第8話
自ら「下の名前で」とお願いしておきながら、いざ名を呼ばれると紅潮してしまいすごく気恥ずかしい。それゆえ、自然と視線は佐原……さんとは反対の、助手席から左側の窓の外に向いてしまう。
「ええと、道路沿いにあるのは田んぼでしょうか。北海道でも稲作を行っているのですね」
勢いで、目に入った風景について口にしてしまった。北海道といったら、小麦、大豆、じゃがいも、玉ねぎが主たる生産物だろう。正直、稲作のイメージはなかった。
「陽菜先生、北海道は新潟県に次ぐ米の生産地ですよ。特に、この上川地方と、隣接する空知地方で北海道の稲作生産の7割を占めています。全国でも指折りの産地とも言えるエリアです」
……マジですか、知らなかった。北海道の農業といったら、先に挙げた品目と、あとは甜菜や酪農が定番ですよね。少なくとも社会科授業においては。
「私も北海道に来てから知ったことですけどね。米作りが盛んということで酒蔵もいくつかあるみたいですよ。もしよろしければ、今度ご一緒に地酒の味を見てみませんか、お酒が大丈夫でしたら」
佐原さんはとても優しい口調で語りかけてくれた。お酒のお誘いにちょっぴりドキドキするも、それ以上に地理の知識が劣っていたことにショックを受けた。これでは教師としての面目が立たない。どうにか挽回しようと私は話を継いだ。
「こんな冷涼な地域で稲作ができるって、やはり最近の地球温暖化の影響でしょうか? このように生態系への影響があるのなら、全力で対策に取り組んでいかないといけませんね」
うん、私がんばった。こうして環境問題や時事問題に結びつけるのも教師っぽいだろう。そんな私の言葉に、佐原さんは視線も動かさず、表情も変えずこう返した。
「いえ、北海道の稲作は明治初期に札幌近郊の入植者が成し遂げたもので、旭川周辺も100年以上前に一大穀倉地帯となっています。地球温暖化が取り沙汰される遥か昔のことです」
――うわー、やってしまった! 無理に賢しらぶった数十秒前の自分を抹消したい!
そんな気持ちを必死に飲み込んでいると車内に暫しの沈黙が流れる。気まずいと思った瞬間、佐原さんが柔らかく言葉を発してくれた。
「陽菜先生は環境問題にも関心が強いのですね。ご立派な姿勢だと思いますよ」
「は、はいっ。とは言っても些細なことしかできていませんが。そうそう、エコバッグは常に持ち歩くようにしていますね。レジ袋の使用削減は、原料である石油の消費の抑制に繋がりますからね。いっぱい石油を消費してしまうと地球温暖化が加速してしまいますから。だから、気に入ったエコバッグを見かけるとすぐに買う習慣がついてしまい、家の中がエコバッグだらけになったことも……」
と、しどろもどろになりながら話していると車は赤信号にひっかかった。すると、進行方向に固定されていた佐原さんの視線が私の目に向けられる。その真っ直ぐな眼差しに私の全身は硬直してしまった。
「陽菜先生、お尋ねしたいことが幾つかあるのですが」
「……ひゃいぇ」
人生このかた発したことがない音が口から洩れた。
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