1章 11話

 その瞬間だった。


 鋭い破裂音が耳を劈く。


 銃声。


 二人ともがぴたりと動きを止めるのに十分な音だった。


「やめろ」


 この場に相応しくない、落ち着いた静止の声が響く。

 いやに聞き覚えのある声だ。

 ハクトは怒りと呆れを込めて声の方を睨む。


「リディ、どういうつもりで……」


 青ざめた、しかし厳しい顔でそこに立っていたリディは、いつから持っていたのか、空に向かって銃を向けていた。


 雨の中に白い煙が見える。


 おそらくはこの前のクリュソ兵から銃を取っていたのだろう。

 冷静というべきか、抜け目がないというべきか。

 と、その翡翠の目がぐらりと驚きに揺らいだ。


「やめろ、ジスク!」


 ハクトはぱっと青年の方を振り返り、すんでのところで振り下ろされた短剣を躱した。

 剣線に取り残された夕陽の髪が水滴とともに宙を舞う。


 完全に油断していた。


 安全距離を取るが、追撃はない。

 青年は怪訝な顔でリディを見ていた。


「何故、俺の名前を?」

「……どうしてだと思う?」


 リディの声が震えていることにハクトは気がついた。

 緊張か、恐怖か。

 それなのに、どうしてここに来てしまったのだろう。


 馬鹿な奴だと思いつつも、ふと違和感を覚える。

 何かがおかしい。

 リディの顔をもう一度見て、ハクトは気がついた。怯えているが、恐れてはいないのだ。


 自分の行動に確信を持っている。

 何故。


「……まさか」


 ジスクと呼ばれた青年が、信じられないというように呟く。


「まさか、あり得ない」

「……随分会っていなかったけれど、覚えていてくれたようだね。ありがとう」

「どうして、貴方が」


 青年の表情をちらと見て、ハクトは初めてリディを知ろうとしなかったことを後悔した。

 一体どこの誰であれば、この男をこれほどまでに驚愕させられるのだろう。

 あまりにもハクトは、リディのことを知らなすぎた。


「ジスク、取引をしようか」


 リディはにこりと笑ってそう言った。

 強い言葉を吐き、笑顔で全てを覆い隠す。

 自信を臆病だと卑下する少年の姿は、どこにもなかった。


「何を仰っているのですか」


 ジスクが鋭い目をさらにきつく細めてリディを睨む。


「早くそれを置いて、こちらに」


 すっと手が伸ばされる。

 リディはゆっくりと首を横に振った。


「取引と言ったんだ。要求を呑ませたいならばこちらの話も聞かないと」

「……何でしょう」

「ロベッタから兵を引いて欲しい」


 単純で明快な要求だった。

 それだけにハクトは淡い怒りを覚える。

 ロベッタを助けなくてはならない理由なんて、リディには何一つないというのに。


「酷い話だ」


 ジスクが笑い混じりに言う。


「流石に呑めません」

「ああ、そうだろうね」


 リディは当然のように頷いて、それから緩慢な動作で銃を自分のこめかみに向ける。


「お前、何して……」


 思わず声をかければ、リディは困ったように笑ってみせる。


