魔女に目の治療を受けた、あの王子の姿もあった。

 隣にはその妻として、公爵令嬢だった女性もいる。


 儀式やその後の歓談の場は、人間も多数出席すること、また新婦自身が人間であることもあって、人の目から見ても華やかなものであるよう趣向が尽くされていた。


 新婦を彩る純白のウェディングドレスは、天窓からの陽光を反射し、柔らかな輝きを放つ。


 新郎である長い瑠璃色の髪をした魔王も、彼女に合わせた白の衣装を着用していた。

 裾の長い、式典用にあつらえた魔族の正装。その衣装も相まって、若き魔王の立ち姿はどこか神々しくすらあった。

 ただ、彼は顔の半分を飾り布で覆っており、内情を知らないゲストたちは、見惚れながらもそれを怪訝に思った。

 

 けれど、花嫁は知っている。たとえその布を取ったとしても、夫の端整な顔立ちが決して損なわれることはないと。

 刻まれた呪紋すら魅力になりうるのは、外面だけでなく、彼の気高い心根がそうさせているのだと。


 参列した誰もが、二人を美しいと思った。

 新郎のみならず、一見平凡かと思われた新婦も、一国の妃として申し分ない気品と優美さをたたえていた。


 それは、彼女が心からの笑顔を見せていたから。

 夫を信頼し、愛していることが一目で見て取れる幸せな表情。

 また、彼女の夫は、妻の笑顔のため、人の目から見て彼女が一番綺麗に見えるよう、この日のために手を尽くした。

 人の美醜がわからないながらも、彼の献身は見事に実を結んでいた。

 

 ベールの下で、少女の長い髪と赤い瞳が鮮やかに映える。

 誓いの場では、前方の席に着座した人間の王子が呆けたように口を開けて見惚れ、元公爵令嬢は彼の腿をつねった。



 そして、つつがなく式は終わり、くだけた歓談の時間に入る。

 新郎新婦は各人の席を回り、一人一人、来賓たちへと挨拶していった。


 ただ、新婦は件の王子を前にした時、どこか気後れした様子で王子から距離を取る。


「本日はお招きいただきありがとうございます。あの……失礼ですが、何かこちらでご無礼がありましたでしょうか?」


 王子は「はじめまして」と一礼した後で、そう尋ねて彼女の態度を訝しんだ。


 けれど、王子は彼女の正体に気付くことはなかった。

 目の前の美しい花嫁が、いつかの魔女と同じ名前でも、自らが不誠実に振った少女だとは決して思い至らない。


 親しい者ならすぐに気付くその違いは、服装や化粧の有無という、うわべだけのものに過ぎないのに。


「あ、あのっ」


 少女が戸惑っていると、魔王が庇うように前に出て、王子に言った。


「お気になさらず。妻も皆様の前で緊張したのでしょう。多くの方々に祝って頂けて、夫婦ともども感謝の念に堪えません」


「ど、どうも」


 二回りほど大きい魔族の男がズイと無遠慮に近づいたため、王子は笑顔をひきつらせた。


「特に、王子殿下には、個人的にお礼を申し上げたいと思っていたのです」


「わ、私に……ですか?」


 魔王はどこか威圧的な微笑で語り掛ける。

 王子が首を傾げた時、魔王は少しだけ口角を上げて言った。


「あなたがこの娘を手放したことで、私は最愛の人と結ばれることができた。今、私たちがこうしていられるのは、言うなればあなたのおかげです。殿下には感謝してもしきれません」


「え……?」


 王子は両の目を瞬かせながら、少女の方を見る。

 それから数秒の後、「……あ!」と大きな声で、すべてを理解したように瞠目した。


「き、君は……き、北の、魔女……」


 夫のつぶやきに妻である元公爵令嬢も遅れて状況を飲み込めたらしく、「えっ」と声を漏らし、青い顔になる。


「それでは、他の方々へもご挨拶に回らねばなりませんので。失礼」


 魔王は優雅に礼をして、妻をエスコートし、その場を去っていく。




「……あの、良かったんですか? あんなことを言ってしまって……」


 その後、人の集まりから離れたところで、魔女だった娘は小声で夫へと尋ねた。


「ん? ああ、あの王子のことか。別に問題ないだろう。彼の何を貶したわけでもなし」


「それはそうですけど……」


 少女は、王子が自分に気付かなかったことにも驚いたが、それ以上に、魔王が彼に多少の皮肉をぶつけたことにも驚いていた。


「ちょっと、意外でした」


 上目遣いで少女は言う。

 すると魔王は、どこかいたずらっぽい笑みを見せ、優しい声でこう答えた。


「お前を泣かせたんだ。あれぐらいの意趣返しはいいだろう。できることなら、もっとガツンと言ってやりたかったくらいさ」


「……まあ、陛下ったら」


 彼女は小さく笑って夫の腕に体を預ける。


 それから二人は微笑みあい、ゆっくりと人の輪へ入っていく。

 誰もが二人を祝福する、穏やかな光あふれる輪の中へ。


 

 魔女は夫に寄り添いながら、心の中で強く誓った。

 この人が自分を見てくれていたように、自分も彼のために力を尽くしていこうと。

 いつまでもこの笑顔を、誰より近くで見ていたいと。





 ──これは、とある森の魔女のお話。

 

 もとは令嬢だった少女が、異国の王に見初められ、最後はお妃様になるという、ごくありふれたおとぎ話──



<おわり>

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捨てられ魔女は蒼の手乗り竜に愛される 龍田たると @talttatan2019

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