1章 10話

 それは唐突だった。

 ハクトははっとして目を見開く。


「どうした?」


 訝るカロアンに答えたのはハクトではなく、青い顔で駆け込んできたレミだった。


「大変、早く来て!」

「何があった」


 尋常ではない様子に室内の空気が張り詰める。

 普段は騒動に関心を示さないリディも、翡翠色の目を持ち上げてじっと彼女を見つめていた。

 ここまで走って来たのか、肩で息をしながらレミは細い腕で東門の方を指し示す。


「東門に、軍勢が来てる」

「東ってことはクリュソ兵だな。人数は?」

「そんなのわからないよ。ただ今までよりすごく多い」


 焦りか、それとも恐怖からか取り乱すレミを見て、カロアンはぐっと眉を寄せた。

 一瞬、迷うように目線を揺らす。


「……ハクト」

「何?」


 既に外へ出ようとしていたハクトをカロアンが呼び止める。


「お前、ここに残れよ」

「はぁ?」

「戦えない奴らをこの付近に集める。任せたからな」

「勝手に何を……」

「こんな時くらい言うこと聞けよ」


 反論を許さない強い口調だった。

 気圧されたように、ハクトも一瞬言葉を飲み込む。言い返そうと口を開くも、その時にはもうカロアンは東門へと駆け出していた。


 止めようと伸ばした手が空を切る。


 追えないと、そうハクトは理解してしまった。

 何に対してかもわからない罵倒が零れて表情を歪ませる。


「……追いかけないの?」


 レミが戸惑ったように言う。

 ハクトはただ首を振った。


「何考えてるんだ、あいつ」

「追いかけなよ」

「今更?」

「迷ってなんかいたらもっと遅くなるでしょ! もし間に合わなかったら……」


 カロアンは、ハクトが守ってやらなくてはならないような弱い人間ではない。

 いつも一緒に戦っているわけでもない。

 ハクトが隣に居なければならない理由など、ありはしないのだ。


 そんな思考を遮るようにレミがハクトの肩を掴む。


「あなたたちってどうしていつも一人で生きようとするの?」


 別の人間なのだから、しょうがないじゃないか。

 ぱっと浮かんだ反論を飲み込み、ハクトはぐっと手を握り込んだ。


 別の人間で、いつかは別れがあって、一緒にいる理由なんて一つたりともありはしない。

 そんな相手を、どんな顔をして追いかけろというのだろうか。


「……妙だ」


 ずっと黙っていたリディが不意に言う。

 ハクトもレミも、気が削がれたようにリディを振り返った。


「何が妙だって?」

「クリュソの軍勢がこの時期に動くなんて、ありえない」

「でも敵は東門に……」


 レミが困惑したように眉を寄せる。


「東ってことはクリュソの方角よ」

「それはそうなんだけれど……。クリュソが今、急に戦争に踏み切るはずがない。何か余程の理由があれば別だけど、一週間足らずでそこまで情勢が動くとも思えない」

「じゃあレオラの軍勢なの?」

「……そう思うな。レミさん、敵の軍勢は旗を掲げてなかった?」

「確か……青の小さい三角形の旗を持っている騎兵がいたわ。紋章までは覚えていないけど」


 レミが言い終わらないうちに、さっとリディが顔色を変える。

 怯えの籠ったその表情に、ハクトはこれから起こることを否応なしに覚悟させられた。

 リディが焦ったように言う。


「拙い、東部領の軍だ」

「東部領?」

「実践に長けたレオラ軍だ。わざわざ東に姿を見せたってことは、そっちは囮で西門に本命の小隊がいるはず」

「それって危ないんじゃ……」


 レミが不安そうに指を組む。

 ハクトはただ頷いた。


「ああ、拙いね。オレが行く」

「一人で?」


 批判の込められたリディの言葉に、ハクトは肩を竦めてみせた。


「人手不足だ、仕方ない」


 髪を結ぼうと結紐を手にして、その日常の動作にふと思い至る。

 ハクトは新緑の目でじっとリディを見つめた。


「どうしたの?」

「……一人で行く。お前はここに残れよ」


 カロアンと同じ言葉を口にする。

 それがひどく滑稽に思えて、ハクトは思わず口元を緩めた。


 リディはロベッタから立ち去る人間だ。

 戦争に巻き込まれて、気がついた誰かによって連れ帰られればまだ良いが、そうでなければここで死ぬことになる。