「ごめんね、ハクト。良い方法が私には思い付かない」

「何もするなって言っただろ」

「……君はそうは言わなかった。それに、私が来ることくらい分かっていたでしょう?」


 その通りだ。

 だからこそ来るなと言ったのだ。


「オレらの問題だ、お前のじゃない」


 突き放すように言葉を吐く。


「お前に関係ないだろ、リディ」

「うん。でも、君たちに死んでほしくない」


 全く非合理だった。

 馬鹿らしくて、幼稚で、単純で、しかし止めることはできない。


 ハクトはただ拳を握りしめた。

 助けられる必要がないほどに、自分が強ければよかったのに。


 リディはジスクに目線を戻して口を開いた。


「君が今すぐに撤退の令を出さないのならば、このまま引き金を引こうと思う」

「……それが脅迫になると」


 ジスクの声はぞっとするほど冷淡だった。

 リディの握りしめている銃の先が、微かに震える。


 やや長く感じる沈黙で、リディがかなり慎重に言葉を選んでいることが分かった。

 本当に、自分の命を使って取引をしているのだ。


「君はならないと思うわけか」

「現状、もっとも強い立場にいるのは俺です。この場からどうとでも動かせる。その上、貴方の要求には時間制限があります。脅迫には材料が足りませんね」

「……私が、撃てないと思っているのか、君は」


 ジスクはもう別働隊に指示を出している。この取引の決着がいつまでもつかなければ、その間にロベッタを制圧できるだろう。

 彼が決着を長引かせることを阻止するには、時間制限を、つまり自死の線引きをしなくてはならない。


 リディにそれは出来ないと、ジスクは踏んだのだった。

 拳銃は脅迫に過ぎず、自らを撃つことは出来ない、と。


「他人を害したことのない人間が、自分を殺せるとは思いません」


 ジスクはそう言い切って、リディの方へと一歩進んだ。


「諦めた方が良いかと。私には別の選択もあるのですから」

「……残念だけど、君はいくつか見落としているよ」


 目を伏せていたリディは、ゆっくりと前を向き、そして薄く笑った。

 その笑い方を、ハクトは一度だけ見たことがある。

 未練が消えたと言ったあの時の、あの笑顔だった。


「君の言う別の選択とは、恐らくは私の脅迫を無視することだろうね。私は六年も人前に出ていなかったし、確かにここで死んでもさして問題は無い」

「…………」

「でも私だって独断でここにいるわけではないよ。君が口を割らなければ取引云々は明るみに出ないとしても、私を探す人がいるのだからこの街でこの日に私が死ねば、戦闘に私が巻き込まれたと判断されるだろうね。君も、その責任は免れないだろう」


 今この場で急激に状況が変化しているというのに、リディは淀みなく言葉を発していた。

 虚勢なのか何なのか、その声には確信の色さえある。


「さらには私が死に至らなかった場合、私は君に不利なことを言うだろうね。嘘すらつくかもしれない。君の手で私を殺すか、そうでないならあまり私の不況を買わないほうが賢明だと思うよ」

