【サエペ ―saepe― (頻繁に)】

 手が震える。緊張なのか、恐怖なのか、本能なのか。まったく分からない。

 何かが聞こえた。下半身に力が入らない。呼吸が小刻みになり、耳の中に心臓が移動したかのように鼓動が鼓膜に響く。心拍音の合間に、低く、少しこもった声が割り込んできた。息を吸い、長く吐く。もう一度くり返すと、声が少しだけ明瞭になった。

「――大丈夫か。こっちを見ろ」

 相手を見る。やはり初老の男だ。日焼けした顔は年季が入っている。私が見てきた顔の中では鋭い顔の部類に入るだろう。尊敬し、見習ってきた先輩たちと同じ顔つきだ。酸いも甘いも嚙み分けているだろうし、臨機応変に事を運ぶことにも長けているのだろう。そんな人と……。本当に私で務まるのだろうか。

「初めてか」

「いえ、そういう訳では……」

「近くで見ると、いい女だな。歳は」

「三十四になりました」

「そうか。こういう事には、ちょうどいい年頃だな」

「どういう意味ですか」

「若い方がいいって事だよ。体力が要る」

「別に無理をするつもりは……」

「つもりは無くても、そうなるものさ。お互い人間だ。そんな事より、早く脱げ」

 顎で指されるのは不快だ。それに、ただ言う通りにはしたくない。私にもプライドがある。だいたい、この男は脱いでいない。背広の上着のボタンも留めているし、緩めてはいるが、ネクタイも付けている。ただ、手に握っている物。それは気になる。

「まだ飲むのですか」

「んん? ああ、入れとかねえとな」

 この男が握ったまま口に近付けているのはビールの缶だと思う。その缶の中にあとどれほどビールが残っているのか不明だ。つまり、彼がどれほど飲んだのか。

「そう怖い顔をするな。大丈夫だ。もう飲まねえよ」

 思わず息が止まる。男が缶を背後に放ったからだ。背筋に気持ち悪いものが走った。鈍い溜まった音がする。音は響かない。落ちて転がった缶の口からビールが零れて広がっている。きっと安物の発泡酒だろう。炭酸をはじかせながら床に滲みていく。

 彼は平気なのか。

 男に顔を向けると、まだ私の顔を覗き見ている。片笑みながら。気色悪い。

「縮こまっちゃいねえな。上等だ」

「葛木さんこそ。怖くはないのですか」

 険しい顔。一瞬だけだったが、そう見えた。今はまたニヤリと笑んでいるが……。

「今更ビビッてどうする。俺もあんたも、つまり、は一線どころか、越えちゃいかんものを越えちまったんだ。あとは、やるべきことをやる。それだけだろ」

「私は、そんな風には……」

「考えていませんか。じゃあ、どうしてその長い髪をまとめ上げて、しっかりと留めているんだ。やる気満々じゃないか」

「これは、邪魔になるからです」

 少しむきになって答えた自分が嫌になる。相手にすることはなかったのに。こういう事は淡々と進めればいいのだ。淡々と。

「そうだろうよ。だから俺は言っているんだ。あんたには、その気がある。だが、心と体は別だ。体は正直だ。もう、今、自分ではどうすることもできない。そうだろ」

 口を縛ってしまう。くやしい。確かにその通りだから。棒を握ったままの右手は、硬直して動かない。つま先と膝を意識して、必死になって下半身に力を入れる。また呼吸が早くなってきた。背中から汗が噴き出てくるのが分かる。

 葛木が私の足下を指した。

「だから早く靴を脱げと言っているだろう。そんな踵の高い靴を履いているから腰も引いてしまうし、そうすると、脳が緊張して呼吸が狂うんだ。早く脱げ」

 言っている事はもっともだ。自分でも分かっている。初めから脱いでおけばよかったのに、いらぬ配慮をして靴を脱がなかったことが悔やまれる。

 落ち着け。まずは片足立ちだ。慎重に。上げた脚の膝をゆっくりと折って、左手だけを使って靴を脱げばいい。脱いだら急いで、その靴を握ったままの左手で右手の上から棒を掴むのだ。自分の重心を確認したら、柵の向こうに靴を放り投げろ。そう。大丈夫。素足だ。ゆっくりと足底を床に着けたら、反対の足からも同じようにして靴を脱ごう。両脚とも震えている。落ち着け。同じようにして右手の向こうに靴を放り投げればいい。よし、上手くいった。

 素の両足で床を踏みしめてみると、不思議と足の震えが止まった。気分も少し楽になった。鉄柵の棒を握っている右手は依然として硬直しているが、さっきよりは落ち着いている。息も楽だ。