 それは間違っている。こんなところで死んで良い人間ではない。


 そしてそれはカロアンにとってのハクトと同じだった。

 ハクトもまた、ロベッタを去るのだから。


「間違ってもこの前みたいに追いかけて来るなよ」


 それだけ言い残して西門へと駆け出す。

 カロアンのことも心配だが、まずは自分だ。


 戦わなくてはならない。

 生き残らなければならない。


 自分自身の明日のために。


 手にする短剣の冷たさが、嫌に神経にへばりついていた。


────────────────────────


「どうするの、リディくん」


 レミの問いかけに、リディは考え込むように口元を手で押さえた。


 この青年は、まだいくつもの秘密を隠している。

 言葉を交わして、知識を共有して、堅苦しい敬語がなくなっても、リディはまだ大事なことを言っていないと、なんとなくレミは気がついていた。


 それを追求するつもりはない。


 ただ彼が、どんな選択をするのかに興味があった。

 切迫する現状も束の間忘れて、リディの答えを待つ。


「どうって?」


 リディは曖昧に笑う。


「どうすれば良いと思う?」

「私に聞かないでよ」

「そうだよね」

「……でも、レオラはあなたの国なんでしょう。じゃあ、私たちの手助けをする理由なんてどこにもないじゃない」


 責めているように聞こえなければ良いのだが。

 そう思いながら言う。


 結局、自分とリディは元々違う存在だ。

 立場や生い立ちなど、言葉で埋められる理解の溝以上に大きな、国という溝が自分たちの間に横たわっている。

 それを乗り越えてこちらに来いなどと、どうして言えるだろうか。


 リディが意外そうに眉を上げる。


「あ……うん、そうか。そうだよね」

「あなたも敵だって言ってる訳じゃないからね」

「うん、わかってる。ただ自分でも忘れていたから」


 リディはそう言って表情を緩める。


「そうだね、私はレオラ人だった」


 レミは何も言えずその目を見ていた。

 陰りのあった翡翠色が、迷いを拭って澄んでいくように見えた。

 ハクトのような予知能力があるわけでもないのに、ただ一つ、絶対的な確信をレミは得る。


「……レミさん、ナイフを一本借りられないかな。返せるかは、わからないけれど」

「良いけど……どうするの?」

「ハクトの手伝いをする。最悪の想定通りだったなら、私がいることで変わるものがあるから」

「……わかった」


 ただその決断に頷いてみせる。


「ところで。君、ナイフなんて使えるの?」


 パッと開いた引き出しの中には、包丁や調理用のナイフに交ざって短刀が入っている。

 この街では至る所に武器が置いてあった。護身のためであり、今日のような非常時のためだ。

 この短刀もその一つ。決して鋭利なものではないが、人を傷つけるには十分なものだった。


「芋の皮むきもできない子に使いこなせるとは思えないわ」

「はは、そうだね。その通りだ」


 リディが照れ笑いをこぼす。

 そのあまりにいつも通りの表情に、レミは薄ら寒いものを感じた。

 この青年は、どんな時でも同じように笑えるのか。


「まぁでも、刃物の使い方は一つではないから」


 言いながらリディは短剣を図嚢にしまう。それ以外は身一つでここに来た彼だ。

 他に何がと問おうとして、何故か口にできなかった。


「カロアンにこのことを伝えてからハクトを追うよ」

「……うん」

「またね、レミさん」


 また、なんてあるはずがない。

 去りゆく後ろ姿に思う。

 これは別れの挨拶だった、と。


「……馬鹿ねぇ、君も私も」


 力なく下ろした腕で、金の腕輪がかちゃりと揺れた。


────────────────────────


「あいつの言う通りか」


 近くの屋根から西門を見下ろせば、リディの予想通り、そこには十人ほどの兵士が待機していた。


 合図を待っているのか、今のところ動く気配はないが、それをこちらが待ってやる筋合いはない。十人程度なら一人でどうとでもしてきた。


 よしと小さく呟いて、中央にいる一人の男に適当に狙いを定める。

 指先に雷を集めた。運が良ければ、二人はこれで仕留められるだろう。


 指を弾いて雷の弾を撃とうとしたその時、指の先にいた相手が急に振り返った。


