第15話

十四 誘拐

 大久保家の前は、勧業博覧会に陳列するための商品を詰めた大きな木箱を運ぶ人たちでごった返していた。

「これもお願いします」

 康永が指示する。

「あっちの箱もお願いします」

「これで最後の箱ですかい?」

「はい! ありがとうございます」

 彩香はほっとした。

 これですべての荷物が積み終わった。

 ガラスなので、運搬中に割れてしまうことも考えて、予備の商品も入れてある。サンプルとして配る試供品も多めに用意した。

 あとは前日、会場で並べるだけだ。

「そろそろ出発しますぜ」

 運送業者が知らせてきた。

「わたしも駅まで行ってきますね! 康永さん、いってきまーす」

 彩香は急いで馬車に乗り込んだ。

「あ、彩香さん! ちょっと待って。俺が行くって、ああ、行っちゃったか」

 康永は砂ぼこりを見つめる。

「康永さんが何か言っていたような。ごめんなさい」

 わたしの化粧品シリーズだから、最後まで見送りたいの。

 彩香は馬車の中で苦笑いした。

しばらくして馬車は駅についた。

「若奥様、貨物車のほうに木箱を積み終わりました」

 運送業者が声をかけた。

「お疲れさまでした。本当にありがとうございました」

 彩香は頭を下げた。

 汽車は白い煙を上げている。

 汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き始めた。

 わたしの化粧品たち、いってらっしゃい。

頑張ろうね。

 彩香は遠ざかる汽車をじっと見つめる。

 お母さん。わたし、がんばったよ。

 彩香は胸が熱くなる。

 さあ、帰って康永さんと前祝いをしましょう。

 お母様と洋子さんが今日は美味しいものを用意するって言っていた。

早く家に帰らないとね。

康永さんが心配しているに違いない。

眦ににじむ涙をふく。

視線を上にあげると、空は青かった。

この空は仙台にも続いているはずだ。

 踵を返そうとしたとき、彩香は突然口をふさがれた。

「え?」

 苦しくなって、彩香は考えることができなくなる。

 どうしよう。しまった。

康永さん、助けて。

 彩香は意識が遠ざかっていく。

倒れた拍子に薔薇の香りが広がった。

薔薇の香水の蓋が開いてしまったようだ。

 

『彩香、愛しているよ』

『康永さん。わたしも……』

 康永がわたしの体を抱きしめる。

 康永さんとずっとこのままでいたい。

 

これはサキミ《先見》だわ。

いつか、康永さんとこんな日が来るのかしら。

霧が立ち込め、映像が消え始める。

 

残念だわ。幸せな気分だったのに。

 意識が浮上してきた。


ああ、なんだか頭が痛い。それにのどが渇く。

 

気が付くと、座敷の布団に寝かせられていた。

この布団の柄、知っている。

まさか?

どうしてこうなったのかしら?

 仙台へ行く汽車を見送ったのは覚えている。

康永さんのもとへ戻ろうとした時、口をふさがれたんだっけ。

 見慣れた景色だ。

ここは、大河内家だわ。

 なぜ? 大河内家にわたしがいるの?


