【スピーナ ―spina― (棘)】
「おお、栗原、こっちだ。随分早かったな」
「いいえ、遅くなりましたよ。やっぱり渋滞から抜けられなくて。近くのコンビニに駐めて、そこから走ってきました」
「あの上等そうな新車を置いてきたのか。大丈夫かよ」
「最新式のイモビライザー(盗難防止装置)付きですからね、大丈夫ですよ」
「そうか。やっぱ高級車は違うねえ」
「そんな事より、葛木さんこそ、どうしてこんなマンションの屋上なんかに。下からは高過ぎて見えないでしょ」
「それだよ」
「それ……え? ビールですか。飲んでたんですか、ここで」
「誰にも言うなよ。ここ、穴場なんだ。本庁にも近いだろ。下の管理人が知り合いでな。本庁に行く用事がある時に、ちょっとした休憩に使わせてもらっている」
「で、缶ビールを飲んでいたんですか。勤務中に。しかも、こんな朝っぱらから。マズいじゃないですか、それ」
「だから誰にも言うなと言っているんだ。大丈夫だろうな」
「ええ。誰にも言っていません。言われたとおりに。ですが、僕の出勤時間が……」
「バカヤロウ、そんなのは後でどうにでもなる。俺が署の方に話してやるし、だいたい、こういう緊急事態なんだ。署長も人事係も分かってくれるさ」
「頼みますよ。――それで、その自殺しようとしているのは、あの人ですか」
「ああ。落ちないように、今は彼女の右手と柵を手錠で繋いである。まったく、ここで静かに一本飲んで帰るつもりだったが、とんだのに出くわしちまった」
「本庁のキャリアだと仰ってましたね。厄介ですね」
「本庁捜査二課長の安西警視正だ。よく知った顔だよ。女のキャリア組の中でも美人で有名だからな。だから大げさな事にはしたくない。内密に、俺たちだけで完結させよう。どういう事情があったのか、まだ何も聞いてはいないが、まあ、どう間違っても同僚だ、詮索するのはよそう。なんとか彼女を説得して、この柵の内側に戻して、後は自宅に送り届ける。それさえできればいい。とにかく、この柵の内側に戻さねえとな。力ずくでも。それには俺一人では無理だ。相手は若いし、女だし、俺たちの上司だ。ぶん殴って気絶させる訳にはいかねえだろ。だから、おまえを呼んだんだ」
「……」
「溜め息なんぞ漏らしてないで、さっさとこの柵を乗り越えて、こっちに出ろ」
「ここで、ですか。向こうから彼女の後方で外に出て、二人で挟み撃ちにした方がいいのでは」
「馬鹿。相手は警視正様だぞ。そんな失礼な事ができるかよ。それに、俺たちに警戒もしている。手錠で柵に繋いではいるが、当然、彼女も鍵を持っているはずだ。自分で手錠を外すかもしれん。目の前で現職のキャリア警官に飛び降りられてみろ。俺もおまえも、警官としてはお終いだぞ」
「分かりましたよ。まったく、なんで僕まで……」
「気をつけろよ。そこ、少し滑るからな。ま、こんな事を頼めるのも、義理の息子のお前くらいしかいない。それに、おまえも知ってのとおり、俺は嫌われ癖が付いちまってる。女にもモテねえしな。彼女を説得するのは、歳が近そうなおまえの方がいいし、こういう事はイケメンのおまえの方が適任だ」
「うわ! 危ないな。押さないでくださいよ。――くわあ、やっぱ、外に出ると視線が違うせいか、高さを実感しますね。お義父さんもよくこんな所に」
「いいから、前に進め。時々強い横風が吹くからな、気をつけろ。柵から手を放すなよ」
「分かりました。行きますから、押さないで」
二人が柵に沿ってこちらまで歩いてくる。
「安西警視正、私の相棒の栗原です。彼と私とで、あなたを柵の内側に安全に戻します。いいですね」
今まで一度も話したことがないかのような態度。白々しい。視線すら合わそうとしないなんて。それなのに、堂々として私に話し掛けてくる。本当に、むかつく。
「栗原です。大丈夫ですか」
嫌いな顔だ。切れ長の細い目。整った鼻。薄い唇。見たくもない。神経が逆立つ。そのせいで、葛木さんの声までもが私の血圧を上げる。
「安西警視正、落ち着いてください。これから取り掛かりますから。ご覧のとおり我々は丸腰だ。転落防止用の安全帯を付けていない。この状態で、この強風の中、ここに立っているんです。私は落ちてもこの歳だからいいが、こっちの栗原はまだ若い。巻き込まないでくださいよ。事故が起こらないよう、慎重にいきましょう」
急に口調まで変えて。老獪とは、このことか。
「さ、警視正。僕の手につかまってください」
「触らないで!」
「どうしたんですか。ここは危ないですよ。僕が腰を持ち上げて差し上げますので、柵の向こう側に……」
「だから、触らないでと言ってるでしょ!」
その手。汚らわしい。近くにあるだけで吐き気がする。
「おと……葛木さん、駄目ですね。完全に興奮状態だ」
「そうか。仕方ない、あと一人呼ぶか。こっちから二人で持ち上げて、中からもう一人に引っ張ってもらうしかねえな。あと、安全帯も持ってきてもらおう」
「大丈夫ですか」
「ああ、心配するな。口の堅い奴を知っている。俺が弱みを握っている奴だ。近くの署だからな、すぐに来るだろう。あれ、くそ。駄目だ、バッテリー切れだ。おまえ、ケータイ持ってるか」
「え、ああ、持ってます。ちょっと待って下さい、片手ではポケットから出しづらくて」
今だ。今なら……。
「よっ。危ない。やっぱ風が強いですね。柵につかまっていないと無理か……。片手作業となると、こりゃあ、葛木さんの言うとおり二人で持ち上げないと無理ですね。はい、どうぞ。スマホです。使い方は分かりますよね」
「ああ。悪いな。俺が電話している間、彼女の気を引いておいてくれ。近くで話しでもして」
「わかりました……」
どうして葛木さんは私をあんなに強く睨んだのか。今なら実行できたのに。やはり、この手錠を外した方が……。
「駄目ですよ、警視正。せっかく葛木さんが安全帯の代わりに付けてくれたんですから」
そのわざとらしい笑顔。切り裂いてやりたい!
「ああ、もしもし、俺だ、葛木だ……」
葛木さん、助けて。この人は嫌い。
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