第7話

 さて、そういった経緯で佐原氏の娘様の家庭教師のお仕事が決まり、北海道の地を踏むことになったのだが……


「家までおよそ2時間の移動となりますので、途中トイレ休憩など必要になりましたら遠慮なくお声掛けください」


 佐原氏の運転する自動車の助手席でそう聞かされた。運転席の佐原氏の視線は進行方向に固定されている。私は氏の横顔に見入ってしまっていた。


――こんな美形だと、奥様もきっと美人なんだろうな。娘様も愛らしい容姿に違いない。


などと考えていると、佐原氏は視線を動かさないまま声を掛けてくる。


「鈴木先生は運転免許はお持ちですか。我が家はちょっとした買い物でも車移動が必須のところにありますが」

「はい、免許自体はあるのですが、取得後に運転したことはありません。いわゆるペーパードライバーというヤツです、お恥ずかしながら」

「そうでしたか、ウチは現在この1台しか車が残っていないので、急用があればこちらを運転いただくことになります。お時間があるときにでも慣れていただいたほうがいいかもしれませんね」


 少しは運転の練習をしておくべきだったかなと軽く自省しながら、佐原氏の言葉にちょっとした違和感を覚える。


「あの、『現在この1台しか車が』とのことですが、前は複数の車を所有されていたのですか?」

「ええ、以前は輸入車を数台保有していたのですが、この地に越したのと同時に全て売却しました。雪深い地域ですので、最低地上高が高い4WDでないと冬場は厳しいようですから」


 ええと、輸入車を数台保有ってどういうこと? ただいま乗っているこの車も、学生時代の友達に乗せてもらった車とは違うことはわかる。嫌な振動も一切なく快適な乗り心地だ。ということは友人の車より遥かにお高い車なのだろう。そんな車をペーパードライバーの私が今後おいそれと運転していいのだろうか。


「佐原様、あの……。『この地に越した』とのことですが、以前はどちらにいらっしゃったのですか?」

「あっ、お伝えしていませんでしたか。私どもは元々は都内に居たのですが、昨年の秋にこの地に越してきました。ですので、私も鈴木先生同様に北海道初心者という訳です」


 東京で輸入車数台保有ってどんな資産家なのだろうか。まあ、私のような半端な経歴しかない小娘を破格の金額で雇用する時点でお金に余裕があるのは察せられるけど。でもどうして、そんなお大尽様がこんな田舎にわざわざ越してきたのだろう。などと考えていると車は赤信号で停車した。常に前方を向いていた佐原氏が助手席側に首を向ける。


「鈴木先生、差し支えなければ、”様”付け呼びはご遠慮いただけないでしょうか。どうにも座りが悪いものですから」

「承知しました。では、 ”さん” 付けで宜しいでしょうか。でしたら、私も”鈴木”姓で呼ばれることに慣れていないものですので、下の名前でお呼びいただけると助かります。学生時代も就職してからも周囲に鈴木姓が複数人存在していて、下の名前で呼ばれることが殆どでしたので」

「わかりました、でしたら ”陽菜先生” とお呼びしますね。先生のお人柄にマッチした、とてもお似合いのお名前ですから、そう呼ばせていただきますね」


と告げられると同時に信号は青に変わる。佐原氏は前方に向き直り、車は発進した。

 

……正直、人生このかた、名前を褒められたことはなかった。しかも「お似合い」なんて。頬が熱くなっているのを自覚した。

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