「……なるほど。今度は通常の脅迫ですか」


 ジスクが変わらない口調で呟く。


 ハクトは不思議で仕方なかった。

 リディは本来この場で最も弱い存在であるのに、何故こうまで強く振る舞えるのだろうか。


 戦闘能力の面でもそうだが、リディはレオラや周辺の人間に対して負債がある。六年間という長い沈黙と、今この場にいるという身勝手だ。

 それら全て何でもないことだと笑い飛ばせるような人間でもないだろうに。


「それにね」


 リディが微笑んだまま続ける。


「私は自分の生き死ににあまり関心がない。何せこの数年間、社会的には死んでいたようなものなのだから」


 ハクトには彼が何の犠牲も厭わないだろうことがわかる。

 死を望んでいる人間だ。

 自分に価値を見い出せない人間だ。


 ジスクもまた、リディの言葉が全て本気であることを既に悟っていた。


「何なら、髪でも切ってみせれば信じてくれるかな? そのために短剣も持ってきているんだ」


 リディは図嚢から短剣を取り出して小さく振って見せる。

 軽く放たれた問いに、ジスクは苦い顔で首を横に振った。

 ハクトは驚きというより困惑したようにそれを見ていた。


「やめてください、わかりました」


 ハクトの方にちらと目を遣ってから、短剣を地面に捨てる。


「条件を呑みましょう」

「君はロベッタから手を引く、私は大人しく君に従おう」

「ええ。しかし、手を引くと言っても今回だけですよ。また必ずロベッタには攻め込みます」

「……あぁ、わかっている」


 ジスクは怒りの混じった溜息を吐いて、腰に提げていた剣の鞘から、細い金属の筒のような物を取り外した。

 短く息を吹き込めば、鳥の鳴き声のような甲高い音が響く。

 笛で本隊に指示を出したようだった。


 遠く聞こえていた喧騒が徐々に静まっていく。


「さあ、こちらは条件を果たしましたよ」


 リディはこくりと頷いて、それからハクトの方へと顔を向けた。

 何か言おうとするかのように口を開くが、その口が言葉を紡ぐことはない。

 諦めたようにリディは目を伏せた。


「またね、ハクト」


 瞬間、ハクトは言いようのない衝動に駆られた。

 考えるより先に口が動く。


「またなんてあるわけないだろ」


 リディは何も言い返さない。

 自分が何故口にするのかもわからぬまま、ハクトは何かに縋るように言葉を続けた。


「これで終わりだ。再会なんてない」

「……そうかな?」

「オレもお前も、今日ここで、お互いの中から死ぬんだよ」

「……君がそう言うなら、そうなんだろう」


 ただ微笑んでリディは受け入れてしまう。

 それがどうしようもなく許せなかった。


「逃げればよかった」


 後悔が口を衝く。


「お前は、自由になりたかったからここに来たんだろ。あの夜、全部捨てて逃げれば良かったんだ」


 別れが惜しいのではない。

 ただ、リディと言う少年が、ここで死んでしまうであろうことが悲しいのだ。

 このロベッタの街に、確かにいたはずの本当の彼が消え去ってしまう。

 跡形もなく、あっさりと。


 それが悔しかった。


「なぁ、リディ。お前は……」


 言いかけたハクトを遮るように、白い手が頬に伸ばされる。

 あの夜とは反対だった。


「人生は長い道行きだ。連れ行く死者は多いほうが良い」


 リディの声からは、何一つ読み取れなかった。

 哀しみだとか痛みだとか、そういう何かがわかりやすく与えられれば、どれほど良かったか。


 言葉を失くしてしまう。


 どうでもよい言葉を吐き続けてきた口は、こんな時ばかり何も言えない。


 リディの手は酷く冷たかった。


「言ったでしょう? 死者は永遠になる。それがきっと一番良いんだ。私の中の君も、君の中の私も不変の存在になれる」

「…………」

「そんな顔しないでよ。悲しいことみたいに思えてくるでしょう」


 二度と会えないことが、どうして悲しくないことなのだろうか。

 自由を、人生を、望んだものを諦めることが、どうして悲しくないことなのだろうか。


「オレは悲しいよ」


 そう呟いて、リディの肩をとんと押す。


「会えて良かった」

「ハクト、」

「お前はオレの神様だよ」


 リディが翡翠の目を見開く。

 一瞬、時が止まったようだった。


「オレには何もわからないから、お前を指針にする」

「それは……私には、荷が重い」

「お前は、今日ここで死ぬオレの中のお前は、正しいから。不変なんだろ」


 もっと正直に言えれば良かった。

 お前は何も間違っていないと、二度と会えなくても忘れはしないと、それだけの言葉がどうしても口から出ていってくれない。


