1章 12話

 小さな荷馬車の一隅に、顔を隠したまま座り込む。

 押しつぶされそうなどの現実の重みに、これからどうなるのだろうという不安が這い寄ってくるようだった。


 さっきまでは言わば衝動だったのだ。自分でも理解し難い何かに突き動かされていたようで、その後のことなど考えてはいなかった。


 しかし現実はこれだ。


 レオラに帰り、背いた全てと対峙しなくてはいけなくなる。

 リディでいられる時間は終わってしまった。


 強まった雨が天幕を叩く。


 荷台は締め切られていて、今どこにいるのかもわからなかった。

 何ならどこへ向かっているのかも。

 当然ながら、ジスクは何も話してはくれなかった。


 少し外を伺おうと入り口に手を伸ばす。

 ちょうどその時、外側からも天幕が開かれた。

 ぱっと伸ばしかけていた手を引っ込める。


「……大人しくしていてください」


 ジスクだった。

 濡れた黒髪の隙間から、鳥類を思わせる金色がかった目が呆れたように向けられる。


 思わず俯いてしまった。

 全く、情けない。


「何かありましたか?」

「いや……ただどこに向かってるのかと思って」

「風景を見てわかるのですか」


 棘のある言葉だった。


「すまない」

「……いえ」


 少しの間があったが、しかしジスクは特に何も言わなかった。

 文句の一つでも言ってくれればいっそ気楽なのにと思う。

 愚かさを罵ってもらえた方が余程良い。


「本隊は東部の駐屯地に行きますが、この荷馬車は南部領に向かっています」


 意外なことにジスクは説明してくれた。

 無視されると思っていたため戸惑ってしまう。


「え? 南部って、どうして?」

「当然でしょう。貴方をロベッタに送り込んだ奴はそこにいるのですから」


 そのまま中央に帰されると思っていた。

 当然だとジスクは言うが、随分温情のある処置だ。

 不思議に思ってその顔を見上げるも、冷たい口調でジスクは言う。


「きちんと説明して頂きますよ、殿下」


 久しぶりに耳にした呼称に、心臓が冷えるような気がした。


────────────────────────


「こんな夜分に急な来訪とは穏やかじゃないね」


 軽やかな声にハッとして目を覚ます。

 荷馬車は止まっていた。

 ということは南部領にもう着いたのだろうか。


 随分と早い。

 かなり急いだのだろうと思うと同時に、急ぐ荷馬車の中で呑気に眠れた自分に苦笑する。


 今の時間はわからないが、夜のうちに着いたということは南部領主の別宅だろうか。ロベッタに行く前、数ヶ月滞在していた場所だ。慣れている場所で良かったと思う。


 外で何か話しているようだったが、そのうち一人の声だけがやたらと聞こえていた。

 大きいというより、よく響く快活な、そしてリディがよく知る声だ。

 安堵が込み上げる。


「ま、君が非常識をするときは大抵俺に文句があるときだろうからね。叱られないように大人しく招き入れてあげるよ」


 大仰な言い回しに苦笑する。全く彼らしい。

 再び荷馬車が動き出して、入口が少しだけ開かれた。


「起きておられますか?」


 ジスクの声だ。

 雨はもう止んだようだった。


「ああ、うん」

「南部領主の別宅に着きました。私は馬を休ませて来ますから、屋敷の前に止まったらあれに従ってください」

「あれ?」

「愚弟が。ここに置いて行ったのでしょう?」


 さっと血の気が引いたのが自分でもわかる。

 ジスクの弟、ザミス。

 今一番会いたくない相手だった。


「殿下?」

「……ああ、わかった」


 声が震える。

 光のない夜で良かったと思う。きっとひどい顔をしているから。


「それには及ばないよ、ジスク。俺がご案内するから」


 割り込んだ声に驚いて、入り口に目線を戻す。

 ランプの灯と、それに照らされるよく知った横顔があった。


「アレは使わない。良いね」


 ジスクは何か言いたげに眉を顰めたが、黙って頷いてそのまま荷馬車を離れる。

 彼はこちらを振り向いて、ひらめくような笑みを浮かべた。


「六日ぶり、ですね」

「ああ。ありがとう、ロガレル」


 いつも通りの彼に心底安心させられる。


 ロガレルは南部領主の一人息子で、この六年間自分が関わってきた唯一の相手だった。

 彼の顔を見た途端、何が辛かったわけでもないのに、気が抜けたように何故か涙が溢れてしまう。


 ロガレルはランプを側に置いて、少し声を落として言った。


「すみません、少々大ごとになってしまいましたね。ジスクが動くとは予想できなかった。俺の落ち度です」

「元々大ごとをお願いしたのは私だよ。むしろ巻き込んでしまってすまない」

「俺に謝る必要はないですよ。貴方の俺ですから」

「だからこそだよ」


 彼が断れないことを知っていて、無茶を頼み込んでしまった。