 一瞬、彼と目が合う。


 拙いと頭で考えるよりも早く、ハクトは反射的に狙いを隣にずらした。

 落雷というより爆発のような音が響いた次の瞬間、ハクトの頬を短剣が掠める。

 短剣は鋭い音を立てて、すぐ隣の壁に深く突き刺さった。


「なんだあいつ……」


 確認するまでもなく、あの男が投げたのだ。

 束の間見えた顔は随分若く見えたが、間違いなく彼がこの場で最も優れた兵士だとわかる。


 短剣の軌道を追うように、駄目を承知でもう一度雷撃を撃つ。

 いくつか悲鳴があがったが、それもきっと彼のものではない。


 ハクトは短剣を握り直して屋根から飛び降りた。

 砂煙の中に切り込み、無思考で刃を振るう。

 視界が悪い間は、味方を傷つける心配をしないで良いこちらが有利だった。


 一人斬り伏せる。

 もうひとり、背面の気配に向かって短剣を振り抜けば、耳障りな甲高い金属音が鳴った。

 敵の剣に防がれたようだ。


 振り返ればまた、さっきの目。


 危険を察知するのとほぼ同時に、ハクトは自分の身が宙に浮くのを感じた。

 受け身を取り損ねたせいで、壁に背を強く打ち付けてしまう。


 肺から空気が一気に抜けたが、咳き込む余裕もなく、追撃が来た。

 なんとか腕を持ち上げて短剣で受けとめる。


 切迫する中、向こうも驚いたような面持ちをしていることに気がついた。


「子どもじゃないか」


 相手の口がそう呟いた隙に、ハクトはその腹部を蹴りつけた。

 軋む肺を抑えて剣の届かない場所まで飛び退く。


 奇襲は失敗。

 次からは何の工夫もない一対多だ。


「しくじったな……」


 最初の雷撃で一人、次で二人、短剣で一人くらいはそれなりの傷を負わせられたようだが、それでも一対六だ。そのうえあの男がいる。


 勝ち目は薄い。


 しかし無い訳ではない。少なくとも地の利はあった。


「お前ら、レオラ兵だな?」


 意味のある時間を作るための、意味のない問い。

 肺が痛むせいで声に滲む切迫感を隠しきれなかったことを瞬間的に後悔する。


「ああ。こちら側に気がつくとは、賢いな」


 ハクトに剣先をぴたりと合わせたまま、男が答える。

 落ち着いて見れば、カロアンと同じ程度の年齢の青年だった。残りの五人が彼の出方を見ているところから察するに、彼がこの部隊の指揮官のようだ。


 年齢と相応でない立場が彼の身分故なのか、それとも実力に由来するのか、ハクトはもう理解していた。

 薄茶色の瞳は無機質で、何を考えているのか読み取りづらい。


 ハクトは思考を押し隠すように、口元だけに薄笑いを浮かべた。


「全く、こんな小さい街に軍隊引き連れて何度もやって来るなんて、レオラ人は余程暇なんだね」


 煽り立てるようにひらりと手を広げ、密かに標的への距離を測る。


「一度だって成功してないくせにねぇ?」

「何とでも言え」

「言わせて貰うさ。こんな無駄なこといつまで続けるんだ?」

「今日まで、だ」


 言うね、とハクトは顔を顰める。

 眼前の青年が握る剣はひどく美しく、そして何の迷いもないかのように真っ直ぐに見えた。


 全く忌々しい。


「最後の警告だ」


 受けいれられないと分かっていながら、ハクトは声を張り上げた。


「生き残りたきゃ、この街から立ち去れ」

「……よく回る口だ」


 青年がぐっと剣を握る手に力を込める。

 時間稼ぎは十分だった。

 背の痛みも呼吸の乱れももうほとんど気にならない。雷を操る反動の疲労も、ある程度は回復した。


 左腕を横に広げる。


「それじゃあ、再開だ」


 右手の短剣で相手の剣を受け流しつつ、ハクトが狙ったのは近くの軒に吊るしてあった酒瓶だった。

 なるべく広範囲に液体が広がるよう、勢いよく雷を撃ち込む。


 酒。雷。そして兵士たちの金属製の鎧。


 酒の性質などほとんど水と変わらない。


 狙った通り雷は酒の上を走り、三人に直撃、一人は足を焼かれたように蹲った。歩けない兵士は数には入らない。


「残り二人」


 運良く免れた一人と、目の前の青年を見てハクトは笑ってみせる。

 連続して雷を使えば体力の消耗が厳しいが、この状況で温存などできるわけもなかった。


「なるほど、悪魔とはな」