 それでもリディは笑った。


 何もかもわかっているかのように、笑った。


「そういえば、君に言い忘れていたことがあったんだ」

「……何?」

「君の名前の意味」


 何故そんなことを今更言うのか。

 戸惑いつつも、頷いて先を促す。


「嫌がるかと思って言わなかったのだけれど、言うべきだと思って」


 雨音に混じって、その声は揺れているようだった。


「ハクトというのは、古言語で繋ぐという意味を持つ言葉だ。君は自分のために生きたがっていたから、嫌うだろうなと思ってしまった」

「……何で、今言ったんだ?」

「名前には力がある。君の人生は未来に繋がっているって、そう信じて欲しかったから」


 それにと区切って、リディはハクトの目をまっすぐ見た。

 鮮やかな翡翠色が水に揺らぐ。


「それに、きっと君に名前を送った人の願いだったんだろうと思って」

「名前を、送った人」

「一般的には、両親じゃないかな」


 慣れない言葉に、目を瞬かせる。


「……そんなこと、初めて考えた」


 嘘だ。

 ずっと自分のことを知りたかった。

 名前でも何でも良い。手がかりが欲しかったのだ。


 ずっと。生まれてから今日まで、ずっと。


 何かに縋るように髪を伸ばして、いつも、門の上から誰も来るはずのない街の外を見ていたのは、知りたかったからに他ならない。


 リディはきっと、ハクト以上にハクトの孤独を理解していた。

 聡明な彼は別れ際まで何の素振りも見せなかったのだが。

 悔しいような、嬉しいような、整理のつかない感情のまま、ハクトは口を開いた。


「リディ、お前の本当の名前は?」


 答えないだろうとわかりつつ、あえて尋ねてみる。

 リディは困ったように笑って首を横に振った。


「君はリディだけを覚えていてよ」

「最後だろうと素性は明かせないわけだ」

「ここにいた私だけが、君にとっての私だから。それはリディ以外の何者でもないよ」

「……リディの由来は?」

「ただの愛称。意味は小鳥ってところかな」


 似合っているでしょう、とリディは言う。

 ハクトは笑って首を横に振った。


「全然。自分のことを小鳥だと思ってるのはお前だけだよ」


 それほど彼は無力ではない。

 らしくないことを口走っているなと、内心で苦笑する。


 流石に貧血かもしれなかった。雨のせいで血がずいぶん流れた、頭がまともに働いていないのだろう。

 だから、何を言ってしまってもそれは自分のせいではない。


 そんな言い訳をぼんやりと思いながら、ハクトは重ねるように言った。


「またいつか会えたら、その時は一緒に逃げようぜ」


 あるはずがない未来の約束を口にする。

 リディは驚いたように目を見開いて、それから顔を伏せた。


「……ああ。そうだね、その時は、そうしよう」


 偽物の約束だが、冗談ではない。

 リディの声は震えていた。

 お互い、らしくないなとハクトは思う。


 緩やかに落ちた沈黙。


 それを待っていたように、ジスクが口を開く。


「……そろそろ時間かと」

「わざわざ待ってくれてどうもありがとう」


 黙っていれば良いのにと自分でも思うが、余計なことは言わずにいられない性分だ。

 ジスクは呆れたようにハクトに目線だけを向けた。


「ハクト、だったか? その剣はくれてやる。次までに長剣くらいまともに振れるようになれ」

「それまでお互い生きてるといいね」

「残念だが、今のレオラに俺以上に戦える人間はいない」


 強い自意識だが、それが無根拠な虚勢ではないことをハクトは身をもって体感している。


「お前を殺すのは俺だ」


 短い宣告に、ハクトは笑みだけを返した。

 右手には彼の長剣が未だ握られている。


 リディとの再会は信じられないが、この男とはこの先何度も会うことになるだろうと、ハクトは予知めいた確信を持っていた。

 そしてそのいずれも、穏やかな再会とはいかないだろう。


 ジスクは倒れている兵士の一人から外套を取って、リディに手渡した。


「とりあえず、これを被って顔を隠してください。なるべく声も出さないで」

「ああ、わかった」

「それと、気になるようでしたら目を瞑っていてください」

「え?」


 何のことか理解できず、リディは首を傾げる。


「気になるって、何が……」


 そう尋ねかけたときには、ジスクはもう行動していた。

 予想通りの結末に、ハクトはただ黙って顔を顰める。


「なんで……」


 リディが信じられないというように呟く。


「彼は意識がありましたから」


 ジスクは特に何の感慨もなさそうな口調で、味方の死体から短剣を引き抜いた。

