1章 15話
天井が見えた。
いつも通りの、古ぼけた木製の天井だ。
寝ぼけた頭のまま身を起こせば、刺すような痛みが肩に走った。
「ハクト?」
驚いた声が隣からして、ハクトはなるべく肩を動かさないように振り返った。
「……ああ、キャロか」
見慣れた顔に気が緩む。
対するカロアンは驚いたように目を瞬かせていた。
「ああって……大丈夫なのか?」
「誰に向かって言ってんの」
「お前、丸二日寝てたんだからな」
「二日も?」
随分寝ていたのだろうとは思ったが、それほどとは予想外だった。
治りかけの傷口と、嫌な記憶がじわじわと疼く。
酷い現実と、酷い夢。
それらを覆い隠すために、ハクトはわざと軽口を叩いた。
「心配してくれたのか?」
「そりゃするだろ」
カロアンが神妙な顔で返す。
拍子抜けした気分で、ハクトはまた寝台に身を埋めた。
「お前こそ無事なわけ?」
「ん? ああ、多少はというか、まぁ怪我はしたけどお前ほどじゃねえよ」
「オレだってそんな怪我はしてない」
「してんだろ。塞がった傷がまた開いたとか何だとかで滅茶苦茶だったんだからな」
おそらく魔力の枯渇のせいだろう。
ハクトは忌々しさを込めて舌打ちをした。
魔力だか何だかのおかげで傷の治りは異常に早いが、その分枯渇した時は厄介だ。意識を失うくらいで済めば良いが、どうやら今回はそれ以上だったらしい。寝ていた自分には知る由もないが。
カロアンが言いづらそうに口を開く。
「あーあの妖精野郎、帰ったみたいだぞ。レミが多分そうだって」
「知ってる」
「一緒だったのか?」
「……あいつが裏切ったとかそういうのじゃないからね。あぁ、レオラのことは裏切ったとも言えるんだけど、」
「細かいことはどうでもいいよ。じゃあ別れの挨拶はできたんだな」
思い出すのも億劫で、何も考えないまま頷く。
まともな別れではなかった。
それだけは確かだ。
「考え過ぎんなよ」
カロアンが言う。
「なんか小難しいこといつも抱えてるみたいだけど」
「お前みたいに馬鹿になれって?」
「その方が楽だ」
ぽん、とずいぶん控えめに頭を叩かれる。
まるで子ども扱いだ。
「風にあたって来る」
起き上がろうとすれば、カロアンが呆れたように肩を押さえる。
「ちょっとは大人しくしてろって。ガキじゃあるまいし」
「ガキじゃあるまいし、言うこと聞いて大人しく寝てるだけなんて無理だね」
「せめて何か食ってからにしろよ。持ってくるから」
カロアンが立ち上がる。
文句を言おうとして、彼が右足を引きずっていることに気がついてしまった。
何となく、何も言えなくなる。
傷ついたのも、大変だったのも、自分だけではない。
そんな当然のことを初めて知る。
「足、大丈夫なの?」
独りよがりの気まずさを隠すようにそう言えば、カロアンは意外そうに眉を上げて、それから笑った。
「誰に向かって言ってんだよ」
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「あのハクトくんが人の心配?」
レミが楽しそうにけらけらと笑う。
「色々あったけど、良かったじゃない」
「あいつにとってはな」
「あなたにとってもでしょ」
肩を竦めるカロアンの背をパシリと叩く。
全く素直じゃない。
カロアンもハクトも、そして恐らくリディも、不器用すぎるのだ。
周りくどくて、言い訳ばかりで、言葉をちゃんと言葉にしない。
レミだってそれほど素直なわけでも器用なわけでもないが、彼らの在り方はあまりにもったいないと思えた。
別れは、唐突に来るのだから。
「……ハクトくんにはもう話したの?」
「いや」
カロアンが表情を曇らせる。
「起きたばっかの奴に言えないだろ」
「いつ言うの?」
「わかんねぇよ」
「どんどん話しづらくなるわよ」
わかってるよ、とカロアンは億劫そうに首を振った。
余計な口出しだとはわかっている。
それでも、放っておいたらまた何も言えないままになってしまうような気がした。
リディとの別れ方を、レミは後悔している。
ありがとうでも頑張れでも、何でも良いから言えば良かった。
こんな後悔を二人にはしてほしくない。
窓の外を見遣れば夏に変わり始めた青空が澄み渡っていて。レミはどうしようもなく泣きたい気分になった。
「まぁ、ハクトくんが無事で良かったや」
「……そうだな」
「ハクトくんによろしく言っておいて」
適当な果物とパンを籠に入れてカロアンに渡す。
自分で言えよとカロアンは笑ったが、レミはハクトと自分が話すことはもうないだろうと思った。
彼のことが好きであるのは事実として変わらないが、それは美しさへの恋だった。
彼に寄り添う想いではない。
花を愛でて空に焦がれるのと何も変わらない想いだ。彼はそんな好意を望まないだろう。
「これも感情の自由な在り方よね」
一人になって口にした言葉は、やけにからんと部屋に響いた気がした。
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何に対しての苛立ちかもわからないまま、カロアンはちっと舌打ちをした。
