1章 13話

 暗い廊下に二人分の足音が響く。


 慣れていたはずの屋敷が知らない場所のように思えて、ラルディムはこっそりと手を握り込んでいた。


 深夜、零時はもうすでに回っているだろうか。屋敷の中はひっそりと静まりかえっていた。


「それ、本ですか?」


 ロガレルに言われて、アニエから貰った本を図嚢に入れていたことを思い出した。

 ちょうど良い事に近くに蔵書室がある。


「ああ、貰ったんだ。古言語だからまだ読めていないんだけれど、辞書を借りても良い?」


 ラルディムはそう言って、蔵書室の扉に手をかけた。


「あ、今の時間は……」


 ロガレルが止めようとするように声を発したが、その時にはもう扉を開いてしまっていた。


 ロガレルを振り返ろうとしたラルディムは、ふと視界の隅に人影を捉えて固まる。


 心臓が冷えるような気がした。


 ゆっくりとこちらに向けられたその青い目に、記憶が呼び覚まされる。

 彼は酷く冷淡な口調で言った。


「お久しぶりです」

「……ザミス、だよね」


 六年ぶりにあった彼は、ラルディムの記憶とは随分変わっていた。

 ひとつに結わえられていた黒髪は短く切りそろえられ、自分よりも低かったように思う身長もとうに追い越されている。


 変わらないのはその目だけだ。


 ラルディムは誤魔化すように笑みを浮かべた。


「……一瞬、気が付かなかったよ。随分変わっていたから」

「殿下はお変わりないようで」


 その言葉には明確な悪意があった。

 思わず顔を伏せる。


「ご健在だったのですね」


 その一言で、簡単に六年前に引き戻されてしまう。


 また生き残ったのか、と。

 他ならぬ彼から言われた、一生の呪いだ。


 息ができない。


 ロガレルは珍しく抑揚のない声で口を開いた。


「ザミス、黙れよ」

「……長く会っていなかったもので、繊細な方だと忘れてしまいましたよ。申し訳ありません」

「その程度で礼節を忘れるなら一度学び直したほうが良いだろう。君の御家族は、その点不十分だったようだからね」


 ラルディムには普段決して見せない悪意ある言葉に、本来ロガレルもこういう人だったと思い出す。

 明るい面ばかりを見てきてしまった。いや、それしか彼に与えられていなかったのか。


 ザミスが何か言い返そうとするように口を開く。

 息苦しさを堪えて、ラルディムはロガレルの肩に手を触れた。


「良いよ、ロガレル。私の問題だから」


 ロガレルが案ずるように顔を顰める。

 ラルディムはそれには応じず、ザミスに顔を向けた。


「すまないね、まだ暫くは生きそうだ。君には迷惑をかける」

「…………」


 卑屈な言い方だと我ながら思うが、ザミスは何も言い返さなかった。

 ただ軽蔑したように眉を寄せる。


 それで良い、とラルディムは思う。

 ロガレルは微かに舌打ちをして、またザミスへと視線を戻した。


「君のお兄様が来てるよ。会ってくれば」


 言いたくなさそうにロガレルが言えば、ザミスが驚いたのか目を見開く。


「兄上が? 何故?」


 途端に冷淡だったザミスの表情が子どもらしい色を持つのを、ラルディムは不思議な気分で見つめていた。

 ラルディムの記憶が正しければ、ジスクとザミスは異母兄弟だ。それでも随分と仲が良かったように思う。


 ザミスは決して悪人ではないのだ、とラルディムは心の奥で再確認した。

 彼は気に入らないものを気に入らないと口にするだけだ。

 ただそれだけ、悪でも何でもない。


 ロガレルは肩を竦める。


「お兄様に直接聞けよ」

「……そうですか、失礼します」


 それだけ言うと、ザミスは足早に二人の横を抜けていった。

 ロガレルが呆れたように溜息を吐く。


「あの兄で、この弟か」

「そういう言い方はやめてあげなよ」


 やんわりと止めれば、意外そうにロガレルは首を傾ける。


「どうしてです?」

「比較は良くないよ。彼にも思うところはあるのだろうし……」

「アレはそんな殊勝な人間ではないでしょう」