 十人いたレオラ兵のうち、ハクトが死か或いは意識を失うとこまで追いやれたのは七人だけだった。


 残った三人。ジスクと、本隊に合流した一人と、足の負傷だけのもう一人。

 リディの存在を隠蔽するその口封じのためだけに、ジスクは倒れ伏していた味方にとどめを刺した。


「こいつは口が軽い」


 無表情のままジスクは言う。

 リディはまだ動揺しているようだった。

 指先が微かに震えている。


「だからって、」

「彼も……サレンも、俺がこうすることはよくわかっていたと思いますよ」


 ジスクはサレンと呼んだ仲間の死体から、リディへと目線を移した。


「ですが、責任は感じてください」

「…………」

「貴方がこんな馬鹿なことをしなければ、サレンは死ななかった。ロベッタも今日、陥落させられました」

「……わかってる」


 血の気のひいた、白い顔でリディは頷く。

 強く握る拳と、噛み締めた唇が酷く痛々しかった。


 サレンという兵士の死それ自体よりも、ジスクに味方を殺させたことにリディは打ちのめされているのだと、ハクトは気がついていた。


 そういう人間だ。

 それでも、かける言葉はないと思う。

 部外者の慰めに何の意味もない。


 それにもう二人の別れは済んでいる。


「本隊に合流しましょう」


 促す言葉に頷いて、リディはそのまま歩き出した。

 迷うように逸らしかけた視線を、自らフードで覆い隠す。


 ハクトと目が合うことはなかった。


 さようならを言うのは難しい。

 死というどうしようもない存在なしでは、明日を諦めきれなくなってしまう。


「馬鹿だな」


 去りゆく後ろ姿に呟く。


 もっと器用に生きられればよかったのに。


 雨が不意に強まり、視界が暗くなる。

 ただの貧血とは違う感覚にハクトは後ろを振り返った。


 予知と同じ感覚。


 何がそこにいるのか、もうわかっていた。


「……久しぶり、神様だっけ?」


 こちらから先に声をかける。

 黒い布で顔を覆ったそれは、布越しの声でくつくつと笑った。


『今日は聞こえないふりはしないのだな』

「しても今日は無駄でしょ」

『幼な子が、ずいぶん育ったなぁ』

「そりゃ十年くらい経ってるからね」

『偉そうな口を聞くようになったな』

「偉そうなのはアンタだろ」


 いつか来るとわかっていた日だからか、それとも自分が変わったのか、不思議と今日は畏れを感じなかった。


『後者だといいな』

「考えが読めるのか?」

『十年前もお前は同じことを聞いたぞ、ハクト。答えは変わらず是だ』

「じゃあ早く消えてくれって思ってることもわかってるわけだ」

『お前が口先だけなこともよく。感動的な別れの後に邪魔をして悪いな』


 楽しんでいるような口調だった。

 ハクトは不愉快さを隠そうともせずに顔を顰める。


「何のために出てきた」

『そう邪険にするな、ハクト。私はお前のことを気に入っているんだ』


 黒く長い袖口から、白い指が伸ばされる。

 ハクトは反射のようにその手を払った。

 瞬間、強い疲労感に襲われる。


『……全く。私の加護で生き延びているようなものだというのに、無知とは恐ろしいな』

「何をした」

『お前が振り払うから何もできなかったよ。贈り物でもしてやろうかと思っていたのだが』

「お前の玩具にはならない」


 できる限りの拒絶を込めて、半ば悲鳴のような声を漏らす。


 雨が邪魔だ。疲弊の度合いも尋常ではなかった。

 頭だってもう少しも回ってはいない。


 しかしソレは、心底楽しそうに笑うだけだった。


『玩具、か。私から見ればお前たちは皆等しく私の玩具だよ。お前はお気に入りというだけだ』

「魔術も未来予知もいらない。さっさと全部元に戻せよ」

『良いのか? その二つのおかげで、お前は今日まで生き延びて、得難い出会いを得たじゃないか。幸福だろう?』

「それがなければ、不幸にもならなかった」

『残念ながら、魔術を持たなければお前はとっくに死んでいたよ』


 声から温度が消え失せる。

 面白がるような不愉快な響きはなくなり、代わりに底冷えするような悍しい虚ろがそこにあった。


 冷や汗が背を伝い、全身が強張る。

 こいつは何を言っているんだ?


『忘れているのか? 人間の記憶は脆弱だな』


 長い黒髪を引き摺るようにして立ち上がったソレは、ハクトの額に指を強く押し付けた。

 焼けるような痛みが走る。


『思い出せ、あの日を』


 暗む視界と脳の片隅で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

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