「どうしてわたしがお金を使ってはいけないの?」

 真由美の怒鳴る声だ。

 彩香は、声のするほうへ歩き出す。

「何を考えているんだ。大河内家の事業が危ないんだぞ? こんな時でもぜいたくをするのか。だいたい事業がうまくいかなくなったのも、真由美が離縁されたせいなんだぞ」

 健太郎がいう。

「お前たち、やめなさい。ゴホゴホッ」

 恵一の咳の音がした。

「真由美、お前がこの家にいたいなら、健太郎と結婚するしかないんだ。わかっているのか?」

 恵一が呆れた。

「いやよ、だって、健太郎はお金もないし、華族学校にも行っていない。本当は彩香のことが好きなくせに。なぜ健太郎が跡継ぎなのよ」

「健太郎くんはサキミ《先見》の力が発現している。お前より次代当主にふさわしいんだ」

 恵一が説得する。

「そんな……。昔からバカにしていた健太郎にサキミ《先見》が?」

 真由美は顔をゆがめた。

「別に俺はお前と結婚したいとは思わない」

 健太郎は真由美を侮蔑する。

「どうしてこうなったのよ。すべてお姉さま、彩香のせいよ」

 真由美は泣き出した。

「今更彩香のせいにしてもしょうがないだろう? 自分で松平家に嫁ぐと決めたくせに」

 健太郎が振り向いた。

「あ、彩香。なぜここに!」

「どうして、お姉さまがここにいるの? まさか健太郎が攫ったの……? よくやったわ」

 健太郎と真由美が声を上げた。

 真由美の顔はあちらこちら腫れていた。

 美しさにこだわる真由美の、肌が荒れている。

 彩香は思わず後ずさりした。

「そうだ、彩香。わたしと交換しましょうよ。彩香は健太郎と結婚したらいいわ。健太郎と仲がよかったじゃない。それに健太郎はずっと彩香のことが好きだったのよ。よかったわねえ。わたしのために彩香をさらってきたんでしょ」

 真由美は喜色をたたえる。

「お帰り、彩香。俺は大歓迎だ。真由美が大久保家に嫁げばいい」

 健太郎は嬉しそうに笑みを浮かべる。

「ご、ごめん。気持ちは嬉しいけど、わたしの旦那様は康永さんだから。もう決めているの」

 彩香が困った顔をした。

「そんなこと言って……。本当は健太郎のことが気になったんでしょ。健太郎とわたしが結婚しちゃうって」

 真由美は意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「全然知らなかったの。本当よ」

「いいのよ、わたしが大久保家に嫁いでも。彩香はこの家がお似合いよ」

 真由美は彩香の腕をとった。

こっちは座敷牢があるところだ。

 