「さぁ。私は彼のことをよく知らないから」


 ラルディムは肩を竦めた。

 これから彼と、どう付き合っていけば良いのだろうか。

 嫌われていることもその理由もよくわかっているが、今更どうこうしたからといって認めて貰えるとも思えない。


「無理してアレに関わることはありませんよ」


 ロガレルが言う。

 彼はいつも、優しい嘘をつくのだ。


「いつまでも逃げられないよ」

「批判と悪意は別物ですよ、ラルディム様。アレが口にするのは悪意だ、避けて良い」

「悪意を抱かれるだけの理由が私にあるということだ。自覚もある」

「それが、真面に相手をする必要のあることだと?」

「そう思う」


 頷いて見せれば、ロガレルが不満そうに眉根を寄せる。

 嘘でも虚勢でもなく本当にこう思っているのだと、どうすれば彼に信じてもらえるだろうか。

 彼のように確立した自己を持つ人間には、到底理解し難いことだろう。


「彼も悪い人ではないから」

「貴方はいつも、都合の悪い言葉しか聞かないんだな」


 呆れと言うより悲しむようにロガレルが言う。

 ラルディムは薄く笑って、曖昧に首を振った。


 ザミスとは幼少の頃からともに学び生きてきた。

 彼はラルディムという人間をよく知っている。その言葉は、例え悪意がこもっていても一定以上の正しさを持っているだろう。


 そう言って笑えば、ロガレルは諦めたように首を振った。


「どうも貴方は自省的すぎるな」

「それが私だよ。君やジスクのようにはなれない」

「極端ですね、全く」


 ロガレルは笑って、書架から一冊の本を取り出した。

 分厚い辞書に、ここに来た目的を思い出す。


「ああ、そうだった」


 受け取ろうとしたが、ロガレルは辞書を持ったまま歩き出した。


「主君に持たせませんって」

「そういうの良いのに。ありがとう」

「どういたしまして。それにしても古言語の本なんて面倒なもの、よく読む気になりますね。ロベッタにあったのも意外ですが」

「……魔術についての本らしいから、民間伝承をまとめた類ではないかな」


 ロガレルが微かに眉を顰める。


「魔術、ですか」

「ロガレルはそういうの、嫌いだったよね」

「貴方も同じでしょう? あるかもわからない神秘や魔術を妄信する人間が、どれほど愚かなことをしでかすか」

「でも君はその目で見れば信じる。そこも私と同じなはずだ」


 正確には、ラルディムとロガレルは少し違う。

 ロガレルはその経験と信念に基づいて世界を見ているが、ラルディムはロガレルに基づいた価値観を持っているだけだ。


 似ているのではなく、同じ思考をするようになった。


 それほどまでに、ラルディムの世界はロガレルによって作られていた。


「見たのですか?」


 ロガレルは何気ない口調で、しかし真剣に尋ねた。

 ラルディムは頷く。


「なるほど、悪魔ってのはそういう事だったか」


 ロガレルのぼやきにラルディムは首を傾げた。


「悪魔?」

「彼のことですよ。ハクトでしたっけ? ロベッタ攻略に失敗した兵士達からそう呼ばれていたのが気にかかっていて」

「彼はそんなのじゃないよ」


 ラルディムは極力穏やかな笑みを口元に貼り付けた。

 強いようで孤独を恐れていた彼が、そんな言葉で疎外されてしまうのはどうにも受け入れられない。

 わかっていますよ、とロガレルは笑う。


「魔術が使えようと人は人。ただ嘆くべき無知がそういう区分けをしてしまうのも仕方の無いことです。だから俺は宗教が嫌いなんだ」

「宗教は知識と進歩を阻む、かな」

「誰が言ったんです、それ?」

「君だよ」


 ロガレルが眉を上げる。


「よく覚えてますね、本当に」

「ロガレルの言うことは面白いよ。私は宗教に傾倒しやすい精神性をしているから、特に印象深くてね」

「貴方が傾倒するかはともかく、宗教は全ての物事を神という答えで説明できてしまう。例えばハクトを悪魔とするのは簡単ですが、大切なのは彼の魔術がどこから来たのか、どう扱われるのかです。彼の原点を知ることに意味があるのに、悪魔と名付けて見失ってしまう」