 そう呟いた青年は、ハクトから距離を取って、もう一人の兵士の方へ微かに首を向けた。


「本隊に、合図を待たず進軍しろと伝えろ」


 あまりに強気な命令だった。

 十人中八人もがこの短時間で戦闘不能になったというのに、敢えて一対一を選ぶとは。


 しかし兵士も異を唱えることはなく、そのまま西門へと駆け出して行った。

 止めるべきかと一瞬考え、考えた時点でもう遅いことを悟る。


 ハクトは目の前の敵と向き合った。


「随分と自信家なんだな」

「お前こそ、妖術の類を使えるというだけで勝ったつもりか」

「レオラ人はもうちょっと驚くと思ったけど」

「神のいない国か? 正確には神を殺す国がレオラだ。神だろうと妖術だろうと、神秘の類に畏れはない」

「その妖術に追い詰められているようだけれど」

「冗談だろ。これでやっと平等だ」


 奇襲なしの一対一。

 大抵の相手にならば負ける気はしないが、物事には例外がつきものだ。


 ハクトは冷えた指で短剣を掴み直した。


 体格でも、得物の攻撃範囲でも不利な状況だ。唯一の利はハクトが何をできるのか向こうが知らないことにある。

 とはいえこれ以上何か隠し玉がある訳でもない。はったりにしかならないだろう。


 全く面倒なことになった。


「そういうの、好きじゃないんだけどね」


 ハクトはわざとらしく溜息を吐いて、それからにやりと笑ってみせた。


「やるしかないか」


 青年の無表情が変わる。

 ハクトは相手の言葉を待たずに短剣を投げつけた。

 意表をつかれた相手が、一瞬ハクトから短剣へと意識を揺らがせる。


 その隙だった。


 身を傾けて躱した青年の顔を狙って、ハクトは隠し持っていたもう一つの短剣を振るう。

 目を潰すことを目標に描いた剣筋は、しかし僅かに逸れて頬を斬り裂いた。


「俺の短剣か」


 青年が苦々しく顔を歪める。


 初めに彼が投げた短剣を、いつか不意をつくためにハクトは隠し持っていた。

 近距離まで飛び込めれば長剣の利を殺せる。


 ハクトは素早く右手を閃かせ、鎧の隙間が微かに見える肩口を斬りつけた。

 甲高い金属音が響いて、長剣で受け止められる。

 流石に速い反応だとハクトは内心で顔を顰めた。手を封じられれば良かったのだが。


「……ま、これでも良いんだけどね」


 金属と金属で接している。それが重要だった。

 ハクトは雷を刃の上に走らせた。


 しかし、寸前で察したのか、青年がハクトの右手を蹴り上げる。

 方向性を失った雷は、強い音だけを響かせて宙に霧散してしまった。


 隙ができた上体に長剣が伸びる。


 ハクトは咄嗟に地面を蹴って後ろに飛び退いた。

 刃が掠めた箇所が、まるで焼かれたように熱くなる。


 すぐに二撃目。


 やむを得ないとハクトは、自分の前に壁のように雷を広げた。

 ほとんど膜のような薄さだが、それでも剣という金属の塊で触れるには危険だ。相手の動きを止めるには十分だった。


 がくりと身体から力が抜けるのがわかる。


 追撃は避けられたが、流石に消耗が激しすぎたようだ。

 傷口を押さえれば生ぬるい感触がした。傷自体はさほど深くはないが出血が多い。

 早めに片をつけなくては、時間が経つほど苦しくなるだろう。


「なるほど、大体わかってきた」


 青年が頷きながら言う。

 レオラの東部領、とリディは言っていただろうか。実戦慣れしていると言うのは本当のようだった。


 妖術という彼にとっての未知と対峙しているのにも関わらず、焦りも見られなければ、疲れているようにも見えない。


「……嫌になってくるね、本当」

「初めから大人しく従っておけば良かったものを」

「生憎、オレたちは従属を嫌う人種でね」


 ぐっと唇を噛み締める。

 諦める余地などあるわけがない。


「ロベッタは自由都市だ。誰にも従わない」


 カロアンやアニエのように、この街を愛している訳ではない。

 自由都市なんて大仰な愛称に思い入れもなければ、自分に関わりがないのならどうなったって良いとさえ思っている。


 それでも。

 それでもここで生きてきた。

 ここで戦い続けた理由が、きっとどこかにある。


 それが何かなどわかりはしないが、その何かの為に、ハクトは負けるわけにはいかなかった。


「ここはオレたちの街だ」