この景色、見たことがある。

サキミ《先見》の通りだ。

婚約者との顔合わせの時に視た。

まずい。このままじゃ、お父様が危ない。

お父様を守らないと。


「や、やめて。わたし、帰ります」

「どこに帰るの?」

 真由美は彩香をじっと見る。

「彩香は俺のそばにいればいい。俺が守ってやる。サキミ《先見》でもそうでていた」

「健太郎、やめて。やだ」

 彩香は抵抗する。

「健太郎君、サキミ《先見》があったのかい?」

 恵一は目を輝かせ、健太郎ににじり寄る。

「ちがう。そのサキミ《先見》、間違っているわ。健太郎、あなた本当に見えているの?」

「見えているに決まっているだろう」

「あなたのは願望じゃない? もしかして大木野の跡取りが死んだ原因のサキミ《先見》って健太郎なの?」

 彩香が尋ねる。

「まさか、そんな? 健太郎、お前のサキミ《先見》は偽りだったのか? なんてことをしてくれたんだ」

 恵一の顔が青ざめた。

「うるせえなあ。サキミ《先見》の力はある。ただ、その使い方は自由だろう?」

 健太郎は悪い笑みを浮かべる。

「大木野の当主に偽りのサキミ《先見》を伝えたのね?」

 彩香は眉をひそめた。

「そんな、お前、大河内家をつぶす気か。異能の一族同士でつぶしあいになるぞ」

 恵一は慌てて健太郎に近づいた。

「お父様、それ以上健太郎に近づいちゃだめ!」

 彩香が叫ぶ。

「健太郎、お前って奴は……」

 恵一は激高する。

「彩香を他所にやるのがいけないんだ。俺は昔から彩香が好きなんだよ」

健太郎は、殴りかかってきた恵一を迎え撃つ。

「ゴン」

 恵一の体が空中を飛んで、頭が柱に打ち付けられた。

 恵一は動かない。

「キャー」

 真由美は立ちすくんだ。

「お父様! 大丈夫ですか?」

 彩香が近寄る。

「ううううう」

 恵一は息絶え絶えだ。

「ようやく彩香が手に入る。彩香、これからはずっと一緒だよ」

 健太郎が彩香に一歩ずつ近寄る。

「わたしは、わたしは、健太郎と結婚しないから」

「彩香、もういいんだ。すべてが解決した。俺が大河内家を継ぐ。真由美が大久保家と婚姻を結ぶ。全て解決だ」

 健太郎が彩香の腕をつかむ。

「ちがうの。聞いて、健太郎。わたしは、本当に康永さんのことが好きなの……」

「彩香!」

 息を切らしながら、康永が現れた。

「お前、彩香に何をするんだ!」

 頭に血が上った康永は、健太郎の顔を思いっきり殴る。

「いててて。何をするんだ」

 健太郎は不敵な笑みを浮かべる。

健太郎から彩香を守るように立った。

「康永さん……」

 彩香の目に涙がたまる。

「彩香は、後ろに下がって」

 康永に言われ、彩香は小さくうなずいた。

「昔からお前のことは気に入らなかったんだよなあ」

 健太郎が指を鳴らした。

「こっちもだ」

 康永が睨む。

 健太郎が右手を振りかざすと、康永は健太郎の懐に入り、拳を顎に当てた。

 健太郎の体は、襖にぶつかる。

「くっそ」

「俺には勝てないよ?」

 康永が余裕の笑みを浮かべた。

「彩香は俺がずっと見守ってきたんだ」

 健太郎は悔しそうに言う。唇を切ったようで、血が出ていた。

「ああ、彩香を生き延びさせてくれてありがとう。それだけは感謝している」

「お前のためじゃない」

 健太郎は面白くない顔をした。

「わかっている。でも、俺は彩香が好きだ。彩香のことを愛している。ずっといっしょにいたいんだ」

「健太郎、ごめんなさい。わたしも康永さんのことを愛しているの」

「はああ。しょうがねえな。彩香が幸せになれるなら」

 健太郎はため息をついた。

「いままで本当にありがとう」

 彩香は目に涙を浮かべた。

「彩香さんの前で暴力を見せてしまった。ごめんよ」

「ううん。康永さん、怪我はない? だいじょうぶ?」

 康永の手に彩香は視線を移した。

「ああ、俺は大丈夫だ。健太郎は、彩香のために体を鍛えていたんだな、唇を切っただけだ」

 康永はさっと健太郎に近づくと、あっという間に傷を治した。

「治療なんてするなよ」

 健太郎は不貞腐れている。

「今まで彩香を護ってくれていた礼だ」

 彩香は健太郎の傷がなくなり、ほっとした。

「康永さん、ありがとう」

 彩香がいうと、康永はほほ笑んだ。

「あとは、恵一さんの傷だ。これはひどいな」

 康永は両手を恵一の頭に添えて、治癒の力を注ぐ。

 ゆっくりと頭の傷はふさがり、血は止まった。

「ありがとう。康永くん。それから彩香、無理やり連れてきて済まなかった。康永くんと思いあっているとは思わなかった。私とお前の母ともそういう関係が作れたなら、未来は違っていたのかもな」

 恵一はゆっくりと口を動かす。

「傷はふさがりましたが、この病は治せませんよ」

 康永は厳しい顔をした。

「ああ、わかっている。これは寿命だ。サキミ《先見》の力の代償だな。彩香の母親が死んだ後、当主としてわずかにある力を使って、サキミ《先見》をしていたんだ。今は、健太郎君が代わりにやってくれているがね」