 ロガレルらしい考えだと思った。

 常に物事の中心に現実がある。未来や過去や理想でもなく、現実を彼は見ている。


 皆彼のことを天才と呼ぶが、彼が真に優れているのは発想や行動、話術ではなく、その思考法にあるとラルディムは思っていた。


 それだけに、追いつけない。


 内心の澱みを押し隠すように、リディは曖昧に微笑んだ。


「私は宗教にも美点はあると思うけれどね。ところで南部領主家は慣例的に熱心な白玉教の信徒ではなかったかな」

「はは、そんなもんクソ食らえですよ」


 そう言って笑う彼に、神の話はするまいと思う。

 ロガレルのことは好きだが、全てを話すような相手ではない。彼が唯一なのだから尚のことだ。


 ロベッタであったことのどこまでを彼に話すべきだろうか。


 測りかねている間に、眉間に皺でも寄っていたのだろう。ぽん、とロガレルが辞書の表紙を叩く。


「さ、難しいことは今は忘れて、考えるのはまた明日にしましょう」


 いつの間にか部屋の前まで来ていたようだ。

 数日空けただけなのに、そこは随分懐かしく思えた。

 ノブに手をかけて微笑む。


「……そうだね。今日は本当にありがとう」

「お疲れでしょうから、ゆっくりお休みください」

「休める最後かもしれないしね」


 軽口には応じず、ロガレルはただ笑った。


────────────────────────


 短いノック音が響く。

 早いなと苦笑しながら、ジスクは扉を開いた。


「ザミスか?」

「扉を開けてから確認するのでは意味がないじゃありませんか」


 生意気さの残る口調で弟が言う。

 こんな夜分に訪ねてくるのはお前くらいだろうにとジスクは内心で呟く。


 会うのは数ヶ月ぶりだったが、背丈の他は何も変わっていないようだった。

 青い目が夜灯にきらきらと光る。


「お久しぶりです、兄上」

「二ヶ月くらいか?」

「三ヶ月ぶりですよ。ちゃんと覚えていてください」

「そうだったな、元気にしていたか?」


 人懐こい笑みを浮かべてザミスは頷く。

 誰に対してもこの態度なら良いのだが。


 先程のロガレルの様子を見るに、殿下との関係は以前よりも悪化しているようだった。

 そんな兄の気も知らずにザミスは楽しそうに話している。


「また少し背が伸びたでしょう? まぁ、兄上にはまだ追いつけそうにないけど。あ、そういえば母上が会いたがっていましたよ。あの人なりに兄上のことを心配していますし、もちろん心配なんて要らないでしょうけど、近いうちに本家にも顔を見せてあげてください。無理にとは言えませんけれど」

「ザミス。わかったから、一度に喋るな」

「三ヶ月も会ってなかったんですよ。話すことなら沢山あります」


 いつもにましてお喋りなのは、大方この屋敷に話し相手がいないせいだろう。好き嫌いの激しい子どもだ。ラルディムとロガレルを嫌っているならば、その周囲の人物とも相入れないはずだった。


 もう少しくらい他人に寛容になってくれれば、ザミス自身も生きやすいだろうと思う。


「悪かったよ。もう少し頻繁に顔を見せるようにする」

「約束ですからね」

「わかった」


 異母兄など普通なら疎ましいばかりだろうに、この弟が何故自分を好くのかジスクにはわからなかった。


 父も死んだ前妻との子のジスクよりも、後妻との子であるザミスに目をかけている。ザミスの方が家の中での立場は強いのだから、自分のことなど無視しておいても良いのにと思う。

 ジスク自身もそれで不満はない。

 その程度の事情はザミスも把握しているだろう。


 脳をよぎる何十回目かの疑問は口にせず、ジスクはただ笑った。


「で、今回は何があったんですか。六年ぶりにあの人も見かけましたし、異常事態ですか?」


 幼い声音を幾らか落ち着かせて、ザミスが尋ねてくる。

 知らないふりではなく、本当に何も聞かされていないようだった。


 あの人、と言うのはラルディムのことだろう。

 ザミスはラルディムの侍従だ。本来ならば最も近くで支えるべき存在なのだが、物事はそう上手くいかない。釘を刺す前に二人が会ってしまったのは誤算だった。揉め事を起こしていなければ良いのだがと思う。