 葛木は背後の鉄柵に両肘を乗せて凭れたままだ。正面の眼下に広がる市街地を顎で指した。何だろう。

「少し遠くの方に視線を向けて見ろ。気が楽になるぞ。でも、絶対に真下は覗くなよ。その調子だと、あんた、本当に落っこちてしまうぞ」

 はるか下方で高速道路の上を流れる車がまるで米粒のように小さく見えている。真下など覗けるはずがない。そうするためには、このタワーマンションの屋上の輪郭の内側に巡らされた腰高の鉄柵の棒を握りしめている右手を放し、一歩外側に寄って、頭部を屋上の縁よりも外に出さなければならない。そんなこと、今の私にできるはずがない。この鉄柵を越えて、外側に降り立つだけでも意識が飛びそうだったのに。

 吹き付ける風にバランスを崩さないように注意しながら、右手で鉄柵を握りしめ、顔を葛木に向ける。髪をまとめておいて正解だった。普段通りに下ろしていたら、風に流された自分の髪で視界を塞がれていたことだろう。それでは失敗する。目的は遂げねばならない。

「そうリキむな。もっと肩の力を抜け。別に急いでいる訳じゃないだろ?」

 確かに。言われてみれば、そのとおりだ。急いては事を仕損じる。リラックスしよう。目的さえ遂げればいいのだ。そうすれば楽になれる。

「安西さんだったっけ。あんた、本気で死のうと思っているのか? 無理すんなよ」

 鼻で笑った言い方。しばしば癇に障る。

 鉄柵を越える時、靴を脱ごうか迷った。素足の方が、足元が安定するに違いないが、鉄柵を越える前に靴を脱げば、その脱いだ靴を鉄柵の内側に置き残すことになる。いかにも自殺する人間がやりそうな事だ。くさい演出だとか、劇場型の自死のつもりかなどと現場検証の際に笑われたくはない。それに、ピンヒールではないが、太くて少し高めのヒールがついた靴を脱いだ自分の身長でこの鉄柵に登り、外側まで越えられる自信は無かった。

 柵の内側で離れて転がっている私の靴を横目で見て、葛木が言う。

「あれ、どうすんだよ。何か考えとけよ」

 最初から脱いで奇麗に柵の内側に揃えて置いておけと言わんばかりだ。自殺者がするように。今更どうしろと言うのだ。

「ま、もう少し時間はあるだろう。それじゃあ、少しお話ししようぜ。なあ」

 何を話せと言うのか。高層タワーマンションの屋上の縁で思いつく話題などあろうはずがない。それに、葛木とは初対面だ。歳も違い過ぎる。共通の話題は無い。

 思えば、相方ともそうだった。彼の方が私より五歳年下だから、微妙に音楽や映画の好み、話題に上がる芸能人、振り返る思い出などにズレがあるのだ。

 それらは男女にとって決して埋められない溝というものではないし、五歳差程度の夫婦など普通の範疇だろうから、普通なら特に気にすることも無く穏やかに時を共有できるのであろう。ということは、つまり、私と相方の場合は普通でなかったのかもしれない。彼はあまり私と会話したがらなかった。初めは仕事で疲れているのだろうと思っていたが、次第に、時の流れが速い時代に生まれた我々の世代にとって、五歳の年齢差は会話の自然発生を阻むのだと自分に言い聞かせていたのかもしれない。私自身も彼との会話を避けるようになり、趣味の園芸に割く時間の方が多くなっていった。そのうち、彼が私に話し掛けてくるのは専ら夜の営みを求めてくる時だけとなった。そして、彼がこのマンションに来る時は、いつもワインを飲んで、会話をした。ワインが飲みたくて来るのではない。もちろん、会話がしたくて来るのでもない。彼自身の肉体の必要に迫られて来るのだ。つまり、彼が私のマンションに来るのは、私の肉体が彼に必要な時だったからに違いない。いつしか、私のマンションのベランダは花でいっぱいになっていた。

「おい、聞いているのか」

 ハッとした。葛木の声だった。いけない。つい考え込んでいた。集中を欠いていた。葛木は嘆息を漏らしている。こんな事では軽んじられる。集中しなくては。

「おい、大丈夫か。これじゃあ、どっちがどっちだか分りゃしない。ボーとしないでくれよ」

 呆けてなどいない。この男の言は癇に障る。私は鋭敏だ。今のこの状況を理解し、その変化を把握している。そのつもりだ。余計な事は言わないで欲しい。

「あんたにここで転落事故死なんてされたら、警官としての俺の立場はどうなるんだ。その点はさっきも話したろ。頼むぜ」

 そんな事はどうでもいい!