「これが、大久保家の治癒の力……。すごい。ねえ、その力でわたしの顔を治してよ」

 真由美は康永に近づく。

「ちっ、彩香の天敵がきた」

 健太郎が嫌そうな顔をした。

「ああ、ひどい。どうしてそんなことを言うの?」

 真由美は甘い声で媚を売る。

「真由美、今の化粧品、肌に合わないんじゃない? 違うものを使ったら?」

 彩香が真由美の顔を見る。

「彩香に言われたくないわ。ねえ、康永さん、治してよ。すぐに治るでしょ?」

「はああ、こんなの、舶来品の化粧品をやめて、しばらくすれば治る」

 康永は一瞥をくれた。

「ちゃんと診て。今すぐ治してよ」

 真由美は康永の服を握る。

「この力は、治らない病気を治すためにある」

「あ」

 真由美の手を振り払い、康永は彩香の手を取った。

「あなた、何があったんです。これはどういうこと?」

 直美が慌ててやってきた。

「さあ、彩香。康永くんと行きなさい」

「でも……」

「お前はもうここの人間ではない。行きなさい」

 恵一は小さな声でつぶやく。

「お父様、さようなら」

 彩香は康永の顔を見る。

「帰りましょう、大久保家に」

「ああ」

 康永は彩香と手を握りしめて歩き出した。


 車の中で、しばらく二人は黙っていた。

「あの、ごめんなさい。わたしが勝手に一人で駅に行ったから……、康永さんに心配をかけてしまいました」

 彩香は俯いている。

「彩香が無事ならいいんだ。ただ、一人で出歩くのは危険だってわかってほしい。せめてうちの車で行くとか、考えてほしい」

「はい……」

 彩香は素直に返事をする。

「お願いがある。サキミ《先見》をしないでほしい」

「え?」

 彩香は驚いた。

「サキミ≪先見≫は未来を覗くため、他の異能よりも体の負担が大きいんだ。俺は彩香と一緒に年を取りたい」

 康永は彩香の手を取る。

 指先から康永の熱さが伝わってきた。

 うるさいくらい高鳴る胸の音。

「わたしもずっと康永さんと過ごしたいです」

『彩香、愛しているよ』

『康永さん。わたしも……』

 康永に熱のこもった目でまっすぐに見つめられる。

二人は引かれあうように距離を縮めた。

 甘い親密な空気に期待しすぎて眩暈がしそう。

 康永と彩香は視線を絡ませ、影が重なろうとした瞬間、

「はい、そこまでですよ」

 車の窓を叩かれた。

「うわ、洋子さん」

 彩香と康永は飛び上がった。

 いつの間にか、屋敷の前に着いていた。

「ほほほほ。結婚の儀まで、それ以上進んではいけませんからね。坊ちゃん、わかってますか」

 洋子はニヤッと笑った。

「ううう、わかっている」

 康永は拗ねた表情になる。

 あのまま近づいていたら、二回目の……。

 指先で唇を触り、キスを思い出した。

彩香はたちまち恥ずかしくなる。

「彩香さん、無事でよかった」

 慶子が手を握った。

「お母様。実は、わたし、サキミ《先見》の力があるんです。黙っていてすいませんでした」

「ふふふ。そんなこと、大したことないのよ」

 慶子は笑みを浮かべている。

「でも……」

 本当なら、異能の発現は、婚姻にとって重大なはずだ。

「康永と彩香さんが幸せかどうかが大事なの。異能の有無で苦しむことはないのよ。人間は強いわ。そんな能力、なくたって幸せになれるのよ」

 慶子は彩香を抱きしめる。

「母上は変わっているんだ。俺のことも治癒の血とか身体強化とか関係なく、愛してくれた」

 康永は肩をすくめた。

「わたし、ここにいてもいいですか」

「もちろんよ。あなたはもううちの家族よ。どこにも行かないで」

 慶子と康永は大きく頷いた。

 ありのままの私を受け入れてくれるんだ。

 胸が暖かくなり、涙があふれる。

「彩香、謝らないといけないことがある。治癒の力は、限界があるんだ。全ての人を救うことはできないし、寿命が尽きることは防げない。その、つまり、彩香の父上、大河内恵一さんを救うことはできない。ごめん」

 康永は悲しげに目を伏せる。

「サキミ《先見》の力もそうです。未来の全てがわかることではないんです。ただ、カギとなる一部が脳裏に浮かぶだけ」

 康永と慶子に説明する。

「わたしの母は正確にサキミ《先見》をすることができましたが、わたしはまだ精度が荒いんです。万が一のために、能力を訓練していこうと思います。康永さんやお母様に何かあったら困りますから」

 彩香は口を引き結ぶ。

「彩香さんがサキミ《先見》の力を鍛えたいというなら止めない。でもなるべく使わないでくれ。特に人前では注意してほしい。あなたが利用され、命を削る様をみたくない」

「わかっています。これは家族の秘密です」

 彩香は小さく笑う。

「彩香さんは力をつかわず、坊ちゃんと幸せになればいいんです。坊ちゃんが治癒力を使いすぎないように見張っていてください」

 洋子がパシッと康永の肩を叩く。

「痛いなあ」

 康永は手で肩を撫でた。

「ありがとうございます。康永さんと幸せになります」

 彩香は涙が止まらない。

「泣いていても、やっぱりうちの奥さんは可愛いなあ」

 康永は彩香の涙をぬぐった。

「康永と彩香さんとの子どもはどんな子になるんでしょう。結婚の儀が本当に楽しみね」

 慶子が冷やかすと、康永と彩香は首まで赤くなった。

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