【モッレース ―molles― (やわらかい)】
「息を吐け! 口を閉じるんだ。右手を放すなよ。そうだ、鼻からゆっくりと吸え。そうだ。ゆっくりだ」
葛木さんの声。分からない。暗い。寒い。体が冷たい。
冬だ。クリスマス。私は相方とクリスマスを過ごした。イブの夜は相方が夜勤とのことだったので、次の日の夜に二人で過ごした。購入したばかりの、このマンションで。二人で飲んで、二人で風呂に入り、二人で寝た。朝まで何度も……。プレゼントは貰えなかったが、共に素晴らしい夜を過ごしてもらえた事、それがあの時の私には何にも勝るプレゼントだった。私からは腕時計をプレゼントした。お揃いのデザインの高級ペアウォッチ。彼のバンドは青、私のは赤。私からの精一杯の気持ちだった。
正月は互いの実家に帰るという事で会えなかった。年が明けて、二人で温泉に行って、バレンタインを過ごして、ホワイトデーを楽しんで……。彼があまり来なくなったのは、新年度になる少し前の頃から。ベランダのプランターに花が咲き、それはどんどん増えていった。赤い薔薇の花。今ではベランダを埋め尽くしている。
「おい、大丈夫か。ちゃんと俺が見えているか」
お願い。私に触らないで。触れないでほしい。どうして助けたの。あのまま意識を失っていたら、神様が私をこの屋上から落としてくれたかもしれないのに。
「よし。ちゃんと見えているみたいだな。手を離すぞ。ちゃんと立てるか」
くやしい。くやしい。
「ええ。もう、大丈夫です。ちょっと目眩がして……」
「ふう。焦ったよ。悪かったな。別に、そんなつもりで話した訳ではないんだ。本当に悪かった」
どうして。謝られる覚えはない。どうして。
なぜ私から言葉が出てこない!
「大丈夫だ。少し退がるから、安心しろ。警戒しているんだろ? 俺のことを」
確かにそうだ。警戒している。それも極度に。普通なら殺されているだろう。最低だ。最低だ。最低だ。私は最低だ!
「心配するな。ほら、もう手は届かない距離だ。な、だから、どうか落ち着いてくれ」
「私は……」
右手が重い。手首に重みを感じる。
「これは……」
手錠だ。鉄柵の手すりを掴んでいた右の手首と鉄柵の鉄棒が手錠で繋いである。
「すまんな。悪く思わんでくれ。あくまであんたの安全のためだ。さっきみたいに、こっちが話している途中で過呼吸みたいな事になられたら、かなわんからな。念のために繋がせてもらった。手帳は?」
警察手帳。古い警官はそう呼ぶ者が多い。旭日章のことだ。今は警察バッジと呼ぶ警官の方が多いかもしれない。当然、これは常に携帯している。私たち警察官の命だ。そう教わった。だから、上着に特別に作った紐通し用の穴に紛失防止用の紐で繋いで、内ポケットに仕舞ってある。手錠の鍵と一緒に。
「あります。当然です。それが何か」
「そう、とげとげしい言い方をするな。もっと柔らかくなれよ」
うるさい。あなたに言われたくない。
「どっちだ。右か、左か」
「左に……」
そうか、しまった。
「じゃあ、右手じゃ取れないな。鍵もそっちだな」
頷くしかない。大抵の私服警察官は支給された手錠の鍵に警察手帳の紛失防止紐を通して共に持ち歩いている。私もそうだ。どちらも上着の内側の、左胸の前のポケットの中に入れてある。でも、右手が手錠で繋がれていては簡単には取り出せない。
「仕方ねえな」
何をしているのか。自分の上着の胸懐から手帳を取り出しているようだ。余計な事を。自分の歳を考えてほしい。背中を丸めて紐から鍵を取り外しているが、その上半身が横風に押されて傾いている。
危ない!
そこまで慌てて左手で鉄柵を掴むくらいなら、どうしてそんな無理をするのか。気が知れない。
「ほら。受け取れ。鍵だ。落とすなよ」
手錠の鍵は共通だ。渡してくれるのは有難い。でも、自分で繋いでおいて、どういうつもりなのか。
しっかり掴め。落とすな。左手は私の利き手ではない。しっかりと伸ばして受け取りたいのに、腕が伸びない。横風のせいか。視界に入る街の小さな景色のせいか。恐怖心が私の体を内へ内へと戻らせる。でも、目は瞑れない。掴まないと。小さな鍵だが、もし、ここから落として紛失でもすれば、上に報告をしなければならなくなるし、当然、事情も説明しなければならなくなる。それはまずい。しかも、共通する鍵の紛失となれば、庁内で大事になるかもしれない。絶対に落とす訳にはいかない!
集中しろ。指が震えて、パンツの左ポケットに上手く入れられない。落ち着け。ゆっくりでいい。中に入れるだけだ。
「よーし。仕舞えたな。無くすなよ。俺に万一の事があった場合、あんた、そこに取り残されちまうからな。スマホを持ってないんじゃ、助けを呼べないだろ。だから、渡しておく。これは別に不自然じゃない」
「勤務中だったのですか」
所轄署の警察官は退勤の際に貸与装備品一式を一度返却してから帰宅する規則になっている。彼がこの手錠を所持していたということは、まだ退勤していないという事だ。
「ああ。昨夜から最後の当直勤務だった。一応、昼までがシフトになっている。ここから飛び降りて自殺しようとした同僚を止めようとしたんだ。こんな所で何してたって話さ。仕事をサボっていたというのが順当だ。だから勤務中の方がいい」
「自殺しようとしているのは、あなたでしょ。私はあなたを止めようとして……」
「分かってる、分かってる。筋書の確認だよ。後々の事情聴取で話が食い違ったら不味いだろ。あんたもそう言ったじゃないか」
「では、やはり、死ぬつもりなのですか」
「それはあんたの方だろ。だから俺の話に乗った。自分が俺の代わりに死ぬつもりで、その柵を越えてきたんだろ」
だから手錠で私を繋いだのか。私の自死を防ぐために。そうだとすると、やはりこの男は……。鍵を出さないと!
「待て、待て。慌てて取り出そうとすると、落としちまうぞ。左利きじゃないだろ、あんた」
「やはり、あなた……」
「だから、しないって。やめたと言っただろ。そのまま鍵はポケットに仕舞っておけ。それを無くすと、俺の名前が要注視リストに載っちまう。監察のリストに元監察の刑事の名前が載ったら、マジで洒落にならん。キャリア組なら、あんたもよく分かるだろ」
確かに。そんな痴態が記録に残れば、監察部、人事部、警務部のトップが集まって会議となるだろう。泥をかぶるのは誰かと。確実に庁内の人間関係にひびが生じるし、下の大勢が振り回されることになる。どの派閥に付いて生き残るかで。想像しただけで吐き気がする状況だ。でも、それよりも、気がかりなのは……。
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