「……お前は関与していないんだな?」


 確認のために聞けば、当然だとザミスは頷いた。


「僕はあの人のことには一切関わりありませんよ。お互いに関与したくないんですから」

「それなら知らないままでいろ。どうせ追って沙汰がくる。一応お前は殿下の侍従のままだから、当然無知も処罰の対象ではあるがな」


 ザミスは肩を竦める。


「それで罷免されるなら大歓迎ですよ。身分や立場を理由に、その価値がないものに付き従うなんてごめんです」


 若いと言うべきか幼いと言うべきか。

 ジスクは眉を顰めた。


「口にだすな、ザミス。ここは家でもなければ自領ですらない」

「僕は間違っていますか?」

「そうは言ってないだろ。お前がどんな主張を持っていようと口は出さないが、振る舞いには気をつけろ。殿下がそうしようと思えば、お前の首も俺の首も軽い」


 とん、とザミスの首筋を叩く。

 少しくらい重く考えてくれれば良いと思ったが、しかしザミスはいつも通りの自信に満ちた笑みを浮かべた。


「その気概がある人になら初めから従っています。僕を罷免するでもなく逃げ籠るような弱い人間に、どうして膝をつきましょうか」

「……弱い人間、か」


 ラルディムという人間を弱いと評することに間違いはないだろう。


 だがロベッタでのあの瞬間、あの人は決して弱くなかった。


 どちらが本質なのだろうか。


 怯えたように目を伏せる姿と、拳銃を自らに向けたあの姿、そのどちらを彼とすれば良いのか、ジスクは測りかねていた。


 しかしそれを今ザミスに理解させるのは無理だ。

 何より自分もまだ答えを出せていない。 


「殿下がどうあれ、少し情勢が動く。軽率な言葉は控えろよ。お前は口が悪い」

「はい、兄上」

「誰に対してもそのくらい聞き分けが良ければ良いんだが」

「無条件に他人に従うなら奴隷と何が違うのですか?」

「口が悪い」


 自分を一片も疑わないことがザミスの強さだ。そしてその主張は、大抵の場合正しい。受け入れ難く思う人は多いだろうが、これまで誰も彼の考えを否定できなかった。

 ジスクも大筋は正しいと感じている。

 問題は行動の幼さ、そして主君との相性の悪さだ。


 ラルディムの翡翠色の目を思い出す。


 伶俐な人だった。六年前とは全くの別人だと思っていた方が良いだろう。


 だからと言ってザミスが変わらない以上、改善は難しいはずだ。


 慌ただしい日々になる。

 ジスクは溜息を零した。


────────────────────────


 窓の桟を雫が伝う。

 ぽつりと、雨の名残。


「まだ目を覚まさないかい?」


 レミははっとして顔を上げた。


「アニエさん」


 戸口に立つ彼女は、珍しく疲れ切っているように見えた。

 手に持つ盥には血に染まった布が乱雑に投げ込まれている。


「うん、寝てる」


 ハクトの額に手を伸ばして、そのまま隣に手を下ろす。

 触れてはいけないような気がした。


 レオラが急に兵を引いた後、カロアンが気を失っているハクトを見つけたのだが、そこから一度も目を覚ましていない。


 生きてはいる。


 それなのに、何かが抜け落ちてしまったようだった。


「傷は?」

「今は落ち着いてる。もう開いたりしないと思うよ」

「本当に無茶する子だねぇ。心配ばかりかけてさ」


 アニエは盥を置いて、レミの隣に座り込んだ。


「レミ、アンタも休みな。看病だの手当てだので疲れてるだろう」

「アニエさんこそ」

「なに、私はこの程度慣れっこさ。ロベッタってのはこういう街だ」


 自由の代償だよ、とアニエは呟く。

 眠るハクトを見下ろして、レミはきつく指を組んだ。


 物言わぬ彼はまるで人形のようで、あれほど強く見えていたのに、今は触れれば消えてしまいそうにさえ思う。


「……ずっと、戦うのかしら」


 こんなことが、これからずっと続くのだろうか。

 戦って、傷ついて、そうしてみんな死んでいくのだろうか。


「レミ、」