 立場とはそういうものだとわかっていたのに。

 六年ぶりに聞いた呼称が、耳の奥で響く。


「また暗いこと考えてます?」


 ロガレルが笑い混じりに言う。


「貴方の悪いところですからね、何事も重く考えすぎです」

「……結構重いことを引き起こした自覚があるのだけれど。六年間の引きこもりも含めてね」

「そんなこと些事ですよ、些事。俺は自分が処理できないことは関与しませんから」

「でも君に任せきりだ」

「貴方には重いことでも、俺にとってはそれほどなんですよ」


 強気な言葉に、少し笑ってしまう。

 こう言われても嫌な気持ちがしないのは、彼の強さを知っているからだ。


「ご存知でしょう? 俺は天才なのでね」


 強い自負。そして誰一人、それを否定できない。

 ロガレルは言葉通りの人間だった。

 これだから彼が好きなのだ。

 ロベッタを出てから不安しかなかった胸中が少し晴れる。


「ああ。よく知ってる」

「それじゃあ余計な心配は忘れて。明日になったら楽しい話でも聞かせてくださいよ。俺もあの街には興味があるんです」


 ゆっくりと馬車が動きを止める。

 見慣れた景色。


「さ、行きましょう。ラルディム様」


 そう呼ばれて、ふとロガレルの顔を見る。


「……変な気分だ」

「何がです?」

「久しぶりにそう呼ばれたから」


 ラルディム。


 呼ばれ慣れていたはずの、懐かしい自分の名前。

 殿下という呼称と共に、戻ってきてしまった現実を思う。


 小鳥のままではもういられない。


 安心感で蓋をしていた恐怖に、足首を掴まれた気がした。


────────────────────────


『やあ、少年』


 耳慣れない声がして、ハクトはぎくりとして振り返った。


 そこにいたのは一人の女。地面を擦るほど長い黒髪に、風変わりな黒いローブという魔法使いか何かのような風貌に、何より異質なのは顔を覆う黒い布だった。


 この街の人間でないことは明らかだ。

 逃げるために立ち上がろうとするも、凍りついたかのように動けなかった。


『そう怯えるな、ハクト』

「……誰」

『神様だよ』

「は?」

『女神だ、知らないか? この世界には二人の女神がいて、白と黒の二つの宗教に信仰されて……まぁ、こんな街じゃ仕方なしか』


 そう言って納得したように頷くと、神を名乗るソレは愉快そうに笑った。

 笑ったまま、宣告する。


『ハクト、お前は明日死ぬぞ』


 脳はとっくに考えることを放棄していた。

 理解できない状況と存在に対して、何故か全てを事実と受け入れる自分がいる。


「……どういうこと」

『生き延びたいか?』

「当然だ」

『この先幸福になれるかもわからないのに、それでもこんな世界で生きていたいのか?』


 からかうような言い方だった。

 ハクトをではなく、生きている全てを嘲るような、そんな。


『お前がこの先どれだけ生きても、両親に会えることはないぞ。自分の正体は謎のまま、頼りもなしにたった一人で、広い世界の狭い街で生きていたいのか?』

「……まだわからないでしょ、何も」

『未知の中に希望があると願うのか。純粋で美しいなぁ』

「死にたくないんだよ」


 ハクトは吐き捨てるように言った。


「こんなところで死にたくない。なんでオレばっかり、何もわからないままで死ななきゃいけないの?」

『お前ばかりではないと思うがな』

「不平等だ。オレには何もないのに、命まで奪われるなんて嫌だ」


 幼い拒絶ばかりが口をつく。


 これの言う言葉の全てを信じる訳ではない。

 明日急に死ぬだなんて言われて、素直に信じられるはずもなかった。


 それでも必死になってしまうのは、きっと未来がないからで。

 明日死なずとも、その先に何もないのは分かりきっていた。


 声が震える。

 涙が頬を伝う。

 ただ目の前の存在と現実が恐ろしかった。


『私を恐れる必要はない、ハクト』

「……考えていることがわかるの?」

『神とは大概そんなものだ。案ずるな、私はお前を気に入っているのだから』


 すっと目の前に手が伸ばされる。


『私の手を取れ、ハクト。生き延びるために必要な力を与えてやる』

「……どうして?」

『お前がどういう人生を歩むのか見てみたいと思ってな。要は暇つぶしだ』

「力って?」

『お前に必要なものだ』


 何一つわからなかったが、わからないままハクトは手を伸ばしていた。

 どうなっても良いと思った。


 変わるなら、未来が得られるならそれで良かった。


 脳の奥の警告音はくぐもっていて、もはや正気に戻してくれはしない。


 ハクトは神の手を掴んだ。


「そう、お前が望んだことだ」

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