【短編】わたしの帰る場所は、あなたのところだけ
櫻井金貨
第1話 地下牢の王女
「生まれ変わっても、絶対あなたを探し出す」
「わたしの帰る場所は、あなたのところだけ」
そう愛を誓って———十四歳の少女は、両親とともに処刑された。
***
「タイラス、北の庭には近寄ってはいけない」
王宮の地下には幽霊がいる、と言われていた。
王宮の北棟がある北の庭では、よく幽霊の声が聞こえるらしい。
しかし、タイラスは王宮に来てまだ数週間。
王宮の決まり事などどうでもいい。
義父となった男にはうなづき、深夜、少年はあっさりと寝室を抜け出した。
「きみは幽霊なの?」
夜空は暗く、黒い雲がときおり横切り、細い月をおおい隠す。
北棟に面した北の庭は、広場のようにただ平らな草地が広がる殺風景な一角で、高く茂った木々が囲むように植えられている。
暗闇とかすかな月明かり。
黒い影となっている北棟の前に立った小さな人影は、微動だにしない。
「なぜ?」
人影が答えた。
タイラスは右手に下げていた練習用の剣を影に向けた。
「王宮の地下には、幽霊がいると聞いた」
「たしかにいるかもしれないわね。あなたは何をしているの?」
雲が切れた。
かすかな月明かりが人影を照らし出す。
小柄で、やせた姿。
うす汚れ、くったりとしたドレス。
剣を向けられても動揺することなく立っていたのは、一人の少女だった。
夜目にもあざやかな、長い金色の髪と、まるでガラスのように透明感のある、若草色の瞳があらわになる。
人形かと思われるほど整った顔だちの少女に、タイラスは言葉を失った。
***
「剣の稽古を、こんな真夜中に? こんな人気のないところで?」
少女は声を抑えつつ、こらえきれずに笑った。
タイラスは顔を赤らめる。
「人に見られるのは嫌なんだ。不恰好だろう? この年で、剣を持つのは初めてだ。それに」
タイラスは顔をしかめた。
「ここでは……誰もが、俺をじろじろ見る。それが嫌だ」
「そう。わたしも、人に見られるのは困るの。だから真夜中に来るのよ」
少女は森を指さした。
「ここは少し明るいわ。森の中に行って話しましょう」
「森の中へ? 暗くて危ないんじゃないか?」
「奥までは行かない。北庭にも衛兵の巡回はあるのよ。あなたもここで暮らすなら、いろいろなことを覚えないと」
少女は迷いのない歩調で、すたすたと森に向かう。
タイラスは少女を追いかけ、二人は大きな木の影に座り込んだ。
「名前を教えてくれ」
「だめ」
少女にはっきり断られたタイラスは、しょんぼりとしてうつむく。
「俺の名前は」
しかし、言いかけたタイラスの口を、少女はそっと手で押さえた。
「……あなたも、軽々しく自分の名前を言ってはだめよ。王宮は怖いところなんだから」
その声には思いやりがあったように、タイラスには感じられた。
「……きみのことを何て呼んだらいい」
「じゃあ、『幽霊』と呼んで」
少女はそう言って、微笑んだ。
「ねえ、それより。剣を教えて?」
「人に教えるほど上手くない。俺も稽古を始めたばかりだから」
「ならぴったりじゃないの。一緒に練習しましょう。それならいいでしょう?」
***
こうして、タイラスは王宮で初めて友達を得た。
夜中に一緒に剣の練習をしたり、手をつないで夜の森を歩く。
そしてケンカもした。
やせている少女のために、こっそり食べ物を持ってきたタイラスを、少女は叱ったのだ。
「言ったでしょう。王宮では気をつけなさいと。いつ、誰が見ているかわからないの。あなたが何を食べ、何を残したか、召使いは常に把握してるのよ。あなたが食べ物をポケットに入れたら、いらぬ疑いを招くことになる」
そのいらぬ疑いが、回り回って、少女のところへ行くかもしれないのは、少年でもわかった。
「…………ごめん」
「いいのよ。わたしのことを考えてくれたのは、嬉しかった。でも、危険なことはしないで」
「わかった」
「さあ、もう少し散歩しましょう。月が明るいから、今日はここまでね」
月の光を受けて、少女の金髪がキラキラと輝いていた。
この少女は、何者なんだろう。
もう何十回も頭に浮かんだ問いを、タイラスは頭から追いやる。
月の光を受けて、神々しく輝く、みすぼらしい身なりをした少女。
しかしこの美しい金髪と、見る者の心を奪う、あざやかな若草色の瞳は隠すことはできない。
タイラスにはわかっていた。
この少女は、本来なら、自分が口をきくことすらできない、そんな高貴な身分の少女だろうと。
タイラスはそっと少女の右手を取った。
少女の目がきれいに見開かれる。
「森を出るまで、送っていこう」
まるで貴族のように。
家庭教師に叩き込まれた知識が、初めて役に立った、とタイラスは思った。
令嬢をエスコートする青年のふりをするのだ。
少女は細い手をタイラスの手に預け、はかなげに微笑んだ。
一人の、高貴な姫君のように———。
***
暗い地下牢。
低い天井近くの空気取りの窓が、カタリ、と音を立てた。