「アニエさん、それなら自由なんていらないよ。自由の代償がこれなら、レオラでもクリュソでも何でも良い。ロベッタが自由都市である必要なんてないじゃない」


 情けないほどに涙が溢れる。

 抱きしめてくれたアニエの腕に縋るように、レミは嗚咽を漏らした。


 ハクトもカロアンも、みんな傷ついた。リディがどうなったかもわからない。死んでしまった人もいる。


 自分は何もできなかった。

 ただ帰りを待っていただけだ。


 アニエが優しく背を撫でてくれる。


「傷は癒えるよ、レミ。大丈夫」

「……いつまで続くの」

「さぁ、でもいつかは終わる。人間は強いからね、耐えられるさ」


 違うのだと心の中で叫ぶ。

 耐えられてしまうから辛いのだ。苦しいのだ。 

 耐えて、耐えて、そしていつかぽっきりと折れてしまう。そんな未来が容易く想像できて、どうしようもなく恐ろしかった。


「知ってるだろう。ハクトは強い、きっと目を覚ますよ」


 アニエが微笑みながら言う。

 レミはただ頷くしかできなかった。


 アニエだって苦しいだろうに、もっと長い間耐えてきているだろうに、泣くだけしかできない自分まで慰めてくれる。


 ぐいと頬を拭って、レミはありがとうと笑ってみせた。


「その盥、私洗ってくるよ。アニエさんは休んで」

「……良いのかい?」

「ええ、動いてた方が良いもの」


 立ち上がって、また泣き出してしまわないうちに部屋を後にする。

 深夜の酒場はいつもとは違い静かで、しかし微かに呻きやすすり泣きが聞こえた。


 不安が街を覆っている。


 水場のある裏手に回ろうとしたレミは、ふと窓外を見る影に気がついた。

 同時に向こうもレミを振り返る。


「ああ、レミか」

「カロアン。寝てなきゃ駄目じゃない」


 聞き慣れた声に近づけば、疲れた顔はしているがいつも通りの彼がいた。


「泣いてたのか?」


 からかうようにカロアンが言う。

 レミはふいと顔を背けた。


「もう、見ないふりしてよね」

「悪かったよ。あいつは?」

「ハクトくんなら、まだ。でも傷は治りが早すぎるくらいよ」

「そうか」


 安心したのか、表情が緩む。


「ありがとうな」


 また窓の外に目を向けて、カロアンはそれだけ言った。

 月が昇っている。

 消えてしまいそうなほどに細い、白く光る三日月。


「あなたは、大丈夫なの?」


 何を言って良いのかわからなくて、レミはそんなことを口にした。

 大丈夫なわけがないことは知っている。カロアンだってかなり酷く負傷していた。特に脚の怪我は後遺症になるかもしれない。


「ま、平気だろ」

「平気って、そんなわけないじゃない。ちゃんと休まないと」

「眠れないんだ。見逃せよ」

「ハクト君が起きてあなたがぶっ倒れてたら世話ないわよ」

「はは、違いねぇ」


 カロアンが笑う。


「お前も休めよ」

「もちろんよ。これ洗い終わったら私も寝るわ」


 盥を持ち上げて見せる。


「だからあなたも早く、」 

「外に出るなら肩貸してくれ。風を浴びたい」


 思いつきのように立ち上がったカロアンを慌てて支える。

 案の定脚の調子は良くないようで、包帯には血が滲んでいた。

 悪いと笑うカロアンに、レミは口を尖らせる。


「私は寝ろって言ったんだけど?」

「手伝ってやるから、頼むよ」

「……手伝わなくたって良いわよ」


 人が弱みを見せるのは、余程の時だけだ。

 肩にかけられた腕から伝わる体重は想像よりもずいぶん軽くて、やるせない思いになる。


「そういや、レオラのガキは?」


 レミはさあと首を振った。


「わからないけれど、ハクトくんを助けてくれたんだと思うわ」

「兵を引かせたのもあいつか」

「多分ね。本当、どこの誰なんだか」


 自分たちとは全く違う世界に生きている人だった。

 思わず笑みがこぼれる。


「また会えるかしら」

「そりゃ無理だろ」

「もう、夢のない男ね」


 裏口から夜空の下へ出る。

 夏が始まりかけているとはいえ、雨上がりの夜風はまだ冷たかった。


「ねぇ、やっぱり傷に障るんじゃない?」