「吠えるのは守り切ってからにしろ」


 三度、剣が交差する。

 その一瞬が永遠であるかのように感じられた。


 時間が重みを得る。

 自分も相手も、粘土のような花蜜のような重さの中に沈んでいた。


 相手の動きがはっきりと視認できる。

 理由もなくハクトは、青年も同じ時間を感じているのだろうと確信していた。


 何かに操られているような嫌な感覚。


 運命の糸の上を自分の身体が進み行くその様を、どこかから俯瞰して眺めているような。


 今この瞬間において、ハクトはハクトではなかった。


「全く、ふざけてるよ」


 喉に伸びる剣先に思う。


 全くふざけている。


 自分はいつから自分のものではなくなったのだろうか。

 いつから、それを受け入れるようになったのだろうか。


 ふざけるな。


 重すぎる脳の奥で叫ぶ。


 自分は自分のものだ。

 誰だってその原理を犯すことはできない。


 瞬間、世界が元通りに晴れる。


 ハクトは身を捻り、突き出された剣をわざと肩で受けた。

 衝撃の後、何も感じなくなる。

 痛みも熱も、何かが焼き切れたように一切を感じない。


 それで良かったと思う。


 痛みで動けなくなるのはごめんだ。


 握っていた短剣を手放し、肩を貫く剣身をそのまま掴む。

 一瞬、青年の表情に躊躇いが浮かんだ。


 その一瞬が全てだった。


 剣を伝って雷を走らせる。

 すぐに青年は剣を諦めて手を離したが、躊躇った一瞬のために、右手の表皮を焼かれることになった。

 これで武器も利き手も奪ったことになる。


 肩から引き抜いた長剣を握り直し、ハクトは挑むように笑ってみせた。

 水滴が手の甲に落ちる。


「はは、わかんなくなったね」

「……狂ってるな。失血死するぞ」

「さぁどうだろ。理由は知らないけど、傷の治りは早い方だから」

「限度がある」

「魔術のある世界で何を言っているんだか」


 そう話している間にもじわじわと傷は埋まっていく。

 副作用か酷い倦怠感に襲われるが、血はもうほとんど止まっていた。


「……お前一人に兵たちが手を焼いた理由がわかるな」


 青年が呆れたように言う。

 その手を水滴が打った。

 雨だった。

 空はいつの間にか暗く覆われ、水音が耳を支配する。


 時間が始まったと、ハクトは感じた。


「銀の武器まで持ち出した奴がいると聞いたときは笑ったが、納得したよ。まるで悪魔だ」

「そりゃどうも」


 今更どうだって構わなかった。

 自分が人間であろうとなかろうと、やることは変わらない。

 人間でも悪魔でも、ハクトという自己であることだけは揺らがない事実だ。


「オレらにとっては、やたらと攻め込んでくるお前らの方が悪魔のようだけどな」

「それはどうも。光栄だよ」


 言い返しながら青年はハクトが投げた短剣を拾い、なんでもないことのように左手でそれを構えた。

 これも実践慣れ、と言うやつだろうか。

 ちっ、と舌打ちをする。


 相手の武器を奪えたのは良いが、慣れない長剣での戦闘など、ハクトの方も上手くいくはずがなかった。


 おまけにこの消耗具合のせいで、せっかくの雨だが雷に頼ることもできない。実際の経験こそなかったが、魔術を使い過ぎれば身が持たないというのは本能的に理解していた。


 どう勝つか。


 そう悩んでいる間も、当然相手は待ってくれない。

 雷への警戒もあり、雨が強まる前に片をつけたいのだろう。


 回復しているとはいえ負傷の激しいハクトと、利き手は使えなくともほとんど負傷のない青年では、どちらが有利かは瞭然だ。

 防戦に追い込まれる。


 幸い、相手の動きも先ほどよりは緩んでいた。躱すこと自体はそう難しくないが、しかしどうにも反撃の糸口が掴めない。

 いっそのこともう一撃くらいは食らう覚悟をしてしまった方が良いのかもしれない。


 ハクトは短剣を避けつつ深く身を沈めた。

 隙の大きすぎる避け方だ。次は躱せない。


 しかしこれで、やっと長剣を振るえるだけの空間と時間を確保できた。


 相打ちのつもりで剣を突き出す。

 ふっと見上げた青年の目は、薄茶色ではなく金色に見えた。

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