レミに対してでも、ハクトに対してでもなく。それならば自分宛てなのかといえば、別に今の自分にそれほど不満はない。むしろこれまでの人生を思えば、最も納得のいく状態かもしれないとさえ。
ちらと目を遣った窓の外は静まりかえっていて、こんなのはいつぶりだろうと思う。
この街が静かだなんて。
笑えてくるほど遣る瀬無かった。
「ハクト」
戸口で声をかければ、彼は敏い目で訝るように窓外を見つめていた。
気がつくよな、と小声で呟く。
振り返ったハクトが、説明を求めるように首を傾ける。
「何かあったのか?」
「……そりゃ、お前もよく知る通り何かはあっただろう」
「レオラからの損害は、ここまで街が大人しくなるほどだったの?」
「…………」
「……キャロ、隠し事はなしだ。どうせすぐわかることだろ」
「はぁ……そうだよな」
ぐしゃぐしゃと頭を掻く。
どうしたものか。
どう伝えればこの年下の青年を追い詰めないでいられるだろうか。
必死に考える自分と、そんなことはできやしないと言う自分がいる。どうせ誰もが追い詰められているのだから、と。
カロアンはハクトの顔を見て、不意にどうしようもない無力感を覚えた。
ハクトのために自分ができることなど、何もなかった。
もし彼に家族がいたなら、親が、姉や兄がいたなら、彼を守り抜いただろうか。
溜息のように、しかし慎重にカロアンは言葉を口にする。
「クリュソ国が来た」
ハクトの表情が揺れる。
「……オレが寝てる間にか」
「ああ。昨日だ」
「それで、占領されたのか?」
「……いや、まだだ」
「まだ?」
言いづらいが、話し始めた以上は引き返せない。
カロアンは苦々しく言葉を継いだ。
「クリュソが条件を出している。取引だ。呑まなければ属領としての扱いになるが、呑めばクリュソの一都市として扱うって話だ」
属領と都市の正確な違いなど知りはしないが、奴隷制度があるクリュソにおいて、被征服者という立場がどういう意味を持つのかは想像のつく話だ。
ハクトが顔を歪める。
「随分一方的だな」
「そうだけど、抵抗できねぇよ。俺らも疲弊してるし向こうはかなり本気だ。規模も戦力も今までとは違う」
「オレがいても?」
「当たり前だ。その状態で戦えるなんて言うなよ」
「……条件ってのは、何なの?」
この先を言わずにいられたら、どれほど良いだろうかとカロアンは思う。
現実を現実にする役目なんてやりたくなかった。そもそも真面目な話なんて自分には向いていないのだ。
それでも、逃げられない。
カロアンは重い口を開いた。
「ハクト、お前の身柄だよ」
「……は?」
何の冗談だと言うようにハクトがこちらを見る。
「どういう意味?」
それを上手く説明できるほど、カロアンは器用ではなかった。
だから愚直に事実だけを口にする。
それがどういう結果に繋がるか知りながらも。
「そのままだ。お前を兵士として欲しがっているんだと思う」
「なんで?」
「知らねぇよ。ただレオラの東部領を退けたことが何だとか言ってたから、ずっと監視されていたんだろうな」
ハクトは特別だ。
それは誰の目から見ても明らかな事実で、そんなことはカロアンが誰よりもよくわかっていた。
ただ強いだけじゃない。特別なのだ。
きっと他の誰にも超えられない、何か大きな力が働いているようにさえ思う。
だからこそ、クリュソのこの条件は呑めなかった。
「ハクト、逃げろ」
こうして間違った判断を下す。
「まだクリュソの奴らはお前が起きたことを知らない。今なら逃げられる」
「……逃げて、それでどうすんだよ」
「クリュソとレオラじゃなくたって国なんていくらでもある。セロだって、何なら大陸の外に行っても」
「オレのことじゃない、お前らがどうするんだって言ってんだよ」
ハクトが声を荒げる。
記憶にある限り、初めてのことだった。
鮮やかな緑の目が、必死の色をしている。
いつも俯瞰したようにどこか遠くにいた彼が、今やっと目の前に現れたような気がした。
いや、自分が見ようとしなかっただけで、本当はずっとここにいたのかもしれない。
「お前ら見捨てて、一人で生きろって?」
「……ハクト、」
「そんな人生をオレは選ばない」
「じゃあ誰かの下について生きるのかよ。お前はそんなふうには生きられないだろ」
誰かのために自分を犠牲にするハクトなど、何より自分が見たくなかった。
傍若無人で、気まぐれで。誰にも従わず、何にも属さない。
そういう彼であって欲しかった。
嫌い続けるためにそう思うのだと考えていたが、そうではなかったと今ならわかる。
「お前は犠牲になるべきじゃない」
ハクトの瞳が、鮮やかな鋭い瞳がカロアンを見据える。
目を合わせたカロアンは、ハクトが決して揺らがないことを悟ってしまった。
「オレの生き方を決めるのはオレだ。お前でも、クリュソでもない」
敵わない。
カロアンは一つの事実を噛み締めた。
「ありがとうな、キャロ」
そう言って彼は笑う。
ハクトには、最後の最後まで、ただ一度も敵わなかった。
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