 心配になって言えば、大丈夫だと手を振られる。

 戸口の壁に背をもたせて、カロアンは座り込んだ。やはり脚が痛むのだろう、その動作はひどく緩慢だった。


「良い夜だ」


 独り言のようにカロアンが呟く。

 レミは何も答えなかった。


 汲み上げた水を盥にあければ、すぐに血で濁ってしまう。

 その澱みはこの街の現状そのもので、月も映らない汚れた水面にレミは溜息を零した。


「ずっと、死んでくれって思ってた」


 カロアンが不意に口を開く。

 それはいつかの話の続きだった。


「……うん」

「邪魔で仕方なかったんだけどな。いざ死ぬかもしれないと思ったら……変な気分だ」


 風が声を夜に攫いあげる。

 灰色の目は何かを探すように空を映していた。 


「結局俺は、あいつのことを何も知らない。どうやってもひとりで戦っちまう。勝手な奴だよ」


 譫言のようだった。

 熱が出ているのだろう、苦しそうな呼吸でカロアンは話し続ける。

 レミは手を伸ばして、洗ったばかりの濡れた布でその額を拭った。


「何考えてるのかわかんなくて、本当、面倒で。でも置いて行かれたくなかった」

「一緒に居たじゃない」

「あいつはロベッタを出る。そう言ってた。笑えるほど遠いんだよ」


 二人の様子からなんとなくそうなのだろうと感じていた。

 レミはただ頷く。


 アニエは皆この街を去るのだと言った。だがカロアンは、そして自分も、死ぬまでこの街にいるだろうという確信がある。


 そしてそこにハクトはいない。


 根拠など無く、ただそういうものだと感じていた。


 疲れたのかカロアンが目を閉じる。

 呼吸が浅い。

 洗いかけの盥はそのままに、レミはカロアンの腕を取った。


「部屋に戻りましょう。私たちには明日もあるんだから」

「……ああ」


 別れはいつか来る。

 その全てを忘れて生きていたい。

 疲れ切った街に、月明かりはどこまでも弱々しかった。


────────────────────────


 ひとりになって、溜息がこぼれる。

 ラルディムは髪をほどきながら、ほとんど倒れ込むように寝台に身を臥せた。


 積み上げた本と空の鳥籠の他には何も無い自室。


 ここには誰もいない。


「終わってしまったな」


 声に出してしまう。


 ロベッタに行ったのは、人生に対しての最後の抵抗だった。


 何かが変わると思っていたわけでもなく、何を期待したわけでもなく、ただ、一時で良いから自分から逃げたかったのだ。


 それももう終わり。

 そろそろ自分に、レオラ国のラルディムに戻らなくてはならない。


 目を閉じる。

 夜の静寂に耳を澄ます。

 ハクトはどうしているだろうか。


 カロアンたち他の皆も無事だと良いのだが。

 それを知る術はなく、きっともう二度と彼らの誰とも出会わないだろうと思う。

 リディと一緒に、あの六日間も死んだ。


「……私は、どうすれば良かったんだろうね」


 ハクトたちを守ろうにも、もっと上手いやり方があったはずだ。

 自国に仇をなし、ジスクには仲間を殺させてしまった。


 もはや自分一人で責任を取れる話ではない、ロガレルにも相当の迷惑がかかるだろう。それにたった一回の侵攻を退けたとて、それが何になると言うのか。どうせ次は耐えられまい。


 今日のことだけでも後悔ばかりだ。


 こんな自分ではできることなど、一つもないのかもしれない。

 ザミスの冷淡な目を思い出して、途端に息苦しくなる。


 自分が死ねば彼は喜ぶだろうか。


 考えて、それでもやはり彼は軽蔑したように顔を顰めるだけだろうと思った。彼はラルディムの不甲斐なさを嫌っているのだから。


 それに、今更もう死ねない。


 図嚢に手を伸ばして短剣を取り出す。


「君のせいで死ねなくなってしまったよ、ハクト」


 笑い混じりに吐き出した声は、自分でも意外なことに、少しだけ楽しそうな響きをしていた。

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