 この葛木という男は所轄署の刑事だ。巡査長だと言っていた。話の様子から、どうやら私を説得して思いとどまらせたと勘違いしているようだ。そういう態度も癇に障る。実に不愉快だ。

「で、どうなんだ。俺の案に乗る気になったか」

 口の利き方も嫌いだ。いくら年上とはいえ、すこぶる不快である。

「いいえ。同意しかねます。私は目的を遂げると言ったはずです」

「そうかい。こりゃあ、困ったな。まあ、この屋上にあんたを誘ったのは俺だし、あんたが柵を越えてこちら側に出てくるのを承諾したのも俺だ。だから、ちゃんと付き合うよ。しかし、参ったな……」

「どうしても、自分に従えと」

「いや、そう言ったとしても、従わないだろ」

 当たり前だ。だれが、おまえなんかに。

「それに、あんた相当に頑固そうだもんな。こりゃあ、作戦変更だな」

「私は実行します。あなたがどう出ようと、成し遂げてみせます」

「分かってるよ。だが、俺の事も少しは信用してくれないか。そうじゃないと、俺とあんたと、二人で奈落に落ちる事になっちまう。そいつは御免だ」

「信用はしたいのですが、私にはそれだけの情報がありません。確かに私はあなたによってここに連れてこられましたが、私があなたについてきたのは、あなたを信用したからではありません。私の目的を遂げるためです。その覚悟は、こうして私がここに立っている事で証明できていると思います」

「ああ、分かっている。分かっているよ。あんたは本気だ。その点は信用している」

「では、そちらも教えてください。まず、この屋上への扉の鍵は、どのようにして手に入れたのですか」

 普通、一定の高さ以上のビルの屋上へは、安全に配慮して自由に出入りできないようになっている。まして高層ビルならば尚更だ。この高層タワーマンションの屋上も住人が自由に足を踏み入れられるわけではない。屋上への通用口の分厚いドアは常時施錠されているし、その鍵は管理会社が保管している。そもそも、オートロックのドアで塞がれているこのマンションの一階のエントランスをどうやって通ってきたのか。この男はここの住人ではない。自動ドアの暗証番号を知らなければ、中に入れないはずだ。もしかして、他の住人が入力するところを盗み見たのか。あるいは、住人を装って他の住人と共に入ってきたか。図々しく。いずれにしても油断がならない男だ。こんな人は嫌いだ。

「そいつは知らない方がいいんじゃないか」

「いいえ。知っておく必要があると思います」

 反射的にこう返してしまう自分も嫌いだ。子供の頃にこんなに自己主張の強い大人になりたいとは思わなかった。今の自分を若い頃の自分が見たら、きっと軽蔑するだろう。この葛木巡査長のように辟易とした顔で溜め息を吐くはずだ。

「はー。仕方ねえな。分かったよ。下の管理人さんにちょっと声を掛けて、鍵を貸してもらったのさ」

 疑わしい。いくら相手が警察官でも、管理人がそんな簡単に鍵を渡すはずがない。この男は嘘をついている。

「声を掛けただけで、鍵を貸してくれたのですか。そんな馬鹿な」

「――んん。そう怖い顔をするな。正直に言おう。刑事として正当に入手した情報を話題にして二人で会話したんだ。それだけだよ」

 やはり、そういうことか。

「つまり、何らかの事情を基に管理人さんを脅したということですか」

「脅したなんて人聞き悪い。ただ、ある行為を立件しない旨を刑事として正式に伝えただけさ。鍵を借りる時に、ついでにその事を伝えた。たまたまだよ、たまたま」

「鍵と交換に犯罪行為を黙認したと。しばしばそんな事をやっているのですか?」

「いいや。だから、たまたまだって。証拠が無ければ立件できないだろうが。それを教えただけだ。鍵の事は別」

「では、そうだとして、何故あなたがこんな事をしているのです?」

「こんな事って、俺は別に……」

 スマホの呼び出し。この強風の中でも振動音が聞こえる。私と会話をしている途中なのに、何の断りもなく通話に応じるなんて、なんと無礼なのだろう。

「はい。俺だ、葛木だ。――今、どこだ。――そうか、とにかく急げ。もたもたしていると、奴さん、マジで飛び降りちまうぞ」

 私のことを勝手に。

「バカヤロウ、事を荒立てるんじゃねえ! 応援なんか呼ぶんじゃねえぞ。おまえ一人来れば十分だ。何でもいいから早くしろ、いいな!」

 部下への恫喝。パワハラなどという言葉はこの男の辞書には無いらしい。呆れる。いつもこんな奴ばかり。そんな職場からは何も生まれない。正義なんて芽生えるはずがない。

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