「アニスリゼットか?」
「はい」
小さな声がした。
「少し待ちなさい。きちんと窓を閉めたかい?」
「はい」
「よし。さあ、手をこちらに」
とすん、と軽い音がして、青年は少女を抱きとめた。
「アニス、誰にも会っていないだろうね?」
「もちろんです、お兄様」
地下牢の中には、質素ながら寝台が置かれ、床にはすりきれたカーペットも敷かれていた。
「この窓は、牢番に宝石をやって、やっとの思いで外れるように細工してもらったんだ。外を歩く姿を誰かに見られて、自分の身を危険にさらしてはだめだよ。いざというときには———」
そう言って、青年は不意に口をつぐむ。
「例の少年には、会ったのかな?」
兄の問いに、少女はうなづいた。
「ええ」
「宰相のランバート侯爵は独身だった。その少年は、おそらくランバートの養子だ。何かのいきさつで引き取ったのだろう……。いずれにせよ、もう、会うのは止めなさい」
「はい。お兄様」
悲しげにうつむいた少女に、兄は言った。
「辛くなるのは、おまえだから」
「あと一回だけ、会うのを許してください。最後に、お別れを言いたいのです」
「アニスリゼット———」
「わかっています。何も言いません。ただ、お別れを言うだけです」
少女が眠った後、両親と兄は小声で話し合った。
「牢番が……処刑が近いかもしれないと」
息子の言葉に、母は泣き崩れた。
「アニスだけでも、助けてあげることはできないの? あんなに小さくて。あんなに……」
少女が地下牢から抜け出す窓は小さく、大人達が窓から脱出できる可能性はなかった。
「……希望は失わないようにしよう。レオ、まだ、隠し持っている宝石はあるのか?」
「はい、父上。母上のコルセットに縫いつけたものが……」
ささやくような声での話し合いは、夜更けまで続いた。
***
「もう会わない。今日はそれを言いに来たの」
少女は穏やかに微笑みながら、タイラスに言った。
「なぜ」
「理由は言えない」
「じゃあ、最後に、きみの名前を教えてくれる?」
「いいえ。わたし達は、お互いの名前を知らない方がいいの」
「じゃあ、せめて年齢を教えてくれ」
「……十四歳よ」
「俺もたぶん同じだ」
「たぶん?」
少女が初めて、不思議そうな顔をして、首をかしげた。
「孤児で、誕生日がわからないから。でも、同い年くらいに見えるだろう?」
タイラスが両手をアニスに差し出した。
アニスの目にも、二人の手は、同じくらいの大きさに見えた。
「今度こそ、お別れよ」
それはまるで永遠の別れを告げているように響いた。
「きみを探すよ」
タイラスは声をふり絞る。
少女が泣いていないのに、男の自分が泣くわけにはいかない。
「名前を」
少女はやはり、首を振る。
「では、きみの瞳の色を、覚えているよ。こんなきれいな目は、初めて見たから」
「ありがとう」
タイラスは、少女の手を取った。
ひざまづいて、そっと口づける。
「生まれ変わっても、絶対あなたを探し出す」
少女の手が震えた。
タイラスは、少女が何と答えてくれるか、ただ待った。
おそらく、彼女が何と答えても、もう、希望はないのだ。
そんな悲しい予感がタイラスの心を埋め尽くす。
待つ時間は、永遠のように感じられた。
やがて、タイラスの頭上から、優しい声が降ってきた。
「わたしの帰る場所は、あなたのところだけ」
少女はそう言うと、そっとタイラスの手を外した。
かがみ込むと、タイラスの額に小さなキスを落とす。
少女が去る姿を、タイラスは森の中から見守るしか、できなかった。
***
それから数日後。
王宮北棟の北の庭に、耳を覆うような、恐ろしい悲鳴が響き渡った。
しばらくして、地下牢からおおいを掛けた遺体がひそかに運び出される。
大人が二体。
やや小柄な体が一体。
そしてとても小さな体が一体。
最後の遺体をおおう布の下から、長い、白い髪が一束、揺れていた。
この日以来、地下牢は閉ざされ、王宮の地下にいるという幽霊の声を聞く者は、いなくなった。
***
タイラスが少女と会えなくなってから、二週間が過ぎた頃だった。
家庭教師の授業を抜け出したタイラスは、王宮内を歩き回っていて、偶然、養父である宰相が激怒している現場に行き合わせた。
「処刑されたというのか!? 国王陛下、王妃殿下、王子、それに王女殿下も? 王女殿下はたった十四歳なのだぞ?」
(十四歳!?)
「王女殿下は———アニスリゼット王女殿下は……」
タイラスは壁にぴたりと体を押し付けて、動揺を抑える。
「今となっては、王弟殿下が
アニスリゼット。
アニス?
それは、タイラスにとって、初夏の代名詞。
タイラスの暮らした孤児院で咲いていた、小さな白い花。
少女のさわやかな若草色の瞳が、アニスの花畑の記憶とつながる。
「アニス」
彼女は死んだ。
タイラスはやっと、愛しい少女の名前を知ることができたというのに。
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